第八十七話:悪魔の所業
「よし、そんじゃまぁ寝ますか。どっちにしろ今んとこできることはないしさー」
「……そうですね」
如月さんの言葉に頷いて、部屋の時計を見ると、すでに23時を回っていた。
警戒するにしても、クシエルの動向がわからない限りはどうしようもない。
警察も奴の行方を追っているわけだし、今の僕たちにできることがないのなら、体調を万全にしておくべきだと思う。
なにしろ今日は本当に疲れた。
身体が睡眠を欲しているのは明らかだった。
明らかなのだけど……。
「ん、どったの」
ベッドに腰かけたまま歯切れの悪い返事をした僕に、如月さんが首を傾げる。
「いや、なんとなく気になって……」
「ああ。彼女からまだ返事ないの?」
「だから彼女じゃ……まぁどっちでもいいですけど」
否定するのも疲れてきた。
それよりも気になるのは、グリーマルから未だに返事がないことだ。
いつもなら、ちょっと引くぐらいの速さで返事が来るのに。
なにかあったのだろうか。
そんなことを考えていた――その時、手の中のスマホが震えた。
「……あ」
画面に表示された名前は、『哀惜のグリーマル』
すぐにメッセージを開く。
『ごめんね。戦ってて、返事できなかった』
「え……」
「どうしました?」
隣に座っていた月城さんが、怪訝そうにこちらを見る。
「いや、これ……」
「なになに? 連絡ついたの?」
月城さんにスマホを差し出すと、如月さんも興味深そうに覗き込んできた。
戦ってた……?
ずっと返事がなかった理由が、それ?
いやいや、穏やかじゃないぞ。
そう思っている間に、再びスマホが震えた。
『天使2人、戦ってる』
…………天使?
それも2人?
今まさに、グリーマルが?
「この子、戦いながら返事してるの? なんか、執着心ちょっと怖いんだけど」
「そんなことより、天使ですよ。天使って言ったら……」
「クシエルですわね、恐らく」
月城さんと同じことを、僕も考えていた。
このタイミングで現れた天使……クシエル以外に考えにくい。
「さらに2人ときた。片方がクシエルなら、脱走に共犯者がいたってことになるのかな」
「共犯者……」
だから、厳重な封印から脱出できた?
いや、今それを考えている場合じゃない。
『どこで?』
送信。
「どこで? って……どうするつもり? 助けに行くの?」
「そりゃ、そうでしょう。相手がクシエルならほっとけませんよ」
「……そういうことじゃなくて、さ」
その声を聞いて、顔を上げると、如月さんの雰囲気が――がらりと変わっていた。
いつものおどけた感じではない。仕事中に見せる真面目ぶった感じでもない。
時々見せる、大仰で芝居がかった姿とも違う。
目の前に立っているのが、本当に人間ではない『なにか』なのだと。
そんな当たり前の事実を、改めて思い知らされるような。
「日向さん」
「……はい」
「君が戦おうとしている相手は『天使』だ。それは理解しているかい?」
なんて言ったらいいのか。
ちょっとこう……非人間的な。本当に、『魔王』みたいな。
……思わず、少しばかり気圧されてしまう。
「……理解してますよ。それも2人いるって。だから急がないと」
「戦うってことは、殺すことになるかもしれない。いや、相手は2人だ。そうでもしなきゃ止められないだろう。わかってる?」
「……わかってますよ」
「いいや、わかっていないよ」
「なにがですか」
如月さんが、静かに僕を見下ろす。
「いいかい。『天使』がいるってことは、『神』もいるってことだ」
「神……?」
「そうとも。『神』だ」
今までにも、都市伝説だとか、宇宙人だとか、異界人だとか……わけのわからないものには散々会ってきた。
天使だって、実際にこの目で見ている。
それでも――『神』という言葉だけは、どうにも現実味がなかった。
「私だって遠い昔は天使だったからね」
「え?」
「昔すぎてあまり覚えていないが……『絶対的な存在』に傅いていたことだけは覚えているんだよ」
さらっと、とんでもないことを言ってないか?
