三十三話:ピザの思い出
ピザというのは、こんなに重い食べ物だっただろうか。
到着したLサイズのピザを一切れ取り、最初の一口を食べると、濃厚な味が口いっぱいに広がって、久しぶりの贅沢に心が弾んだ。
だけど……一切れを食べ終える頃には、僕はすっかり満腹になっていた。
とてもじゃないが、これ以上は入りそうにない。
「ふぅ……」
「あら日向さん、もうよろしいんですの?」
隣に座った月城さんが、不思議そうに首をかしげた。彼女の手元には食べかけのピザがある。三切れ目だ。
如月さんは何も言わず、黙々と食べ続けている。
「僕はもう十分です。というか、お腹いっぱいで……」
「まあ……こんなにおいしいのに、残念ですわね」
そう言うと再び、少しだけぎこちなくピザを口に運ぶ。
普段の月城さんならもっと上品に食べそうなものだけど、今はなんというか……幸せそうだ。
「そんなに食べたかったんですか?」
「……咲が、話してくれたことがありますの」
「咲が……?」
月城さんは少し遠い目をして、ふふっと微笑んだ。
「ええ。咲が教えてくれたんです。『誕生日とか特別な日には、お父さんが大きなピザを頼んでくれるんだ』って」
「あ……」
その言葉に、僕は思わず目頭が熱くなった。
たまの贅沢としてピザを頼んだ時、目を輝かせて喜んでいた咲の笑顔が脳裏に蘇る。
僕と娘のささやかな思い出を、幸せな日の思い出を、月城さんがこうして記憶してくれているのが、なんだか嬉しかった。
もちろんピザぐらい月城さんなら100枚でも200枚でも注文することができるだろう。
……だけどこの人はそうしなかった。
咲が大切にしているものを、簡単に手に入れようとしなかった。
月城さんは咲の入院費について、僕に対して何も口出ししない。
これだけ咲を大切にしてくれているんだから、きっと思うところはあるはずだ。
でも、何も言わない。
咲を自分の力で支えたいという、僕のこだわりを尊重してくれているんだと思う。
そういう人なのだ。
「ごちそうなのだと、そう言っていました」
「……ありがとうございます」
「どうして日向さんがお礼を言うんです?」
「わからないですけど」
「そ……そうですか」
月城さんが一瞬だけ驚いたような表情をしてから、微笑んだ。
今日の月城さんはずっと変だったけど……それとはまた違う、優しい微笑みだった。
それからしばらく無言の時間が続いた。如月さんはずっと無言なので。
「ところで……」
口元をナプキンで拭い、月城さんが真剣な表情で如月さんに視線を向ける。
「例の宇宙人についてですが」
「ペプラモトのことかな?」
「ええ。犯行の傾向については、ある程度理解しましたわ。急激に成功した人物、目的を達成した人物の失踪事件。そこまではわかります」
「けれど、どうして範囲を『都内』に絞っているんです?相手は宇宙人なのでしょう?日本全国どころか、海外で犯行に及んでいても何もおかしくないのでは?」
「あ……」
言われてみれば、その通りだ。
僕たちは当たり前のように、都内で起きている事件として話を聞いていた。
けれど、ペプラモトは宇宙犯罪者だ。普通の人間の移動範囲で考える方がおかしい。
「それは、この辺りがサプライズニンジャの勢力圏だからだね」
「へぁ?」
思わず、変な声が出た。
サプライズニンジャ。今、確かにそう言った。
そういえば、小春さんが『口裂け女』と『僕』を殴り倒したニンジャのことを、そう呼んでいた気がする。
まさか、この場でその名前が出るとは思わなかったけど。
「あの時のニンジャですか……?」
「日向さんは実際に遭遇しているからね。話が早くて助かるよ」
「助かるんですかね、それ」
「……サプライズニンジャ理論ですか」
なんと、月城さんが冗談みたいな話に真面目な顔で頷いている。
その理論は確かに聞いたことがあるけど、僕を殴り倒したのは実在するニンジャだ。理論じゃない。
