第三話:誓い
妻とは幼馴染だった。
同じ街で育ち、当たり前のように恋をして、当たり前のように家族になった。
幸せだった。
咲が生まれた時、幸せがまた大きくなった。それまでと比べものにならないぐらい。
その小さくも温かな命を腕に抱いた時、生涯で最も強く、僕は誓った。
(……何があっても、必ず君を幸せにする)
それは父親としての、ごくありふれた、けれど絶対の誓いだった。それからは、絵に描いたような平凡で幸せな日々が続いた。あの時までは。
咲が11歳になった年の冬、妻が死んだ。
自ら命を絶った彼女が残した遺書には、信じがたい事実が綴られていた。
咲は僕の本当の子ではなく、別の男との間にできた子であること。
遺書には僕への謝罪の言葉こそ並んでいたが、咲に対する言葉は……一言もなかった。
葬儀が終わって二人の生活が始まっても、家の中は死んだような静寂が支配していた。
喪失感と裏切りの痛みに打ちひしがれ、「なぜ」の言葉だけで思考が埋まる。
何を憎めばいいのかも、何を悲しめばいいのかもわからない。
部屋の隅で膝を抱えて動かない咲に、どう声をかけていいのかも――わからなかった。
――それでも、朝は来る。
いつまでも止まっているわけにはいかない。生きて行かなければならないのだから。
「……明日からは、仕事に行くから」
うずくまる咲の背中にそう告げると、咲は顔を上げないまま小さく頷いた。
翌朝、重い体を引きずって玄関へ向かう僕の背中に、小さな足音が追いすがってきた。
「お父さん、待って」
振り返ると、そこには咲が立っていた。彼女の手には、ぎこちなく包まれた弁当箱が握られている。
「これは……?」
「作ったの」
俯いたまま、かすれた声でそう答える。
「……まだ、うまくできないけど、これから……うまくなるから」
その日の昼休み。職場のベンチで開けた弁当箱の中身は、お世辞にも上手とは言えなかった。
形が崩れた卵焼きと、少し焦げたおかず。
それを見た瞬間……涙がこぼれた。
(……僕は、何をしていたんだ)
自分の苦しみにばかり目を向けて、自分を憐れんでいたのか?
大好きだった父親が赤の他人であったこと。大好きだった母が自分に一言も残さず、自分を否定するように逝ってしまったこと。
そんな事実を、まだ11歳の少女が受け止められるわけがないじゃないか。
この不格好な弁当は、咲が必死に縋ろうとした心の現れだ。母親に突き放され、絶望の淵にいる彼女が、唯一の拠り所である僕を繋ぎ止めようと、震える手で作ったものだ。
きっと……朝の言葉の続きは「だから、捨てないで」だ。
どれほど怖かっただろうか。どれほど寂しかっただろうか。
僕は……馬鹿だ。
(……あの時、誓ったじゃないか。何があっても、必ず、と)
嘘があったかもしれない。裏切られたのかもしれない。
でも、あの日、咲を腕に抱いて誓った言葉だけは、嘘じゃなかった。
それだけで十分だ。守るべき理由は、それだけで足りる。
その日の夜、帰宅した僕は、咲を真っ直ぐに見つめて言った。
「咲。明日からは、一日交代でお弁当を作ろう」
「……でも、お父さん。料理なんて……」
「できるようになるよ。これから二人で暮らしていくために、君に美味しいって言ってもらえるようになるまで、何度でも練習するさ」
咲の大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「私は……ここにいてもいいの?」
「当たり前だ」
「でも、お母さんが……あんな、ひどいことを……」
「……お母さんは、間違ったことをしたかもしれない。だけど、それがお母さんの全部だったとは思わないよ。何より、君は僕の、世界で一番大切な娘だ。それは何があっても変わらない」
二人で声を上げて泣いた。
血の繋がりを、過去の嘘を、すべて涙で洗い流すように、お互い泣き疲れて眠るまで抱き合っていた。
翌朝。まだ眠っている咲を起こさないよう、僕は静かにキッチンに立った。
(それじゃ……初めてのお弁当作りだ。……まずくても、怒らないでくれよ)
――それから、いくつもの季節が過ぎた。
僕たちは仲の良い親子として、平穏な時間を積み重ねていった。
咲は外で遊ぶよりも家で僕と過ごすことを好み、時には二人でオンラインゲームをプレイして夜更かしをすることもあった。
そして、咲の16歳の誕生日。
「おめでとう」を言うために、僕は咲の部屋を訪れた。
「咲、朝だよ。起きて……」
返事はない。
どれだけ呼んでも、どれだけその肩を揺すっても、咲が目を開けることはなかった。
穏やかな寝顔のまま、彼女は深い、深い眠りに落ちていた。
あの朝から、今日で1年。
……僕の時間は止まったままだ。
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