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四十話:ぬくもり

月城さんに手を引かれながら、病院の廊下を進む。

白い壁。磨かれた床。消毒液の匂い。


何度も通ったはずの廊下なのに、今日は妙に足元が頼りなく感じる。


あまりにも情けない。

九条の姿を見ただけで、体が固まった。声を聞いただけで、息が詰まった。


あの時乗り越えたはずのものが、心の奥に押し込めたはずのものがこみ上げてきて、独りで歩けなくなってしまった。


それでこの体たらくだ。

娘の親友の少女に手を引かれ、力なく歩みを進めている情けなさは、筆舌に尽くしがたいものがある。


もしかすると、本当に心まで、この姿相応にまで弱くなってしまったのかもしれない。

この37年の人生で色んなことを乗り越え、積み上げて手に入れたはずの、成人男性相応の『強さ』が、どこかに消え去ってしまったのかもしれない。


でも、こうやって月城さんが手を引いてくれたおかげで、確かに震えは収まった。

人の体温というものは、こんな時とてもありがたいものだと痛感した。


ただ、そうして少し冷静さを取り戻してみると、今度は別の感情がわき上がってくる。

『情けない』よりも『恥ずかしい』だ。

こうやって手を握られていることに、強烈な羞恥心を感じる。


僕は大人で、月城さんは当たり前だけど咲と同じ年齢の女の子だ。

その少女に手を引かれて、病院の廊下を歩いている。


……僕はなにをやっているんだ。


いや、見た目で言えば今の僕は完全に小学生の女の子なので、周囲から見れば特に不自然な状況ではないのかもしれない。

でもそういうことじゃなくて……


かといって、せっかく心配してくれているのにこちらから急に手を振りほどくのも、何か失礼な気がする。

どうするのが正解なんだろう、これは。


そんな風に取り留めのない思考に振り回されているうちに、502号室――咲の病室の前に到着した。


「あの、もう、大丈夫です。ありがとうございます」


小さな声でそう言うと、月城さんは足を止めて僕を見下ろした。

その表情は、いつもより少しだけ柔らかい。


「そうですか」


うん、そうなんです。

もう大丈夫なので。


「それでは、咲に会いにいきましょう」


手を離してくれなかった。

そのまま病室まで手を引かれて進む。


ああ……咲がこの状況を見たらなんて言うだろうか……


病室の中は、いつものように静かだった。

規則正しい電子音と、相変わらず安らかに眠り続ける咲の姿。

窓際のカーテンは薄く開いていて、白い光が床を照らしている。


咲と、僕と、月城さん。


これまでにも、この病室で月城さんと一緒になることは何度もあった。

だが、今日は明らかに異質な存在が一つ混じっている。ピューイさんだ。


僕にとって現実そのものである医療空間に、ファンシーなマスコットのような……ふわふわした生き物がぷかぷかと浮いている。

これまで以上に、日常の中に『異質なもの』が入り込んできたのだという現実を突きつけられるようだった。


でも、それが咲を救う手がかりになるなら、なんだっていい。


「それじゃあ、見てみるピュイ」


「よろしくお願いします、ピューイさん」


「お願いしますわ」


僕と月城さんに見つめられて、ピューイさんは少しだけ居心地悪そうに声を上げる。


「期待するなピュイ。さっきも言った通り多分なんもわからんピュイ」


それから少しだけ逡巡した後、眠ったままの咲の顔を覗き込み、じっと見つめる。


流れる沈黙に、少しだけ緊張する。

なにかわかればいいけれど、『わかる』ことが良いことだけとは限らないのだ。


「それにしても……」


ピューイさんがぽつりと言う。


「見れば見るほど、そっくりだピュイ」


「……そうですね」


僕は自分の手を見る。

左手はふさがっているので、右手を見る。


小さな手。

咲の幼い頃と同じ顔。同じ背丈。同じ声で、眠る咲の前に立っている。


……おかしな話だ。


もちろん自分の声というのは他者に聞こえるのとは少し違って聞こえるから、咲の声そのままを直接は聞けないのだけど。

確かそれは骨伝導によって声が伝わるからという話だったけど、少しだけ残念に思う。


「ど、どういうことだピュイ……?そんなこと、あるわけが……」


愕然とした声。

そのファンシーな表情から具体的な感情は読み取りにくいが、ピューイさんは明らかに動揺し、狼狽したような声を出した。


「えっ……!?」


「……どうかしましたの? 咲に何か異常でも?」


心臓が嫌な音を立て、思わず声が出る。

月城さんも、顔色を変えて身を乗り出した。


「ちょっと、ちょっと待つピュイ。もう一回ちゃんと調べてみるから……」


ピューイさんはぶつぶつと呟きながら、再度目を閉じて集中し始めた。

いったい咲に何がどうしたというのだろう。嫌な不安がせり上がり、心臓をぎゅっと握りつぶされたような感覚に襲われる。


やがて、再び目を開けたピューイさんは、信じられないものを見るような目で咲を見下ろした。


「やっぱり……でも、そんなバカな……でも、だとしたら……」


「ひとりで納得しないでくださいよ、ピューイさん……!咲に何かあったのなら、教えてください!」


たまらず声を上げると、ピューイさんは空中でこちらへ向き直った。


「わかったピュイ……くれぐれも、落ち着いて聞くピュイ」


そう前置きをして、ピューイさんは少しだけ考えてから、重々しく口を開いた。


「……サキは、魔法少女だピュイ」


「……え?」


「……は?」


僕と月城さんの声が、綺麗に重なった。

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