いや、悪魔なんだから元は天使でもおかしくないのか。
……もうなにが普通なのかわからなくなってくる。
「それがどうしたっていうんです?」
「『天使』ってのは『神』の眷属だ」
如月さんの目が細くなる。
その表情からは、どんな感情なのか……まるで読み取れない。
「それを『殺す』ってことはね、神への反逆だ」
「反逆……」
「それはまさに、悪魔の所業だよ。少なくとも死後の地獄行きは免れないだろうね」
地獄。
まぁ……実在するんだろう。なんせこの人は『地獄の公爵』らしいから。
「それも、敵の女を助けるためにだ」
如月さんの声が、静かに続く。
「いいかい、よく考えるんだ。本当に君がそれだけのことをする理由が、その女にあるのかどうかをね」
「日向さん……」
月城さんが心配そうに僕を見て、息を飲む。
言いたいことはわかる。
僕だって同じ立場なら、止めると思う。
グリーマルは敵だ。
いつか本当に殺し合うことになるかもしれない相手だ。
そのために天使と戦って。場合によっては殺してしまって。
死んだ後にまで、その報いを受けるかもしれない。
だとしても――
「行きますよ」
「理由を、聞いてもいいかい?」
「……小春さんに初めて会った時、薄れる意識の中で聞いた言葉があって」
「へぇ、なんて?」
「この世界では、『恩知らず』が真っ先に死ぬんだよって」
あの時は、意味なんてわからなかった。
なんの話をしているのかさえ、よくわかっていなかった。
でも、なんだか心に残る、言葉だった。
「その時は意味がわからなかったけど……今ならわかる気がするんです」
月城さん。如月さん。小春さん。伊吹さん。ピューイさん。朝霧。
それ以外にも、僕はたくさんの人に助けられてきた。
「こうして、こんな姿になって、たくさんの人から『恩』を受けて」
「僕は、それを返さなきゃいけない。助けられたなら助けられただけ、あるいはそれ以上に」
「……考えすぎだよ」
「そうかもしれません。でも……僕は弱いから、誰かに助けてもらわないと戦っていけない」
昔の僕とは比べものにならないぐらい、『ステータス』は強くなったのかもしれない。
でも、僕一人でできることなんて限られているから。
「いざという時に『恩』を忘れる奴を、誰が助けてくれるって言うんですか」
「ギブアンドテイクってやつかい?」
「そうだけど、それだけじゃなくて……」
伝えるのが難しい。
だけどこれは、僕の……
「これは誇りの問題です。僕自身が、『恩知らず』になりたくない。僕自身が、『助けたい』と思える自分でありたい」
「グリーマルは僕を助けてくれたんです。僕を死なせたくないって」
「なら、助けなきゃ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、如月さんが大げさに息を吐く。
「はぁ……お嬢様もなんとか言ってやりなよ。このままだと彼、地獄行きだよ」
「なにを言っても無駄だと、わかってるんでしょう?」
月城さんは困ったように笑って、それから僕を見る。
「それに、彼が地獄に行くなら、私もお供しますわ」
「ふぅ……覚悟決まりすぎだよ」
如月さんが肩を落とした。
さっきまでの圧が嘘みたいに消えている。
「んじゃしょうがない。場所はわかってるの?」
「返事はないけど……わかると思います」
さっきから、グリーマルの既読はつかない。
戦いに集中しているのかもしれない。
だったら返事を待つよりも、別の手段だ。
「月城さん、『人探し』の魔術をお願いできますか?」
「え? ええ……でも、会ったことのない相手には……」
「『魂』を探すんですよね?」
グリーマルの、鼓動の奥にあるもの。
魔力の源、それこそが『魂』
あの時、グリーマルの『それ』に触れた。『それ』を感じた。
あの感覚は今でも、はっきりと覚えている。
「僕はグリーマルの『魂』に触れたから……如月さん。そのイメージを僕の思考から読み取って、月城さんに伝えることはできませんか?」
「できないことは、ないよ」
如月さんが、ものすごく嫌そうな顔をした。
「でも、すごい疲れるんだよね。しばらく動けなくなるくらい」
「お願いします」
「即答かぁ……」
「お嬢様だって、だいぶたいへんだよ?」
「望むところですわ」
如月さんはしばらく僕を見つめていたけど、やがて観念したように肩をすくめた。
「ま、しょうがないね」
そして、にやりと笑う。
「可愛い彼女のためだもんね」
「だから、はぁ……」
ぶれないなぁ。
でも、この人はこれでいいんだと思う。




