第八話:不快な訪問者
翌朝。
目覚まし時計のアラームを止めた僕は、布団に横になったまま、見慣れた天井を眺めていた。
昨日は月城さんの家から車で送ってもらい、帰宅してすぐに眠った。
豪華な部屋。
ひどい怪我と、それを治したという『魔術』
そして、よくわからない『力』と、『咲の魂』
情報量が多すぎて、なにから悩めばいいのかわからないし、冷静になって考えてみると、どれも現実の出来事とは思えない。
「やっぱり、夢だったんじゃ……」
『パラッパッパー!』
脳内に直接響き渡る、安っぽいファンファーレ。
「またかよ……」
時折、何の前触れもなく頭の中で鳴り響く謎の音。
少し前までは、ただ鬱陶しいとしか思っていなかった『それ』が、現実逃避を許してくれない。
……どう考えても、先日の出来事と無関係のわけがない。
わからないことを考えてもわからないので、考えるのをやめる。
朝の時間というのは貴重なものだから、有意義に使うべきだ。
そう思って、時計へ目を向ける。
「まずい!」
時計針は、のんびり考え事をしていていい時間をとっくに超えていた。
慌てて布団から飛び起き、スーツへ腕を通す。
ネクタイを締める時間も惜しくて、鞄へ押し込んだままアパートを飛び出した。
「日向さん。今日はずいぶんと顔色がいいですね」
定時が近づき、残っていた事務作業を片付けていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、後輩の朝霧が立っていた。
相変わらず、シワ一つないスーツを綺麗に着こなして、雑誌のモデルかと思うほど整った容姿に爽やかな笑顔を浮かべている。
「そうかな。昨日はよく眠れたから、そのせいかもしれないね」
「へえ……」
朝霧は僕の顔をじっと見つめた。
なんだろう。
顔に何かついているんだろうか。
「単に睡眠不足が解消した、という感じでもないですけどね」
「そんなに違う?」
「別人みたいに違いますよ。特に表情が明るくて……何か心境の変化でもありましたか?」
思わず自分の頬へ触れる。
自分では、いつもと同じ顔をしているつもりだった。
表情が明るいなんて話なら、どんな時でも完璧な笑顔を崩さない朝霧の方が、よっぽどそうだと思うんだけど。
「いや、特には……」
曖昧に答えながら、昨日の月城さんとの会話を思い出す。
どれも簡単に信じられるような話ではない。
だけど、ただ理由もわからず眠り続ける娘を見守るしかなかった底なし沼のような日々に比べれば、わずかとはいえ『光』が差したように感じたのは事実だ。
無意識のうちに、それが表情へ出ていたのかもしれない。
「そういえば、咲ちゃんの具合は――」
「悪い、朝霧。定時だから、もう行くよ」
朝霧の言葉を遮り、鞄を手に取る。
今は、咲のことについてうまく話せる自信がなかった。
「お疲れさまです」
背後から聞こえた爽やかな声に片手を上げ、そのままオフィスを出た。
エレベーターへ乗り込み、閉じていく扉の向こうを見る。
朝霧は自分の席へ戻らず、まだこちらを見ていた。
いつもと同じ笑顔。
そのはずなのに、なぜか少しだけ違って見えた。
会社から出た僕は、いつものように咲の眠る総合病院へ向かった。
ロビーに入ったところで、足が止まる。
受付近くのソファに、見覚えのある男が座っていた。
病院という場所には不釣り合いな、仕立てのいいスーツ。
足を組み、自分が座っている場所こそ特別席だと言わんばかりの態度。
男は僕を見つけると、口元へ薄い笑みを浮かべて立ち上がった。
「お待ちしていましたよ、日向さん」
九条竜也
ベンチャー企業の社長をしているという男。
僕に隠れて妻と関係を持っていたという相手で――つまり、咲の生物学上の父親だ。
この男の顔を見るだけで、ほんの少し上向いていた気持ちが、みるみるうちに沈んでいく。
「こんなところで待ち伏せですか。ずいぶんと暇な会社なんですね、九条さん」
「手厳しいですね。私も忙しい身ではありますが、何よりも優先すべきことがありますから」
九条は悪びれる様子もなく、僕の方へ歩み寄ってきた。
「そろそろ、良い返事を聞かせていただきたい。咲の身柄についての同意書には、署名してもらえましたか?」
自分が育てたわけでもない娘を、当然のように呼び捨てにする。
それだけで、腹の奥に燃え上がるような熱を感じた。
「お断りします。咲は僕の娘ですから」
「やれやれ……」
