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三十九話:月城澪と佐倉ひより

病院の自動ドアをくぐってロビーに進むと、視界の隅に見覚えのある不快な男の姿が映った。

ロビーの端で腕を組み、苛立ったように床を爪先で叩いているその男は、たしか九条といっただろうか。


咲の実父を名乗る、くだらない男。

気にする必要もない。私はその男に視線を向けることなく、そのまま病室へ向かおうとする。

咲に会う前に、余計なものにわずらわされたくなかった。


無視して歩みを進めながら、隣を歩く日向さん――今は『ひよりちゃん』の姿をしている彼――をちらりと見下ろす。

日向さんは目に見えて青い顔をしていた。伏せられた目元は強張り、唇はかすかに色を失っている。


この人が、あの男に対してどんな感情を抱いているのか、私は知らない。

少し前までは、興味も持っていなかった。


咲以外の人間が何に傷つき、何を悲しみ、何に怒るのか。そんなことは、私の世界にとって大した意味を持たなかったから。

けれど今は、胸の奥が小さく痛んだ。


私はあの刑事のように心を読むことはできないけれど――


悲しいのね。


そう思った直後、自分で否定した。そんな言葉ひとつで片づけられるものではないだろう。


私はそっと、『ひよりちゃん』の小さな手を握り、隣を歩く。すると、彼は驚いたようにこちらを見上げる。

小さな手は冷たく、小刻みに震えていた。


だから、細い指先をしっかりと握り、前へ進む。


……だって。

咲なら、きっとこうするから。


「あ、ちょっと!無視しないでくださいよ、月城総帥!」


九条が慌ててこちらへ駆け寄ってくる。

せっかく咲の病室へ向かおうという時に、こんな男に時間を取られたくはないけれど、『ひよりちゃん』の顔を見られると面倒なことになる。

なにしろ『ひよりちゃん』は、この男が血の繋がった娘だと主張する咲と、瓜二つの容姿なのだから。


仕方なく、『ひよりちゃん』を背に隠すようにして、ゆっくりと向き直る。


「あら、何か?私は忙しいのですが」


「何か、じゃありませんよ!あの人をなんとかしてくださいよ!」


「さて、何のことでしょう?」


「とぼけたって……!」


「なんだテメェ、もう来るなつったろうが」


使用人たちと同じ黒スーツを着た大柄な男が、九条の前に割って入る。

片山だ。以前、この病院で私を襲った『魔術師』の男。


あれから色々と『お話』をした結果、今は私の優秀な部下として働いてもらっている。

品性は期待できないが、そういう男にも使い道はある。


「テメェごときがお嬢様に話しかけていいと思ってんのか?」


片山が威圧的に睨みつけると、九条は露骨に後ずさった。


「い、いや、あのですね……私はただ、咲に会わせてほしいと」


「ああ?」


「実の父親が娘に会いたがって、何が悪いんですか!」


実の父親、ね……


この男が本当に咲の実父だということ自体、私にはいまだに信じがたい。

あの優しくて、強くて、可愛らしい私の咲と、この凡庸な男は似ても似つかない。

どんな共通点もあるようには思えないのだ。


「あらあら、仲良しですのね」


ここは片山に任せて、さっさと咲に会おう。

一刻も早く咲に会って、この不快な感情を消し去りたかった。


「いや、いやいや!この人、月城総帥のところの人ですよね!?ずっとこうやって私の邪魔をするんですよ!」


「最近は色々と物騒ですから、私が頻繁に訪れる場所には、念のために見張りを立たせていますの。一般の方にご迷惑をかけないようにとは、常々申し付けているのですが……」


嘘ではない。


片山に警備を任せてはいるが、九条に関しては何も指示をしていない。

だから、九条に対する行動は片山の独断だ。そう考えると、思っていたよりも優秀なのかもしれない。


「片山、いけませんよ。病院でそのような物言いは感心しませんわ」


「へへへ、面目ねぇ」


白々しい声で注意すると、片山はこちらの意を汲んだのかへらへらと笑いながら答える。


「では、もうよろしいですか?それでは、ごきげんよう」


私が再び『ひよりちゃん』の手を引いて、奥へ進もうとすると、九条の視線が『ひよりちゃん』に向けられる。


「ちょっと、その子はなんなんです?」


「おおっと。ここから先は通行止めだ」


追いすがろうとする九条を片山が遮った。自分の役割をよくわかっている。

もうちょっと報酬を上げてやってもいいかもしれない。


「なんの権利があって……!」


「俺はよぉ、ヒナタさんとは結構『親しい仲』でな。怪しい奴を娘さんに会わせないでほしいって、直接頼まれてるんだよなぁ」


片山はにやにやと笑いながら、適当なことを言う。

もちろん『日向さん』と片山は、『あの時』以降顔を合わせていないので、そんなことを頼まれるはずがない。


「私は咲の実の父親なんですよ!?こんなことは許されませんからね!咲だって私を待っているんです!」


九条がヒステリックに声を荒げたその瞬間――繋いだ小さな手が、一瞬びくりと大きく震えた。


――なんと言った、この男は。

咲が待っている?こいつを?


「……そうですか。咲が、待っていますか」


とっておきの笑顔で九条に微笑むと、片山がこちらを見て震え上がる。本当に勘のいい男だ。


「え、ええ。親子なんですから、当然でしょう」


「そうですか。親子だから当然ですか」


「な、なんですか?病院からの面会許可もあるんですよ、これ以上妨害するのであれば出るところに出ても……」


「九条様」


「な、なんですか」


「……その『許可』なら、もう出ないと思いますわ」


「はぁ?」


「父親である日向さんのご意向を無視して、『実の父親』を自称する不審者に面会を認めるなんて、おかしなことだと思いませんか?」


「ふ、不審者……!?」


「……ですから、私から病院の理事側に、少しばかり『ご相談』させていただくつもりですの」


「なっ……!相談って……」


「ええ。患者の療養環境を守るため、今後は適切な面会許可のルールを徹底してもらわなければ困りますからね」


「ちょ、ちょっと待ってください!そんな勝手なことを」


「さて、失礼しますわ。咲が私を待っていますから」


今度こそ、私は踵を返した。


そうだ、咲が待っているのだから。私と、咲がいつも大好きだと言っていた『お父さん』を。

その時は少しだけ、ほんの少しだけ嫉妬してしまったけれど……あの頃は私も子供だったから、どうか許してくださいね。


「だってよ。残念だったなぁ、不審者さんよぉー」


「あなたたち、こんなことをしてただで済むと……!」


背後で九条が何かわめいている。

けれど、もう耳を貸すつもりはなかった。


私は『ひよりちゃん』の手を引いて、病室へ続く廊下を進む。

小さな手は、まだ少し冷たかったけれど、震えはおさまっていた。

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