神隠しの沼①
さらにひと月を経た。
トルプテン大陸中央から、やや北西に位置する自治都市カナンに入領して一週間。
素通りするだけのはずのカナンに、私たちは足止めを食らっていた。
……手持ちの旅費が底をついたのだ。
決して、贅沢をしすぎた、とかそういう間の抜けた理由ではない。
もともと、防犯上の理由で、現金はあまり持ち歩かないようにしていた。
街道沿いの、銀行のある各主要都市を通るように、計画性を持って旅していたのだ。
「口座照会装置の不調により、現在業務に遅延をきたしております。復旧作業に全力を尽くしておりますので、どうぞお時間をいただきますよう」
大陸広域銀行カナン市総合支所には、今日も急ぎの利用者が列をなしていた。
だが、答えは変わらず、前述の通りだ。
「参ったな」
「いいんじゃないの、ちょっとはのんびりしたってさ。宿代タダなんだし」
「俺も、あの宿なら文句ないです」
「文句ないです、じゃないだろう。旅程が遅れて仕方ない」
私はため息をついた。
道連れ二人はのんきなものだ。
初日に銀行でごねたら、復旧までの間、市内一の高級宿の続き部屋を提供された。……ごねたのはリオンだ、念のため。
宿泊代から食事から、全て銀行持ちという破格の待遇だ。
ナンバー13と14の名乗りがきいたらしい。名乗りだけではなくちょっとした実力行使でナンバーを証明する必要はあったが。
カナン市支所で開設した口座を持つ客に関しては、利用に問題はないようだった。
正式な発表はないが、全支所の情報が保管されている、本社との通信機構に何かトラブルが起こっているのだろう。
銀行と同種の通信機構を使っている賞金稼ぎ組合の、カナン支部でも事情は同じだった。
旅の遅延を伝えようにも、竜や鳥の物理的な郵送手段に頼るしかないのだ。
一応保険として、手紙は送ってある。しかし私営の郵章商は、金がかかる上に、検閲や中途での事故による紛失の可能性も高く、あまり信頼は置けない。
「急ぎの旅なら、羽指竜で送ってもらっちゃえばよかったのに」
レネーの無責任な言葉に、私は顔をしかめた。
「無茶言うな。あの連中に借りを作ってどうする」
最低限の要求だったから無事に済んだのだ。
もし少しでも怒らせていたら、どうなっていたか。あそこは彼女らのホームだ。どうにでもやりようがあった。
「それに、別に急いでいるわけじゃない。到着に余裕はみてる。ただ、以前伝えた予定より遅れそうだから、知らせる必要があるだけで」
エマの件でのひと月近くのロスは、もともととっていた猶予期間で十分にカバーできた。
だがここであまりに遅れるとなると話が変わってくる。
こんなことなら、あの『峰』の連中からいくらかいただくか、散乱していた宝飾品の一つでもくすねてくるんだった。
直前に自分で言ったことも忘れて、私は後悔した。
一週間も待ちぼうけとなると、いい加減にすることもなくなってくる。
目的地までの旅費の計算や領収証書の整理も終わってしまった。遊ぶ気もないが、現金がないのでしたくてもできない。
部屋で一人、暇に飽かせてうたた寝をしていると、続き部屋の中扉をノックする音がした。
「クリス、お茶淹れたから一緒に飲も」
寝室の間にあるリビングスペースに入ると、すでにリオンが席についていた。
彼は私の姿を見るや、立ち上がってテーブルを回り込み、自分の向かいの椅子を引いた。
「どうぞ、クリス」
「ありがとう、リオン」
礼を言って座ると、リオンは上機嫌に自分の席に戻った。
最近はようやく馴れてきたのか、リオンの言動にいちいちドキドキすることもなくなっていた。
彼がどうやら何をするにも深く考えず、脊髄反射だけで生きているらしいと、私は気付きつつあった。上位ナンバーで、危険なことも(ハンゼでの誘拐は例外として)めったにないとなると、考えるのも面倒なのだろう。気持ちはわかる。
思わせぶりな言動の裏にある真意など、勘ぐるだけ無駄である。
そう思い、努めてレネーと同列に扱っているうちに、初めて異性と身近に接して舞い上がっていた気持ちも、落ち着いてしまったようだ。
リビングには宿の庭園向きのバルコニーがあり、シンメトリーに刈り込まれた生け垣と季節の花壇の造形が眼下に広がっている。
やわらかな日差しが室内に差し込む。
お茶の時間には少し早いが、レネーの注ぐ高級香茶の香り立つ湯気と茶菓子は、充分に気分を浮上させてくれた。
リオンはすでにカップに口をつけている。
レネーが席につくと、三人して、しばし無言が続いた。
一文無し同然の身の上であることさえ忘れれば、今この瞬間、私の心は平穏で、充足していた。
こんな時間の過ごし方があることを、数ヶ月前の私は知らなかったのだ。
レネーは香茶をすすりながら、本を広げた。
黒っぽい皮革の装丁に飾り文字がおされている。『第三の書』。
レネーの父の形見だという本のうちの一冊だ。
「魔法の勉強か?レネー」
「まあね」
魔法書なるものに興味が湧いて、私は彼の後ろに立って本をのぞき込んだ。
「…………レネー、こんなもの読めるのか」
「実はほとんど読めてない」
レネーはてらいなく、笑いながら答えた。
文章自体は共通語で書かれているのだが、ところどころに、外国語だか古語だかの見たこともない文字や、共通文字で書かれていて音だけは何となくわかるが聞いたこともない単語が混じっている。
