六十七話:家に帰ろうよ
もう言葉は必要ない。
無意味だ。こいつを生かしておいてはいけない。
咲を見たことが、こいつの罪だ。
罪は、消さなければ。
僕はすたすたと歩き、九条の正面へ移動した。
奴からすれば、僕の姿が突然消えたように見えただろう。
今の僕はレベル67。
いや、さっきここへ移動している最中に上がったから、レベル68だ。
素早さの数値は『71』。
単純計算で、常人の18倍近い速度で動くことができる。
僕を見失った九条の、無防備な腹へ拳を叩き込んだ。
「ぐぉっ……!?」
僕の力は『3』に固定されていて、成人男性の平均よりも低い。
だけど、無防備な人間にダメージを与えられないほど弱いわけじゃない。
九条が声を漏らし、ようやくこちらへ痛みにゆがめた顔を向ける。
その頃には、そこに僕はもういない。
もちろん、真っ直ぐ18倍の速度で走れるわけではない。
素早く足を動かしすぎれば身体が宙に浮いてしまう。正面へ進む速度に変換するには、どうしても効率が悪い。
でも、ここは都合のいいことに狭い室内だ。
室内ということは、壁がある。
天井もだ。
常人の18倍近い素早さと、それを制御できる器用さがあれば――こんなこともできる。
壁を蹴る。
斜め上へ跳び、天井に達する。
空中で身体を反転させ、天井を床のように蹴った。
僕の身体が一気に落下する。
九条の死角から、拳を叩き込む。
「がっ……!」
次は脇腹。
着地と同時に床を蹴り、反対側の壁へ。
九条の視線が追いつくより先に、また方向を変える。
僕の耐久力は、素早さほど高くない。
全速力のまま打撃を当てれば、九条より先に僕の拳が壊れるかもしれない。
だから、殴る瞬間には速度を落とす。自分が怪我をしない限界まで、繊細に。
移動は速く。打撃は正確に。
360度。全方位から。
拳。
「うっ……!」
背後へ回り、膝。
「ぐぅっ……!」
九条の身体を魔力が覆った。
事前の情報によると、奴が持っているのは、『速度が3倍になる魔術』と『耐久力が3倍になる魔術』。
そして最後に、『相手の好感度を高める魔術』。
でも、それも無駄だ。
速度がたったの3倍では、話にならない。
九条が振り返る頃には、僕はまた違う方向から拳を振るっている。
耐久力が3倍になったところで、僕が殴れる回数が増えるだけだ。
好感度?そんなものは、すでに最低も最低だ。ビジネスの場では役に立つのかもしれない。でも、この殺意の前では無意味だ。
そもそも、僕には魔法耐性レベル3がある。
魔力も『142』
『孤独のソリタス』や『哀惜のグリーマル』の精神攻撃にすら耐えたこの僕に、九条程度の精神攻撃が通用するはずがない。
「あ……う……お……?」
九条の口から、意味のある言葉が出なくなった。
全方位から何度も打撃を叩き込まれ、目の焦点も定まっていない。
九条から距離を取ると、ほんのわずかに助走をつける。
自分が怪我をしない程度にだけ、速度を乗せ――九条の胸に、足裏を叩き込む。
「ぐぉっ!?」
九条の身体が、ギャグ漫画みたいに吹っ飛んだ。
背中から高そうなキャビネットへ激突し、棚板や扉をまとめて粉砕する。
……もう起き上がることもできず、壊れた家具の中でうめき声を上げている。
「さて、九条さん」
九条が顔を上げる。
その目に浮かんでいたのは、困惑と恐怖だった。
「地獄で反省してください」
その時――だ。
「だめだよ、ひよりちゃん」
後ろから手を掴まれた。
振り返らなくても、誰なのかわかる。
「やめてください、如月さん。もういいんですよ」
「いいわけないさ」
掴んだ手を、如月さんは離さない。
「まだまだ、あなたの人生は続くんだよ」
「でも、こいつを殺さないと」
九条を殺さなければならない。
絶対に、殺さなければならない。
「咲を、こいつは……」
咲と、こいつの血が繋がっている。
それが。
それが、どうしても許せないんだよ。
如月さんなら、僕の気持ちがわかるだろ?
僕はその手を振りほどき、一歩前へ出た。
「わかるよ」
背後から、静かな声が届く。
「でも、私を信じてほしい」
「信じてますよ。でも……」
「大丈夫だ」
いつものように、迷いのない声だった。
「大丈夫だから」
如月さんが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「ねぇ。私との約束を覚えているかい?」
「はい……」
忘れるわけがない。
「『その時は、まず私が相手だ』でしたよね」
「ああ」
如月さんは頷いた。
「今が、その時だ」
そして。
「おいで」
その言葉とは裏腹に、如月さんは両手を広げた。
ゆっくりと近づいてきて。僕をぎゅっと抱きしめる。
「辛かったね」
「はい」
「寂しかったね」
「はい」
「許せないよね」
「許せないです」
如月さんの腕に力がこもる。
「全部わかってる」
その声は、すぐ耳元から聞こえた。
「あなたは、他の人が思うような『いい人』なんかじゃない」
「そうですよ」
僕はそんな人間じゃない。
いい人なんかじゃない。
約束を守っていただけだ。
それだけが、僕を支えてくれたから。
「あなたは、咲さんを口実にしていただけだ」
「そうですよ」
「信じられるものが全部崩れて」
如月さんの手が、僕の背中を撫でる。
「約束だけを立ち上がるための杖にして、無理やり歩いてきただけだ」
「そうですよ……」
「でも」
如月さんの声が、少しだけ優しくなる。
「『それだけじゃない』よね」
「…………わかりません」
「ここのところ、少しばかり『楽しかった』よね」
答えようとして、すぐには言葉が出なかった。
「……楽しかったです」
「私もだよ」
如月さんが笑った気がした。
「君がいて、私がいて」
少しだけ間を置く。
「忌々しいが、あのお嬢様もいてさ」
「月城さん……」
銀髪の、咲の親友。
ちょっとずれたところのあるお嬢様の顔が頭をよぎる。
僕の手を握ってくれた、あのぬくもりも。
「もう苦しまなくていい。誰がなんと言おうと、法がなんと言おうと」
僕を抱きしめる腕が、また少し強くなった。
「私たちが、君の味方だよ」
「…………」
「家に帰ろうよ」
家に。
「もう心配しなくていいから」
帰っても、いいのだろうか。
僕を抱きしめる腕に、さらに力がこもる。
その肩越しに、窓がある。
その向こうに――男が浮かんでいた。
白いスーツと、その下には赤いシャツ。
丸レンズのサングラス。
胡散臭い男だ。
街中で見かけたなら、ただそれだけしか感じないだろう。
でも、あれは――だめだ。
次の瞬間、男の左腕が紅く輝いた。
「如月さん!」
如月さんは気づいていない。
守らなければ。
この人を!
あらん限りの力を振り絞って、如月さんを抱えたまま、横へ飛んだ。
――直後。紅い炎の鞭が窓ガラスを砕き、部屋の中を通り過ぎた。
爆ぜたガラス片が、床に降り注ぐ。高層階で使用されている強化ガラスの破片が、だ。
「っつ……」
すぐそばから、如月さんの小さな苦鳴が聞こえた。
「如月さん……?大丈夫で――」
言葉を飲み込んだ。
大丈夫なわけがない。
先ほどまでいた床の上に――如月さんの右脚が落ちているのだから。




