第四話:病院の不審者
今日は土曜日だ。
久しぶりにバイトの予定もない。
目覚ましもセットしていないし、普段の睡眠不足を少しでも取り戻すため、今日は好きなだけ眠るつもりだった。
『パラッパッパー!』
「うわあっ!?」
鼓膜を直接揺らされたような、けたたましいファンファーレが頭の中に鳴り響く。
心臓が口から飛び出しそうになって、跳ね起きた。
「……っ、ハァ、ハァ……」
薄暗い部屋の中を見回すけれど、爆音の源になるようなものはもちろん見当たらない。
聞こえてくるのは、枕元に置かれた古い時計が針を刻む音だけだ。
また、あれだ。
「本当に心臓に悪いなぁ……」
これで4度目。
どうやら、この迷惑な音は僕にしか聞こえていないらしい。
これまで周囲にいた人が反応したことは一度もないし、古ぼけたアパートの薄い壁を、隣の部屋から叩かれることもない。
そうなるとこれは幻聴だろうか? でも、こんな派手な幻聴なんてあるんだろうか。
どっちにしても……せめて寝ている間だけは勘弁してほしい。
大きく息を吐いて、額に浮かんだ汗を袖で拭いながら、時計を見た。
時計の針が正午を指すまでにはまだまだ距離があって、二度寝の誘惑に心が揺らぐ。
眠れる時に眠っておかないと、また仕事中に意識を失いかねない。
それでも一度目を覚ましてしまうと、娘の顔を見に行きたいという気持ちの方が勝った。
寝るのは夜でもできる。
だけど咲に会える時間は、面会時間の間だけだ。
簡単に朝食を済ませ、病院へ向かう。
駅から病院まで続く坂道は、どういうわけか、前に来た時よりもさらに楽に感じた。
息は切れないし、足取りも軽い。
意識してゆっくり歩かないと、速度が自然と上がってしまうぐらいで、まるで重力が半分になったみたいだ。
そんなわけはないけど、他に上手い表現が思いつかない。
「やっぱり、何かおかしいよなぁ……」
身体の調子に意識が取られているうちに、病院の前に到着していた。
やっぱり息も切れていないし、疲れも感じない。
まぁ、考えてもわからないことは考えても仕方ない。
咲の部屋に向かう方が大事だ。
――敷地に足を踏み入れたところで、妙な違和感を覚えた。
「……静かだな」
静かすぎる。
土曜日の午前なら、いつもは僕と同じように見舞いに来た人たちや、外来患者でごった返しているはずだ。
なのに、今日は人影がまったく見当たらない。
エントランスまでたどり着いても、音が聞こえない。
車椅子が床を転がる音も、子供の泣き声も、受付から聞こえる話し声もない。
まるで病院だけが、世界から切り離されてしまったようだった。
なにより、以前にも感じたこの感覚……『ここにいるべきじゃない』ような、奇妙な感覚だ。
ここにきて、それをさらに強く感じるようになった。
帰った方がいい、そんな警告めいたなにかが、思考を遮る。
足がひどく重くて、まるで身体そのものが、この先へ進むことを拒んでいるみたいだ。
でも、それがなんだ。咲に会わずに帰って、二度寝でもしろと言うのか。
そんなのはまっぴらごめんだ。
両脚に力を込めろ。
這ってでも前に進め。
足を踏みしめ、ロビーに入る。
「……っ!?」
目の前に広がっていた光景に、息を呑んだ。
黒いスーツを着た男たちが折り重なるように倒れている。
――月城さんの護衛だ。この間目が合った人もいる。間違いない。
「ちょっと、これ……」
ロビーの中央では、月城さんが見知らぬ男と向かい合っていた。
相手は、見るからにまともではない。
手入れされていない茶色い髪は、ドブネズミの毛みたいに無造作に逆立っている。
汚れた柄シャツの上には、安っぽく光るレザージャケット。
首元では、悪趣味な銀色の鎖が揺れていた。
「はい、終わり! お嬢様、もう盾はいないぜ?」
無精髭に覆われた口元を歪め、男が楽しそうに笑う。
どう見ても、病院にいていい人間じゃない。
「ちょっとちょっと、どうしたんですか、これ!」
