第二話:17歳の誕生日
病院までは駅から徒歩で20分ほどの距離がある。
この道のりは浩にとって最も過酷な試練の一つだ。仕事で擦り減った身体に、坂道の多いこの街の起伏は容赦なく牙をむく。
病院の入り口にたどり着く頃には汗が滲み、呼吸は浅く乱れているのが浩の日常だった。
(……おかしいな。全然、息が切れてない……)
額に手を当ててみるが、汗ひとつかいていない。むしろ足取りは羽が生えたように軽く、心臓は乱れるどころか、エンジンの回転数を上げたばかりの車のように、力強く、安定した律動を刻んでいる。
(まさか……寝すぎたか……?)
一瞬意識を手放したつもりのまどろみが、実のところ一瞬では無かった可能性に思い至る。
同僚も上司も浩の事情を同情的に見てくれている職場だから、それですぐに処罰されたり、解雇されるようなことは無いだろうが……だからといって看過できることでもない。
(朝霧の言う通り、疲れがたまっているのかもしれないな……)
浩は自嘲気味に笑い、自分を納得させるように首を振った。
市内の総合病院。本来であればもっと高度な医療を受けさせたいところだが、お世辞にも最新の医療設備が整っているとは言えないこの病院が、浩の財力では限界だった。
それさえも限界が来ているとすれば……悪い方向に思考が向かいそうなのを抑え、首を振る。
自分はまだ、大丈夫だと言い聞かせながら。
長い廊下を、病室へと向かう。
夕刻の病院は、独特の静寂と消毒液の匂いに包まれている。浩が自分の娘の病室――502号室に近づいた、その時だった。
「……ん?」
何か、違和感があった。
ここが自分の居場所ではないような、そんな空気。
――スッ、と。
扉の隙間から、一瞬だけ、廊下に光がこぼれる。
夕日の反射にしては白く、人工的な照明にしては柔らかすぎる、不思議な輝き。
浩は瞬きを繰り返し、訝しげに眉を寄せると、足早に病室のドアを開ける。
「咲、遅くなって……」
言葉が、途中で止まる。病室の中には、先客がいた。
窓際のベッドの傍らで、一人の少女が咲の細い手を両手で包み込むように握っている。
月光をそのまま溶かしたような白銀のロングヘアが、夕暮れの病室で異質なまでに目を引いた。
黒を基調とした上質な装いに身を包む彼女は、月城澪。咲の同級生であり、唯一の親友だ。
澪は祈るように目を閉じ、微動だにしない。
その瞬間、浩は肌を撫でるような奇妙な感覚を覚えた。空気の粒子が震えているような、けれど決して不快ではない、包み込むような温かな『違和感』。まるで、春の木漏れ日の下にいるような錯覚。
部屋の隅に控えていた、黒いスーツ姿の男たちが浩の存在に気づいた。
そのうちの一人が、静かに「お嬢様」と声をかける。
「あら……日向さん、今日はお早い到着ですのね」
ゆっくりと振り返った彼女の、透き通るようなアイスブルーの瞳が浩を射抜く。
人形のように整った美貌と、娘と同じ年齢とは思えない冷徹な視線に、浩は思わず姿勢を正しそうになった。
「……ああ、月城さん。今日も咲のために、ありがとう」
浩はどこか気まずさを感じながら、頭を下げた。
毎日のように娘を見舞ってくれる彼女を、浩はよく知らない。
娘がまだ元気だった頃、時折咲の部屋を訪れていたらしい……その程度の認識。
ただ、常に屈強な護衛を引き連れる彼女の住む世界が、自分とはあまりにかけ離れていることだけは確かだ。
咲から聞いていた話とは少し違っているような気はするが……
「咲は私の、唯一無二の親友ですもの。当然のことですわ」
澪は立ち上がり、浩に一礼した。
「それでは、私たちはこれで失礼いたします」
「あ、いや……」
なんであれ――先ほどの祈るような姿が、彼女の咲への想いであることは疑う余地がない。
それを邪魔してしまったように感じてしまう。
「また明日、伺いますわ」
そう言うと、澪は黒服たちを従え、静かに病室を後にする。
入れ替わりに入ってくる、夕暮れの冷たい空気。
浩はベッドに横たわる咲の――半年間目を閉じたままの静かな横顔を見つめた。
小柄な身体は白いシーツに沈み込み、今にも消えてしまいそうに見える。
しかし、昏睡が続く彼女の肌は、心なしか以前よりも瑞々しさを取り戻しているように思えた。
「……誕生日おめでとう、咲」
浩はポツリと呟き、パイプ椅子に腰を下ろした。




