五十九話:アリスちゃん②
あわわわ、夢でしょうか。
今、わたくしは憧れの月城澪さんに手を引かれながら、病院の敷地内を歩いています。
毛玉みたいな化け物が『人間じゃないなら、このまま逃がすわけにはいかんピュイ』みたいなことを言って脅してきたのも、庇ってくださいました。
わたくしは高貴な血を引く美しきダンピールですから、もちろん人間ではありません。
月城澪さんは、『こうしていればどこにも行けないでしょう』だなんておっしゃって、手を繋いでくださいました。どこにも行くわけがありませんわよね。
むしろ、このまま永遠に離さないでいただきたいぐらいです。
しかも、これから用事を済ませた後で、月城澪さんのお屋敷に招待してもらえるそうです。
毛玉の奴が「ホーテキコンキョ」だのなんだのと口うるさく騒いでいましたが、月城澪さんはまるで意に介しません。
素敵です。
少しだけひんやりしていて、それでいて柔らかくて暖かい。白くて細い、綺麗な手。
ああ、繋がれた手を伝って、わたくしの気持ちが届いてくれないかしら。
ただ、ひとつだけ残念なことがあります。
月城澪さんの逆側――右手には、あの女。佐倉ひよりの手が繋がれているからです。
まったく、どうしてあの女まで。
ほどなくして、病院のロビーへ到着しました。
病院のロビーは騒々しく、人でごった返していました。
でも、月城澪さんの美しさに気圧されたのか、すぐに静かになりました。
あれ?到着したということはもしかして、この幸せな時間ももうすぐ終わってしまうのでしょうか。
それならいっそ、永遠にここへたどり着かなければよかったのに。
そういえば、あの女の弱みを握るためにノープランで追いかけてきましたけれど、そもそもこんな場所に何の用があるのでしょう?
まさか、月城澪さんのお身体になにか……もしそうだったら、どうしましょう。
考えを巡らせていると、ふと気がつきました。いつの間にか、佐倉ひよりがいなくなっています。
本当に、いつの間に……?高貴な血を引く美しきダンピールであるわたくしが、いなくなる瞬間を見逃すはずはないのですが……
もしかすると、月城澪さんに手を握られて、わたくしもほんの少しだけ浮かれてしまっていたのかもしれません。
あの女がいなくなった今、毛玉の化け物さえいなければ、月城澪さんと2人きりでしたのに……本当に忌々しい毛玉です。
「もう少し待っていてくださいね、白峰さん」
「は、はい。もちろんです」
ええ、いくらでも待ちますわ。
ずっとこうしていたいぐらいですから。
それよりも――そうです。
せっかくの機会なのですから、少しだけ勇気を出してみましょう。
「あ、あの、月城澪……さん」
「はい?どうしましたか?」
「よ、よければ、わたくしのことは『アリス』とお呼びください」
言ってしまいました。
月城澪さんは少しだけ思案された後、すぐに優しく微笑んでくださいました。
「……わかりました。アリスさん、ですね」
ああ……! 快く了承してくださいました。なんてお優しい方なのでしょうか。
何事も言ってみるものですわね。
思っているだけでは伝わらない。言葉にすることが大切なのだと、お父様もおっしゃっていました。
ありがとうございます、お父様。
そうこうしているうちに、廊下の奥から、誰かを乗せた細長いベッドが運ばれてきました。
白い服を着た人たちが付き添い、車輪の小さな音が、磨かれた床の上を近づいてきます。
そのベッドの隣を歩いているあの女――佐倉ひよりの表情は、なんと言えばいいのでしょうか。
いつものぼけーっとしたアホ面ではなく、とても……そう、とても優しい顔をしていました。
佐倉ひよりの目が――
少しだけ震えているその瞳が……青と紫の間ぐらいの、なんと呼べばいいかわからない、不思議な色をした瞳が。
不覚にも、これまでわたくしが見てきたどんな宝石よりも、綺麗だと……思ってしまったのは……どうして。
「それでは、私たちも行きましょうか」
ふいに手を引かれ、ハッと我に返りました。いけませんわ、見惚れるだなんて。
わたくしたちはベッドを追うように、ロビーから日差しの眩しいエントランスへと向かいます。
自動ドアが開くと、冷房の効いた院内とは違う、夏の熱気が押し寄せてきました。
高貴な血を引く美しきダンピールであるわたくしですが、日差しが強すぎるのは少しだけ苦手です。
建物の前には、救急車によく似た白い車が停まっています。
その車にベッドが乗せられる瞬間、ベッドで眠ったままの誰かの顔が、一瞬だけ見えました。
わたくしは高貴な血を引く美しきダンピールですから、ほんの一瞬目に入っただけでも、しっかりと判別することができます。
ベッドで眠っていたのは、女性だと思います。
その顔は、『佐倉ひより』とそっくりで……もしかすると、姉妹なのかもしれません。
そう考えれば、すべての説明がつきます。
月城澪さんは、佐倉ひよりのお姉さんのご友人なのでしょう。
それなら、佐倉ひよりの手を引いていたことにも納得できます。
ですが、あれ?
よく考えると、あまり説明がついていないような。佐倉ひよりのご両親は、どうしたのでしょうか。
疑問に感じている間もなく、わたくしは先ほど乗ってきた小さな車へと案内されました。
運転席には、あの麗しい殿方。
どういうわけか、助手席には……あの忌まわしい毛玉。
そして後部座席には、月城澪さんと、このわたくし。
座席の間隔が狭いため、少し身体を動かすだけで月城澪さんの肩が触れてしまいそうです。
いえ、触れてはなりません。
はしたないと思われてしまいます。でも、ほんの少しぐらいなら……?
やがて、救急車みたいな車を追うように、こちらの車もゆっくりと走り出しました。
「ミオ。ソレは法律クソあ……如月に任せた方がいいと思うピュイ」
なんの話をしているのかは、さっぱりわかりません。
ですが、あの毛玉が月城澪さんを呼び捨てにしていることだけは聞き捨てなりません。
背もたれに隠れて姿は見えませんが、毛玉のいる助手席を力いっぱい睨みつけてやりました。
「ちゃんとお話すれば、わかってくれると思いますわ。ね?アリスさん」
そんなわたくしに、月城澪さんが優しく微笑みかけてくださいました。
美しすぎるお顔が、その……近くて。
車が小さくてよかったと、生まれて初めて思いました。
「も、もちろんですわ……!」
――その次の瞬間です。
突然、浮遊感を覚えました。
それは初めてコウモリへ変身することができた時とよく似ていて、わたくしにとっては慣れた感覚。
間違えるはずはありません。
窓の外へ目を向けると、先ほどまで同じ目線の先にあった景色が、下に向かって流れていきます。
つまり、わたくしたちの乗っている車が、地面を離れて――浮いています。
車というものは、浮くものだったでしょうか……?
「『やはり』ですか……」
「ええ。そう考えてよさそうですわね」
「言ってる場合じゃないピュイ!」
やはり、なんの話をしているのかわかりません。
話はわかりませんが――その会話を遮るように。
凄まじい衝撃と共に、『なにか』が車へ衝突したことだけは、はっきりと理解できました。




