第二話:17歳の誕生日
病院までは、最寄り駅から歩いて20分ほどかかる。
数字だけなら大した距離ではない。
ただ、この辺りはやたらと坂道が多く、仕事と睡眠不足で擦り減った身体にはかなり厳しい。
普段なら病院の入り口に着く頃には汗だくになり、呼吸も乱れている。
そのはずなんだけど。
「……おかしいな」
まったく息が切れていない。
額に手を当ててみても、汗ひとつかいていなかった。
むしろ身体が驚くほど軽い。坂道を上ってきたはずなのに、ほとんど疲れを感じない。
心臓も、いつものように悲鳴を上げるどころか、力強く、規則正しく動いている。
どういうことだろう。
少し眠ったことで、疲労が回復したのか?
いや、仕事中に一瞬意識を失った程度で、ここまで元気になるはずがない。
もしかすると、自分で思っていたよりも長く眠ってしまったのかもしれない。
だとしたらかなりまずい。
同僚も上司も僕の事情を理解してくれている職場だから、それですぐに処罰されたり、解雇されるようなことは無いだろうけど……だからといって、そんなことが何度も続けば話は変わってくる。
「朝霧の言う通り、疲れが溜まってるのかな……」
疲れすぎて、逆に身体の感覚がおかしくなっている可能性もある。
医学的にそんなことがあるのかは知らないけど、少なくとも突然健康体になるよりは現実的だろう。
そんなことを考えながら、病院の中へ入る。
ここは市内にある総合病院だ。
もっと高度な設備の整った病院で診てもらえれば、咲が目を覚ます可能性も上がるのかもしれない。
もちろん、そんな保証はないし、担当の医師からも今のところ有効な治療法はないと言われている。
それでも、何かできることがあるなら、と思うのが親だ。
いずれにせよ、僕の収入では今の入院費を払い続けるだけでも限界に近くて、『できること』が少ないのはもどかしくてならない。
この生活があと何年続くのか、その間、今のように働き続けられるのか。
考え始めると、いつも同じ結論に行き着く。
どうにかするしかない。
具体的にどうするのかは、まだ何も思いついていないけど。
夕方の病院は静かだった。
廊下には消毒液の匂いが漂い、ときおり看護師や患者が足音を立てて通り過ぎていく。
「……ん?」
咲が入院している502号室へ近づいたところで、違和感を覚えた。
なにかが違う。
うまく説明できないけど、『ここにいちゃいけないんじゃないか』みたいな、そんな感覚で、足が止まる。
いや、なにを考えているんだ。
咲の病室を見舞うことが間違いなわけがない。
それよりも重要なことなんて、あるわけがない。
重くなった足に力を込め、病室へ向かう。
その時、わずかに開いた扉の隙間から、白い光が廊下へ漏れ出した。
夕日の反射にしては白くて、病室の人工的な照明にしては柔らかすぎる、不思議な輝き。
「……なんだ?」
目を擦ってもう一度見ると、光はすでに消えてしまっていた。
いや、本当にそんな光があったのかどうかもわからない。
なんなんだろう今日は。いよいよ本格的に休んだ方がいいのかもしれない。
頭を振って、病室のドアを開ける。
「咲、遅くなって……」
言葉が途中で止まる。
病室には先客がいた。
窓際に置かれたベッドの傍らで、一人の少女が咲の手を両手で包み込んでいる。
腰まで伸びた白銀の髪。
黒を基調とした、見るからに高そうな服。
黙って座っているだけなのに、病室の中で彼女だけが別の世界から切り取られてきたように見えた。
月城澪
咲と同じ学校に通う同級生で、唯一の親友だ。
月城さんは目を閉じたまま、祈るように咲の手を握っている。
声をかけるべきか迷って、やめた。
それよりも、さっきから妙な感覚がある。
空気そのものが細かく震えているような、肌を優しく撫でられているような感覚。
それは不快ではなくて……むしろ、春の日差しを浴びているように暖かい。
ふと、病室の隅に立っていた黒いスーツ姿の男が、僕を見つめているのに気づいた。
月城さんが見舞いに来る時は、いつも何人かの護衛がついている。
高校生の見舞いに護衛が必要なのかと思うけど、月城さんの家はかなりのお金持ちで、彼女にとっては護衛を連れて歩くのも普通らしい。
それでも、こんな風にじっと見られると落ち着かない気分になる。
そうするうちに、黒服の一人が月城さんに静かに声をかけた。
「お嬢様」
「あら……」
月城さんがゆっくりと顔を上げ、こちらをむくと、透き通るようなアイスブルーの瞳がまっすぐに僕を見た。
人形のように整った顔立ちと、それと対照的な冷たい視線。
なんというか、娘と同じ年齢とは思えないんだよなぁ。
「日向さん。今日はお早い到着ですのね」
「……ああ。月城さん、今日も咲のためにありがとう」
思わず頭が下がった。
月城さんは、ほとんど毎日のように咲の見舞いへ来てくれている。
だけど、僕は彼女のことをほとんど知らない。
咲がまだ元気だった頃にも、時々家へ遊びに来ていたらしい。
ただ、僕の帰宅時間が遅かったこともあり、まともに顔を合わせたことはなかった。
咲から聞いていた話では、少し変わっているけど優しい友達という印象だった。
でも、実際に会ってみると、護衛を連れていることも含めて、自分とはまったく違う世界に住んでいる人に見える。もちろん、僕の娘である咲とも。
「咲は私の、唯一無二の親友ですもの。当然のことですわ」
月城さんは咲の手をベッドの上へ戻すと、静かに立ち上がった。
「あ……」
もしかすると、いつもより早く到着したことで、彼女の邪魔をしてしまっただろうか。
だとすると、少しばかり悪いことをしたように感じる。
さっきまでの祈るような姿が、彼女の咲への想いであることは疑う余地がないから。
「それでは、私たちはこれで失礼いたします」
「いや、僕のことは気にせず……」
「お気遣いには及びませんわ。また明日、伺いますので」
そう言って、月城さんは僕に一礼する。
黒服さんたちも無言で頭を下げ、彼女の後に続いて病室を出ていった。
扉が閉まると、急に病室が広くなったように感じた。
いつの間にか、さっきまで部屋を包んでいた温かな感覚も消えている。
あれはなんだったんあろう。やっぱり、今日の僕はどうもおかしい。
パイプ椅子を引き寄せ、ベッドの横へ座る。
咲は、今日も眠ったままだった。
この一年、一度も目を開けていない。
白いシーツに横たわる身体は以前よりも細くなり、このまま消えてしまうんじゃないかと不安になる。
それでも、今日は少しだけ顔色がいいように見えた。
肌にも、以前より張りが戻っている気がする。
これも気のせいだろうか。それとも僕の願望だろうか。
「……誕生日おめでとう、咲」
今日で17歳。
本当なら、家でケーキを囲んで祝うはずだった。
今年は何が欲しいと聞いて、もう子供じゃないんだからなんて呆れられて。
そんな、いつも通りの誕生日になるはずだった。
返事はない。
それでも僕は、咲の手を握る。
咲の手は、ほんの少しだけ温かかった。