九条は大げさに肩をすくめた。
まるで、僕が話の通じない子供であるとでも言うように。
「日向さん。これは咲と、あなた自身の未来を考えた建設的な提案なんですよ」
内ポケットから、分厚い封筒を取り出すと、それを僕の胸元へ押しつけるように差し出した。
無論そんなものを受け取る気はない。
視線すら向けずにいると、九条はわざとらしく小さなため息をついた。
「先日、この病院に不審者が侵入する事件があったそうですね」
身体が、わずかに強張る。
僕が殴り飛ばしたあの男のことだ。
その目的は月城さんの魔術だったけれど……危険な人間がこの病院へ侵入したこと自体は事実だった。
「セキュリティの甘い一般病棟に、意識のない娘を置き続けるなんて、親として胸が痛みませんか?」
九条は、僕が一瞬黙り込んだことを見逃さなかった。
「私なら、厳重に警備された医療施設で、最高水準の治療を受けさせてあげられます」
勝ち誇ったように、封筒を軽く振る。
「あなたも、入院費を工面するのは大変でしょう」
「だから、咲を金で買うとでも言いたいんですか?」
「困りますね。人聞きの悪い言い方はやめていただけますか?」
九条の笑顔は崩れない。
余裕そうに、明らかに侮蔑を含んだままで。
「私は、あなたに感謝しているんですよ」
感謝だと?どの口が。
そんな気持ちなんて微塵もないくせに。
「血の繋がらない、私の娘を今日まで育ててくれたことには、心から感謝しています。簡単にできることではない。あなたは本当に素晴らしい善人だ」
「だからこそ、この慰謝料と、これまでの養育に対する謝礼を受け取っていただきたいんですよ」
封筒を差し出したまま、九条が続ける。
ペラペラと鬱陶しい。
「あなたは、このお金で自分の人生をやり直せばいい。違いますか?」
やり直すだと?咲を売った金で、人生を?
本気で言っているのか?
「つまらない意地を張って、満足な治療も受けさせずに、危険な場所に娘を置き続けるのか。それとも、自分が身を引き、彼女を最高の環境へ移すのか」
「あなたが親を名乗るなら、どちらが咲のためになるのかわかるはずですよね?」
そうか。
僕が咲の治療を妨げていると言うのか。
なにも知らないくせに。
自分がしてきたことをすべて棚に上げ、自分こそが娘の将来を考えているのだと、正しいのだと。
そう言うのか。
なにも知らないくせに。
この17年のことも、この1年のことも。
咲と歩んできた日々のすべてを、なにも知らないくせに。
殺してやろうか。
あの魔術師の男のように。まるで漫画かアニメのようにこいつを吹っ飛ばしてやれば、この不快な男も黙るかもしれない。
「……黙れ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「怖い顔をしないでくださいよ」
そう言って九条は笑う。
僕になにもできないと思っているのか?
「僕は、咲と……」
言葉が続かない。
いや、もういい。言葉なんてもういいだろう。
右手を握り締めて前に出る。
「あら、日向さん」
凛とした少女の声が、病院のロビーに響いた。
硬い靴音とともに、白銀の髪を揺らしながら月城さんが歩いてくると、僕に向けて、いつもの上品な微笑みを浮かべた。
「ごきげんよう」
「月城さん……」
返事をすると、月城さんが視線を一瞬だけ、僕の握りしめた右手に向けた。
「ところで……」
微笑みは変わらない。
だけど、透き通るようなアイスブルーの瞳は、僕の目をじっと見据えて離さない。
「そちらの方は、どなたかしら?」
「な……あなたは……」
月城さんを知っているのか。
すごいお金持ちだというのは知っているけど、そんなに有名なんだろうか。
わずかに後ずさった九条の顔からは、先ほどまでの余裕ぶった笑みが完全に消えている。
「……今日は、この辺にしておきましょう」
封筒を内ポケットへ戻し、僕を忌々しそうに睨みつける。
「ですが、日向さん。現実をよく見ることです。愛や意地だけで、娘を救うことはできませんよ」
そんなことはわかってる。
愛しているだけでは、咲を目覚めさせることはできなかった。
でも、それでもだ。
『それ』だけが――僕にとってはそれだけが、すべてなんだよ。
「近いうちに、あなたも思い知ることになりますからね……」
不快な言葉を残し、九条は逃げるようにロビーを立ち去った。
握りしめた右手が、少しだけ痛かった。