文章にしても、小難しい言い回しで意味がとりづらい部分が多い。
「タワドで、ご贔屓だった先生に読み書き演算は教えてもらったけど、こんなのまではね。でも、クリスも読めないの?」
「普通は読めないだろう、こんなの」
レネーの言いぐさに、私は顔をしかめた。
「そうなの?リオンは読めるよ。学校行ってりゃ読めるのかと思ってた」
私は思わずリオンの方を見た。
彼はつまらなそうに頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「エーメダルのごとき……閉鎖……トルグ、ル、の範疇において、『……』の色彩と……セイプネカは、自己表現の……プロセスを……」
つっかえつっかえ、レネーが音読する。
声に出してみても意味不明なのは変わらない。レネーはリオンの前に本を突きだした。
「リオン、これ何て読むの」
「アーバルーザ。『現世の鳥』」
リオンはちらりと目をやると、無造作に答えた。
「『物質界のごとき静的閉鎖系の範疇において、『現世の鳥』の色彩と形状は自己表現を目的とする進化プロセス途上での停滞状態を示していると考えられる。』……なあ、お前、こんなもの読めても仕方ないぞ」
すらすらと一文を読み上げる様子に驚いていると、彼はレネーをたしなめるように、本をトントンと指で叩いた。
「何で?これも魔法書でしょ」
「魔法書は魔法書でも、『第三の書』はでたらめだ。架空の呪文体系を本物みたいに書いて、偽書きだっつって発禁になったんだ」
「まじで?でも高く売れるって言ってなかった?」
「希少価値のせいだ。筆者が有名人だから。魔法の勉強したいなら、あっち読むか魔法使いの弟子になれよ」
あっち、と言いながら彼が示したのは、レネーの持つもう一冊の本だった。
『伝承歌と呪文』。
「あれ全部読めて、自力で呪文式つくれるなら、師匠はいらないけどな」
「あっちはもう全部読んだよ、何回も。こっちは読みにくくて敬遠してたけど、もちょっと魔法力がマシになる方法、載ってないかと思ってさ」
「呪文は、発声と発音でちっとは違うが……でもお前の場合どっちにしたって、自分にも大して効かないんだから、あきらめた方が無難だ。ナイフ投げの練習しとけ」
「冷たいなあ。これでも最近、効きが良くなってきたと思ってんだけど」
ぼやくレネーに、リオンは言った。
「クリスにだけだろ?」
「え?」
「俺にはちっとも効かないじゃないか」
そういえば。
私は思い出した。
道中、軽いすり傷切り傷を負うことはよくあった。そんなときにレネーの使った魔法は、私には少し効いたが、確かにリオンには全くこれっぽっちも効果がなかった。
ケンカばかりの二人のことで、わざとそうしているのだと私は思っていたのだが、どうも違うらしい。
レネーが自信なさそうに首をひねった。
「そう言われてみりゃそうかな」
「クリスには、エマなんたらの魔法もよく効いてた。効きやすいんだ。耳がいいから」
魔法使いが呪文で他人にかける魔法は、自分自身にかけるものよりかなり効力が落ちるというのが一般的だ。
呪文が正確で、相手との距離が近く、周囲が静かであるほどその差は縮む。
条件が悪くとも、聴力が良い相手ならば、勝手に音を拾ってくれるので効力も上がるのだ。
リオンはそう説明した。
私は知らず自分の耳に手をやった。
「あー……そういうこと?」
「そういうことだ」
リオンのそっけない言葉に、レネーはがっくりと肩を落とした。
「でも、偽書きかあ。親父も妙なもの遺してくれちゃって」
レネーはパラパラとページをめくった。
「変な本だとは思ってたけどね。半分以上、変な絵ばっかりで」
ほら、と彼は、『変な絵』のページを私に示した。
目に飛び込んできた異様な図柄に、私は眉を寄せた。
星雲のように紙面を巡る螺旋。
不規則にページ間を横切る放物線。放射状に拡散する点と直線。重複し合う大小無数の円。集合し散乱する三角形。爆発あるいは浸食を連想させる、光と影の多角形の複雑な交錯。
単色刷だが、立体的でグラフィカルなパターンが、見開きいっぱいに描かれている。
規則性はどこにもない。だが、あいまいで有機的な線は一つもなかった。計算によって幾何学的に整列されたパターンだ、と私には思えた。
それは確かに、数量的に表現しうる何かを意味していた。
とても理解はできない。そう感じた、としか言いようがなかった。
「リオン、これは何の絵なんだ?」
「俺が知るわけないでしょう」
彼は肩をすくめた。
「読めば説明してあるかもしれないけど、魔法使いでもないのに、読んでも仕方ないし」
魔法使いが読んだって、偽書きでは仕方ない。彼は関心なさそうにそう続けた。
「詳しいようだがな」
「ガキのころ、身近に魔法使いがいたんです。だからちょっとは知ってる方だと思うけど。魔法力は全然ないですよ」
苦笑しながら、彼は茶菓子をバリバリとかみ砕いた。
ほどなくして、ささやかなお茶会に、闖入者の気配が割り込んだ。
新章開始です。
「神隠しの沼」編はキャラの関係性に変化の出る重要エピソードになります。
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