六十八話:天使の羽根
「うっ……ぐ……」
「如月さん……血が……!」
床に横たわった如月さんが、短く息を漏らした。
右脚の切断面は炎に焼かれ、黒く焦げている。
それでも血は止まり切らず、床を濡らし続けていた。
「気にするな。それより、聞くんだ」
「気にしますよ!」
如月さんの脚が。血が。
どうすればいい?どうすれば、この人を助けられる?
「おや?避けられたノは、久しぶりデす」
窓の外から、場違いに穏やかな声が聞こえてくる。
「邪魔をしなイで、もらえまスか?」
白いスーツと赤シャツの男が、宙に浮かんだまま不満げに言う。
サングラスの奥でどんな目をしているのかは確認できない。
左腕には、紅い炎が絡みついたままで、いつでも今と同じ攻撃を繰り出すことができるのだろう。
「仕事のタゲーットは、そこの悪魔と、そこの邪悪な人間デす」
タゲーット?ターゲットのことか?
男の話し方は、妙なところにアクセントがあって、聞き取りづらい。
語尾だけが、不自然に跳ねる。
邪悪な人間というのは九条だろう。
悪魔だと言うなら、それは間違いなく如月さんだ。
それがターゲットだと言うのなら――
「邪魔をしないでくだサい」
「いやです」
如月さんを庇うように前に出る。
「邪魔をさせてもらいますよ」
「……だめだ、日向さん。逃げるんだ」
苦しそうにしながら、そんなことを言う。
僕がどう思ってるか、わかるだろ。如月さん。
「逃げる?」
如月さんは顔を青ざめさせながらも、僕を真っ直ぐに見つめていた。
「馬鹿なことを言わないでください」
「いいかい。あれは『クシエル』だ」
聞き覚えの無い名前だ。
如月さんは、乱れた呼吸を整えながら続ける。
「懲罰の天使。神罰の代行者。私たちの敵う相手じゃない。逃げて、伊吹君と合流するんだ」
「嫌です」
「日向さん」
「逃げません」
脚からの出血がひどい。
早く治療しなければ。
とにかく今はあいつを倒す。それからどうにかして止血を……
「話は終わりましタか?」
「はい。終わりました。如月さんを狙うなら、あなたを倒します」
「おお、なんと愚カな……」
クシエルが、呆れたように首を振った。
「マジカル・チェンジ」
光が身体を包み込む。
普段着が、ふわりと広がるスカートと、大きなリボンのついた衣装へ変わる。
右手には、魔法のステッキ。
先手必勝。やられる前にやる。
「マジカル・ストーンバレット」
杖の先から、いくつもの小石が生み出された。
ばらばらと、クシエルへ向かって飛んでいく。
こんなものでダメージを与えられるとは、もちろん思っていない。
ストーンバレットそのものは、ただ石を飛ばすだけの初歩的な魔法だ。
だから、床を蹴る。
射出された石弾へ追いつき、そのうちのひとつを空中で掴んだ。
身体を捻り、踏み込み、振りかぶり――腕を振り抜く。
そして――全力で投げつけた。
『パン』と、乾いた破裂音が室内に響く。
小石が音速を超えた音だ。
本気を出せば、僕は小石を音速以上の速度で投げることができる。
フォームはエースで4番の松井君を参考にさせてもらった。
殺傷力が高すぎるから普段は使わないけど、如月さんを殺そうって言うなら、話は別だ。
「グあっ!?」
小石がクシエルの胸に直撃する。
白いスーツに深々とめり込み、クシエルの身体が空中で弾き飛ばされる。
体勢を立て直す前に、繰り返し石を投げる。
乾いた破裂音が、立て続けに響き、クシエルの身体が何度も空中で揺れる。
――嫌な予感がした。
考えるより先に、予感を信じて床を蹴る。
直後、紅い炎の鞭が僕のいた場所を薙ぎ払った。
床が赤熱し、深い亀裂が走る。
でも、遅い。すでに僕は天井だ。
身体を反転させ、天井に足をつく。
再び炎の鞭が迫った。
天井を蹴り、横へ飛ぶ。
炎が僕の髪先を掠め、壁を焼き切った。
「マジカル・クリエイトストーンゴーレム!」
床から盛り上がった石が人の形を取り、2メートル近いストーンゴーレムとなる。
「すまないけど、ゴーレム君。如月さんの壁になってくれ」
ゴーレムが両腕を広げ、如月さんと九条を背後へ庇う。
これなら、少なくとも炎の鞭を直接受けることはない。
「マジカル・ストーンバレット!」
石が切れた。
杖から新しい石弾を射出し、掴む。
投げる。また、投げる。
あれがどれほど強力な生き物でも。
それがたとえ天使でも。
音速で飛来する小石を、空中で避け続けられるわけがない。
「どうシて?」
連続する石弾に身体を弾かれながら、クシエルが僕を見た。
「どうしてヒロシが、クシエルの邪魔をするんでスか?」
腕が止まりかけた。
こいつ、今なんて言った?
