第五話:代償
「……あ……?」
静まり返ったロビーに、浩の間の抜けた声が漏れた。
自分の拳が男の顔面にめり込んだ感触。そこから伝わった、まるで硬い岩でも叩いたかのような強烈な手応え。
吹き飛んだ男がガラスを突き破り、中庭の芝生の上を転がっていく光景が、まるで他人事のように遠く感じられた。
「が、あっ……あ、あああああ!!」
直後、アドレナリンの効果を突き抜けて、凄まじい激痛が浩を襲った。
殴られた腹の痛みではない。殴った右腕だ。
指先から肩にかけて、焼け付くような熱と、骨がバラバラに砕け散ったかのような衝撃が駆け抜ける。
「うあ、はぁ……っ、なんだ、これ……っ」
視線を落とすと、右拳は紫色に腫れ上がり、腕全体が不自然な方向に曲がっていた。
全力で壁を殴りつけたって、こうはならない。まるで、自分より遥かに硬い『何か』に全力で衝突したかのような破壊の跡。
あまりの激痛に視界がチカチカと明滅し、胃の底からせり上がる吐き気に浩は膝をついた。
しかし、倒れるわけにはいかない。
「……へっ……へへっ……いてぇじゃねぇか、クソ親父」
中庭の瓦礫の中から、男がふらふらと立ち上がったからだ。
顔面は血まみれになり、鼻筋は完全に潰れている。それだけのダメージを負いながら、男は凶悪な浮かべてこちらへと歩を進めてくる。
足が震える。意識が飛びそうだ。
それでも、すぐそこには――愛する娘のたった一人の親友がいる。
「なにもんだテメェ……ただの人間じゃねぇな……?」
男が苦痛に顔を歪めながら、低く唸るような声で問う。
そんなことはこちらが聞きたいぐらいだ。いったい何が起きているのか、誰か教えてほしい。
とはいえ、それがわかっていたとしても、今しているのと同じようにただ男を睨みつけることしかできなかっただろうけど。
「……なんだよ、もう限界かよ。威勢がいいのは最初だけか?」
そう言う男にも余裕は感じられない。
「じゃぁ……アバヨ!」
言葉と共に男が拳を構え、こちらへ向かってくる。
さっきと同じように拳を叩きこむつもりだろうか?あれは本当に痛かった。
身体がバラバラになるかと思った。
なるべく痛くしないでくれると助かるのだけれど、そうはいかないだろう。
ところで……男の動きがやけに遅く見えるのはどうしてなのか……
『パラッパッパー!』
突然、頭蓋骨を直接叩くような、あの不愉快で……無駄に景気のいいファンファーレが鳴り響く。
(こんな時に、うるさいんだよ……!)
ふざけた騒音への怒りが、途切れそうだった意識を繋ぎ止める。
そういう意味では感謝してもいいのかもしれない。
おかげで少なくとも次の瞬間に血反吐を吐くのは『娘の親友』ではないのだから。
突進してくる男の、血管の浮き出た首筋。
突き出された拳の、指の関節。
それらが、まるでスローモーション映像のようにはっきりと視認できる。
(……なんだこれ)
なんだか、いけそうな気がする。
少しだけ、ほんの少しだけ身体をずらし、最後の力を振り絞って膝を突き出してみよう。
すると、突き出してみた膝が無防備な男のみぞおちに吸い込まれていく。
「あ……?」
男の眼球が大きく見開き、その身体が「く」の字に折れ曲がった。
空気が抜けるような音が聞こえ、男はそのまま糸が切れた人形のように、床へと崩れ落ちる。
たぶんもう立てないんじゃないだろうか。
それは自分だってそうなのだけれど。
そこまでが、意識を失うまでの浩の記憶だった。