思わず声を上げると、月城さんがこちらを振り返って、驚いたように目を見開いた。
でも、すぐに普段の落ち着いた表情へ戻る。
「……あら、日向さん。今日のアルバイトはどうされましたの?」
「今日は珍しく休みでね……いやいや、それどころじゃないでしょう」
すぐ近くに護衛たちが倒れている。
どう考えても、世間話をしている場合ではない。
「そうですか。せっかくの休日なのですから、お休みになられた方がよろしいのでは?」
「それはそうなんだけど……」
思わず普通に答えそうになってしまった。
月城さんがあまりにもいつも通りなので、僕の方がおかしいのかと錯覚しそうになる。
男の方へ目を向けると、明らかに苛立っていた。
まあ、そうなるだろう。
「チッ、何をいちゃついてやがる」
男が舌打ちをして、拳を握り締める。
それを見た瞬間、月城さんの表情が変わった。
「この方は無関係ですわ。どういうわけか、結界に迷い込んでしまっただけの一般人です!日向さん、早く逃げて――」
「逃げろって言われても……」
結界。
聞き慣れない言葉だけど、問い返している暇はなさそうだ。
倒れている護衛たちと、こちらを見て苛立ちを露わにしている男を見比べる。
この状況で……自分だけ逃げろって。
そんなことできるわけがない。
「娘の友達に、変なことをさせるわけにはいかないよ」
そう言って、男と月城さんの間に割って入った。
このわけのわからない状況で、僕なんかが役に立つかどうかはわからないけど――
ここで月城さんを、咲の大切な親友を残して逃げたらきっと、愛する娘に顔向けができないから。
「何をおっしゃっていますの!?」
「そうかい。どっちにしろ立ち塞がるなら関係ねぇな」
男の姿が、視界から消えた。
「死ねよ」
次の瞬間、みぞおちに凄まじい衝撃を受けた。
「ぐあ……!?」
息ができない。
何をされたのか理解するより先に、両膝が床についた。
遅れて、焼けるような激痛に、目の前が真っ白になる。
殴られた。
そう理解した時には、男はもう僕から興味を失っていた。
「なんだよ、情けねぇおっさんだな。何のために出てきたんだぁ?」
男の笑い声が遠くに聞こえる。
視界が霞み、床に手をついた。
痛い。
息を吸おうとしても、喉から変な音が漏れるだけだった。
「さて、お嬢様。選んでもらおうか。俺の物になるか、ここで無様に死ぬか」
靴音が遠ざかっていく。
「俺はどっちでもいいんだぜ? だが、せっかくならよ……」
男が月城さんに近づいている。
顔を上げると、男は月城さんへ手を伸ばそうとしていた。
やめろ。
そう言おうとしても、声が出ない。
痛い。
身体に力が入らない。
それでも、それでもだ。立たなければならない。
咲が大切にしている人を、咲を大切にしてくれる人を、目の前で傷つけさせるわけにはいかないからだ。
床に手をつき、無理やり身体を起こそうとすると、不思議なことに、『それ』ができた。
脚にも力が入る。こんなに痛いのに。
男は僕が起き上がったことに気づいていない。
月城さんの喉元へ伸ばされた右腕。汚らしい手で咲の友達に触れるんじゃない。
そう思って、肩を掴んだ。
「……は?」
男が間の抜けた声を上げながら、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……変なことすんなって……言ってんだろ」
右手を握り締める。
喧嘩なんて、まともにしたことがないし、殴り方だって知らない。
ただ、今出せる力を全部込めて、男の顔面へ拳を叩き込んだ。
すると――『なにか』が砕けるような、凄まじい音が響いて、男の身体が目の前から消えた。
いや、消えたわけじゃなかった。
男はロビーを横切り、そのままガラスを粉々に砕いて、中庭まで転がっていった。
「…………え?」
月城さんの小さな声が、静まり返ったロビーに響いた。
たぶん、僕も同じ顔をしていたと思う。