魔法少女の姿なのに……僕の名前を知っている?
天使に知り合いなんていないぞ……?
「僕のことを知っているんですか?」
「質問しているノは、クシエルの方デす」
クシエルの声から、先ほどまでの余裕が消えている。
「僕の大切な人を傷つけるなら、誰が相手でも僕は戦います」
天使だろうと。
それが神様だろうと。
そんなもの、関係あるものか。
「それだけですよ」
「どうシて、悪魔を庇うんでスか?」
悪魔でも、大切な同居人だ。
それに今日は、如月さんが夕食を作る当番なんだ。
たまにはちゃんと作ってもらわないと、困るじゃないか。
「そんなこと、関係ありますか?」
「ありマす」
クシエルが、当然のことを説明するように答える。
「悪魔は殺さなけレば」
「そんな理屈、知ったことじゃないんですよ」
空気が――変わった。
「では、あなたもタゲーットデす」
サングラスの奥で、クシエルの目が紅く光った。
さっきまでとはなにかが違う。
クシエルが、こちらへ左手を伸ばす。
嫌な予感に、咄嗟に床を蹴った。
僕が飛び退いた直後、床から巨大な炎が立ち上った。
天井まで届くほどの火柱が、一瞬で部屋を焼く。
こんなものをまともに食らえば――即死だな。
気づけば、クシエルの背中に炎の翼が現れていた。
紅く燃え上がる、巨大な翼。
その翼が――羽ばたく。
「くっ……!」
凄まじい熱風が、割れた窓から室内へ殺到した。
身体が押し流される。
足が床から離れ、壁へ叩きつけられた。
熱い。息をするだけで、喉が焼けそうだ。
動けない。
クシエルが左腕を振るう。紅い炎が鞭の形となり、一直線に迫った。
避けられない。
「マジカル・ガイアシールド!」
僕の正面に、分厚い岩壁が出現し、炎の鞭が岩壁へ叩きつけられる。
轟音とともに、岩壁が粉砕された。
「うわっ!?」
僕は砕けた岩の破片ごと吹き飛ばされ、床を転がった。
全身が痛い。
衣装のあちこちが焦げ、皮膚が熱を持っている。
直撃を防いでも、これか。
「仕事が増えてしまいまシた」
クシエルが、ゆっくりと、割れた窓に近づいてくる。
「早く片付いてくだサい」
「……お断りです」
ステッキを支えにして、立ち上がる。
かなり限界が近い。膝が震えている。
それでも、こいつを如月さんに近づけるわけにはいかない。
「……それに、もう時間切れですよ」
「時間ギれ?」
クシエルが首を傾げる。
一瞬、雷の音がした。
ゴロゴロと、聞き覚えのある、誰もが何度も聞き覚えのある、音が。
次の瞬間――凄まじい稲妻の嵐が、窓の外を埋め尽くした。
「ぐああアぁ!?」
幾筋もの雷が突き刺さり、白いスーツから煙を上げながら、クシエルが苦痛の声を上げた。
ひとりの男が、割れた窓の前へ降り立つ。
『勇者』
「警視庁特殊二課、伊吹蓮です」
伊吹さんは倒れた如月さんを一瞬だけ確認し、それからクシエルへ視線を戻した。
表情は穏やかなままで。
稲妻の嵐が収束し、剣となって伊吹さんの手に握られている。
剣は凄まじい圧力を発しており、触れるだけで無事ではすまないことは明白だ。
「天使クシエル」
伊吹さんが静かに告げる。
「殺人未遂及び公務執行妨害の現行犯で逮捕します」
夜空で体勢を立て直したクシエルが、伊吹さんを睨みつける。
「また、あなたには都内で発生している連続殺人事件の容疑で、逮捕状が出ています」
伊吹さんの身体を、青白い雷光が包んだ。
「詳しい話は、署で聞かせてもらいます」




