第五話:見知らぬ力
「……あ……?」
自分でも情けないと思うような声が漏れた。
右の拳には、男の顔面を殴りつけた硬い感触が残っている。
目の前には粉々になったガラス。
その向こうでは、さっきまで僕の目の前にいた男が、中庭の芝生を転がっていた。
でも人間って、あんな風に吹っ飛ぶんだろうか? 漫画やアニメじゃないんだから。
「が、あっ……!」
それを考える余裕はすぐに消え失せた。
凄まじい痛みが唐突に襲ってきて、頭の中がチカチカする。
殴られた腹の痛みじゃない。
焼けた鉄を流し込まれたような熱と痛みが、指先から肩まで一気に駆け抜けた。それと同時に、ひどい吐き気と眩暈。
「う、あ……な、これ……」
右腕を押さえようとして、思わず膝をつく。
見るのが怖い、でも痛みの原因を確認しないわけにもいかなくて、ゆっくりと視線を落とした。
見ると、右拳は紫色に腫れ上がり、手首が明らかにおかしな方向へ曲がっている。
吐き気と眩暈がひどくなる。
どうしたら、こんなことに?
壁を全力で殴ったとしても、ここまで酷いことになるだろうか?
だめだ、考えがまとまらない。
わけがわからない。
「……へっ……へへっ……いてぇじゃねぇか、クソ親父」
中庭の方から声が聞こえた。
痛みに霞む視界を上げると、男がゆっくりと立ち上がっていた。
顔面は血まみれで、鼻も明らかに潰れている。
それだけの怪我を負っているのに、口元には凶悪な笑みが浮かんでいた。
普通じゃない。
「なにもんだ、テメェ……ただの人間じゃねぇな……?」
男が唸るような声で問いかけてくる。
そんなことはこちらが聞きたい。
僕はごく普通の会社員で、喧嘩をした経験すらほとんどない。
そんなことより右腕が痛くてたまらないんだよ。
知っていたって答えられるわけないだろ。
「……なんだよ、もう限界かよ。威勢がいいのは最初だけか?」
男にも余裕があるようには見えない。呼吸は荒く、身体がふらついている。
それでも、僕よりは遥かにましだ。
右腕の痛みはさっきよりも強くなっていて、そういえば腹も焼けるように痛い。
これ、死んじゃうんじゃないか? 今にも意識が飛びそうだ。
それでも、倒れるわけにはいかない。
理由は決まってる。
僕のすぐ後ろには、娘のたった一人の親友がいるからだよ。
「じゃあ……アバヨ!」
男が拳を構え、こちらへ駆け出した。また、さっきと同じように殴るつもりらしい。
あれは本当に痛かった。
身体がバラバラになったんじゃないかと思ったぐらいだ。
できれば、次はなるべく痛くしないでもらえると助かるんだけど、そうはいかないだろう。
ところで……男の動きがやけに遅く見えるのはどうしてなんだろうか……
『パラッパッパー!』
突然、頭蓋骨を直接叩かれたような、あのけたたましいファンファーレが鳴り響く。
「こんな時に、うるさいんだよ……!」
今度ばかりは、声に出して悪態をついた。
でも、ふざけた騒音への苛立ちのおかげで、途切れかけていた意識を繋ぎ止められた。
そういう意味では、少しだけ感謝してもいいのかもしれない。
少なくとも、次の瞬間に血を吐いて倒れるのは、僕の後ろにいる『娘の親友』ではないんだから。
男の動きが、さらに遅くなった。
突き出された拳と、腕に浮き出た血管。
歪んだ顔に張り付いた汗まで、はっきりと見える。
まるで、映像をゆっくり再生しているみたいだ。
「……なんだ、これ」
どうしてなのかはわからない。
でも、避けられる。そんな確信があった。
その確信に従ってほんの少しだけ身体を横へずらすと、男の拳が、僕の顔のすぐ横を通り過ぎていった。
なら、こうか……?
もうちょっとだけ頑張ってみよう。
狙いを定める余裕なんてないけれど、最後の力を振り絞って、少しだけ膝を突き出してみよう。
「あ……?」
突き出した膝が、無防備なみぞおちに突き刺さり、男の目が大きく見開かれる。
身体が『く』の字に折れ曲がって、口から空気が抜けるような音が漏れた。
そのまま、糸が切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
動かない。
たぶん、もう立てないんじゃないだろうか。
それは、僕も同じだけど。
緊張が途切れた瞬間、全身から力が抜ける。
月城さんが何かを叫んでいるような気がしたけど、よく聞こえない。
僕の意識は、そこで途切れた。