「サプライズニンジャ理論というのは、まあ要するに『ニンジャが現れて全員と戦い始める方が面白いなら、その展開は十分に面白いとは言えない』みたいな理論だ」
「それって、創作の話ですよね?」
「そうだね。実際のところ、アレが本当に『サプライズニンジャ』なのかどうかはわからない。別に本人が名乗るわけではないからね」
「ただ、統計上、アレが現れるのは『極端に戦力差のある戦闘行為』が発生した際に限られている。恐らく、その戦力差が『つまらない』から、ニンジャが現れて全員を殴り倒すんだろうというのが、有識者の見解だよ」
「有識者って……」
「それ以外に『アレ』の行動原理を説明できる仮説が存在しないんだ。よって、『サプライズニンジャ』と呼ばれている」
「……そんなことがありえるんですか?」
あまりにも突拍子もなさすぎて、そうなんですかと納得するのは難しい。
でも、如月さんは大真面目だ。僕がおかしいんだろうか。
「君は口裂け女と遭遇したんだろう?口裂け女がいるなら、サプライズニンジャがいたっておかしくはない。違うかな?」
「だいぶおかしいと思いますわ。不条理にもほどがあります」
月城さんが真顔でツッコミを入れる。よかった、僕だけがおかしいわけじゃなかった。
「でも、日向さんはその不条理に救われたんだよ?口裂け女と遭遇して、生き延びることができるなんて、普通ならありえないことなんだから」
「え、それって口裂け女の話ですよね?」
思わず聞き返してしまった。いや、確かに見た目は本当に怖かった。
あの夜の恐怖は今でも覚えている。
でも、口裂け女と聞くと、どうしても子供の噂話という印象がある。
魔法少女や宇宙警察のような、明確な武力を持った存在が遅れを取るほどの相手なのだろうか。
「そんなに強いイメージは無いんですが……」
「……ある種の怪物が『人間の感情』を糧にするという話は、以前にもしたと思うんだけどね」
如月さんは、そこで姿勢を正した。
さっきまでくつろいだ様子でピザを食べていたのに、その声は『刑事』のものだ。
「確かに、口裂け女は子供の噂だ。たかが子供の噂だと言ってもいい」
如月さんは、指先でテーブルを軽く叩く。
「けれど、それは『日本全国の子供たちを恐怖のどん底に叩き落とし、社会現象にまで発展し、海外にまで波及した』ほどの噂だよ」
その迫力に、ごくりと唾を飲み込んだ。
見ると月城さんも、真剣な表情で話を聞いている。
「それによって発生した『恐怖』の総量がどれほどのものか。それを糧として存在する怪物の力が、どれほど絶大なものか……少なくとも、私のようなマイナー悪魔は『それ』と遭遇したいとは絶対に思わないね」
如月さんは両手を軽く上げて、お手上げというように肩をすくめた。
少しだけ空気が弛緩する。
でも、そうだとしたらあれはなんだったのか……
「じゃあ……それを一方的にボコボコにしたサプライズニンジャはなんなんですか……」
「……それは専門家の間でも意見の分かれる部分だね。『そのように決まっているから』という説が今のところ有力だよ」
「意味不明ですわね」
月城さんが深いため息をついた。僕も全く同意見だ。
「いずれにせよ、『サプライズニンジャ』は確かに存在するし、『それ』の存在が異形同士の争いに対する強力な抑止力として機能しているのは事実だ」
「でも、必ず現れるわけじゃないんですよね?それが抑止力になるんですか?」
「なるよ。サプライズニンジャには誰も勝てない、出現する可能性が存在するだけで十分だ。誰だって命は惜しいからね」
「命って……」
「気絶させられるだけで済んだのは、日向さんが『弱者』の側だったからだよ。『口裂け女』はどうだろうね」
「まあ……つまり、このあたりは強大なバケモノや『正義の味方』に蹂躙されるリスクが低い、比較的『安全』なエリアなんだよ。だからこそ、宇宙犯罪者のようにコソコソと人間社会に溶け込むような連中が集まりやすい」
「もちろん、犯罪者や犯罪組織が集まりやすい場所は地球上にいくつもある。それぞれに理由があるだろう。けれど、ペプラモトの手口と思われる失踪事件が、一定期間の中で繰り返し発生しているのは『ここ』だけだ」
サプライズニンジャがいるから、犯罪者が集まる。でも、それがいなければ僕は確実に死んでいた。
ありがたいんだか、ありがたくないんだか。なんだかひどく微妙な気持ちになった。
「……なんとも、助けられた側としては複雑ですね」
「現実というのは、たいてい複雑なものだよ」
口裂け女。
サプライズニンジャ。
ペプラモト。
どう考えても現実離れした単語が並んでいるのに、それらは全部複雑に絡み合いながら、僕の現実に食い込んできている。
僕が知らなかっただけで、この世界はずっとそういう場所だったのだろう。
「さて」
如月さんが、ふと壁の時計を見る。
「そろそろ子供は寝る時間だ。食事の後すぐにというのはあまり好ましくないが、今日は大目に見よう」
「え?」
僕もつられて時計を見る。
時刻は21時を少し過ぎたところだった。
「いや、さすがにまだ早くないですか?」
「今の日向さんの身体で考えるなら、十分に就寝準備を始める時間だよ」
「就寝準備って……」
「寝る前にやるべきことは色々あるだろう?歯磨き、入浴、着替えは……今日は我慢してもらうしかないが」
「あ」
入浴。
その単語に、僕は固まった。
この状態で?如月さんの家で?正直、遠慮したい。ものすごく遠慮したい。
「如月さん、入浴は……その、ちょっと」
「ふむ……精神的な負担が大きいみたいだね。しょうがない、そこは私がなんとかしよう」
「なんとかって、どうしますの?」
「いいかい、抵抗するんじゃないぞ」
「何に対してですか!?」
抗議しようとした瞬間、如月さんが小さく何かを呟いた。
日本語ではない。英語でもない。聞いたことのない言葉だ。
すると、キラキラした光が身体中を覆い……消える。
「な……?」
「ちょっとあなた、何をしましたの!?」
「身体を清潔に保つ魔法だよ。入浴というのは心身を癒してくれるから、あまり使いたいものではないんだけどね」
そう言われると、なんだか先ほどまでと比べて身体がさっぱりしたような、気持ちのいい清潔感があった。
というか、そんなことよりも……
「如月さんって、魔法が使えるんですか!?」
「そりゃあ使えるさ、魔法を使わない悪魔がいるかい?」
他の悪魔と会ったことがないんだから、そんなことはわからない。
でも如月さんが魔法を使えるなら、別に僕が使う必要なんて無いんじゃないか?
「魔法少女の魔法とはぜんぜん違うものだよ。単語が同じだから紛らわしいけど、原理も違えばできることも違うんだよ」
本当に紛らわしい。
魔法少女の使う魔法と、悪魔の使う魔法。さらに月城さんが使うのは魔術で……
頭がこんがらがってくる。
「さて、今日は私のベッドで眠るといい。私はソファを使うから」
それはそれで落ち着かない。
遠慮したいところだけど、気を使ってくれているのだろう。
素直に寝室へと案内してもらう。
すると、当然のように月城さんも寝室へ入ろうとする。
……どういうつもりなんだ、まさか一緒に寝るつもりなんだろうか。
「おっと、君はダメだよ」
如月さんが月城さんをがしっと掴んで制止してくれた。ありがたい。
「あら、それなら私はどうすればいいんですの?」
「そうだね。てきとうに床か何かで寝るといい」
「それが来客への態度ですか?」
「ああ、それならベランダの外という案もあるが……」
二人のやり取りが扉の向こうから聞こえる。
確かに今日は疲れていたようで……ベッドに入ると、あっという間に騒がしい声は聞こえなくなった。




