三十二話:魔王の城にようこそ
「魔王の城にようこそ、お姫様。どうぞお入りください」
如月さんは大仰に片手を胸へ当て、恭しく頭を下げた。
その仕草だけを見れば、どこかの城に招かれた姫君に対するもののように見えなくもない。
ただ、目の前にあるのはどう見ても普通の玄関扉だった。
黒鉄の門でもなければ、禍々しい紋章が刻まれているわけでもない。ドアノブに呪いの髑髏が飾られていることもなければ、隙間から黒い瘴気が漏れ出していることもない。
普通のマンションだからだ。
「それではお邪魔しますわ」
「いやぁー、月城さんにはそろそろ帰ってもらいたいんだけどね」
当然のようにドアをくぐろうとする月城さんに、如月さんからツッコミが入る。
そう。どういうわけか月城さんは自宅に帰ろうとせず、ここまでついてきていた。
『なんで帰らないんですか』と言うのもどうかと思い、これまで指摘できずにいたのだけれど。
「『我が家に招き入れることはやぶさかではないよ』とおっしゃいましたよね?」
「できれば常識的な範囲でお願いしたいのだけどね……」
「私、友人のお宅でお泊まりというものに、ずっと憧れていましたの」
なんだか白々しい響きがある。
それゆえに、1歩も譲るつもりは無いことは明らかだった。
とはいえ……たしかに、月城さんのような家柄なら、そういう経験があまりないのかもしれない。そう考えれば、少しばかり微笑ましくも思える。
それを実践すべきなのが今であるべきかどうかを考慮しなければ、だけど。
「はぁ……近所迷惑になるからさっさと入ってくれるかい?」
如月さんは諦めたようだ。
もうちょっと頑張ってほしかったところではある。
「お邪魔します……」
さっさと入っていった月城さんに続き、小さく頭を下げて奥へと進む。
中に入ってみると、そこは本当に普通のマンションの一室だった。
間取りは2LDKだろうか?都内で一人暮らしをするには、そこそこ広い。
でも、物語に出てくる魔王の城よりは部屋が少ないのは明白だ。
玄関から続く廊下は塵一つなく磨かれており、整理整頓が行き届いている。いかにも如月さんらしいなと僕は内心で感心した。
「何も無い部屋だけど、くつろいでくれたまえ」
リビングに通されて、如月さんの言った意味がよくわかった。
そこは本当に、最低限生活に必要な物以外『何も無い』空間だったから。
広めの部屋の真ん中にソファとテーブルが置かれているだけで、テレビも無ければ、本の一冊すら見当たらない。
飾られた写真もなければ、観葉植物も無い。
壁には絵もポスターも掛かっていないし、テーブルの上に雑誌やリモコンが置かれているわけでもない。
あとは……よかった、エアコンはある。
これから暑くなる季節だから、それも無ければさすがに困る。
「人間味のない部屋ですわね」
「人間じゃないからね」
月城さんの率直すぎる感想に、如月さんは、何の感情もこもっていない声で即答した。
どうもこの二人、仲悪いなぁ……相性が良くないと言うべきかもしれない。
お嬢様と刑事なんて、元々接点のない人種だからだろうか?
それにしても、月城さんの反応は少し過剰な気もする。
咲にそっくりなこの姿のせいだろうか……あまり深く考えたくはないけど。
「さて、真っ直ぐ帰ってきたから本当に何も無いんだよね。夕食はピザか何かで済ませようと思うけど、それでいいかい?」
「あ、はい。もちろんです」
正直、僕としては食べられるものが出るだけでありがたい。
むしろピザなんて僕の日常からすれば結構な贅沢だ。
「あら……宅配のピザですか?一度食べてみたいと思っていました」
月城さんが、目を輝かせながら言う。こっちはどうやら本当っぽいぞ。
「それはよかった」
「ん……?如月さんって普通に食事とかするんですか?」
ふと疑問に思って尋ねる。
たしか、人間の感情を糧にするとか、そんなようなことを言っていた気がする。
だったら食事が必要というのは、なんだか奇妙に感じられた。
「食事ぐらいするさ。『私』は人間じゃないけど、この肉体は普通に人体だからね」
「そうなんですかって……ええ……!?」
「はぁ!?それだと話が変わってきますわよ!?」
月城さんと僕の声が見事に重なった。
人間じゃないから問題無いって言ったじゃないか。
でも、肉体が普通に人体なら、前提が変わってくる。
そもそも如月さんの言葉を借りるなら、『人間じゃない』ことを客観的にどう証明するつもりなんだ、この人は。
「そんなに大きな違いかな?私は気にしないよ」
「如月さんが気にしなくても、僕は気にしますよ……」
「そうですわ。もし日向さんが如月さんを、その……えっと」
月城さんが、珍しく言葉に詰まった。
その先を口にするのがはばかられたのだろう。
「私を日向さんが異性として意識したとして、何の問題があるんだい?人間なんだから当然のことだよ」
「問題無いわけないですよね!?」
「常識というものがありませんの!?」
また僕と月城さんの声が見事に重なる。
「常識、ねぇ……むしろ私は『その姿』になった日向さんが、『私をどう見るのか』に興味があるんだけどね」
「え……?どういう意味です、それ」
ぞわっとした。
背筋に冷たいものが走る。
あまり考えないようにしていたことに、触れられた気がした。
「精神というものは、肉体にある程度引っ張られるものだ。悪魔である私が、人間としての欲求を多少は有しているようにね」
如月さんは、僕の心の動きに気づいているはずだ。けれど、淡々と言葉を続ける。
「軽く調べさせてもらった限り、日向さんの肉体は外見も身体機能も、年若い人間の女性のそれに近い。それが精神に対してどのような影響を与えるのか、確かめる必要があるよね」
「はい……気にならないと言えば嘘になります。自分が今どういう状態なのか、もう何がなんだかわからなくて……」
正直、怖い。
僕は、僕だ。
少なくとも、僕はそう思っている。
だけど、元に戻れるのかどうか、わからない。
変化しているのが本当に『姿』だけなのか、誰にもわからない。
昨日の自分と、今の自分が、本当に同じ人間なのか。僕には何も証明できない。
日向浩であること。咲の父親であること。
わからないことばかりで、僕が大切にしていた全てが何一つ証明できないなら……
「というわけで」
如月さんが、急に軽い調子で言った。
「私のことを異性として意識する分には、好きなだけしてくれて構わない。健全な証拠だからね」
「その結論はどうかと思いますわ」
月城さんもどう反応していいのかわからないんだろう、ツッコミに勢いが感じられない。
「言っておくが、月城さんをそういう目で見るのは禁止だよ。未成年だからね」
「それはもちろん……いやいや、如月さんのことだってそんな目で見ませんよ!」
「ふぅん……?」
如月さんが、すっと近づいてきた。
反射的に後ずさろうとしたが、ソファの前に立っていたせいで動けない。
如月さんは僕の顔を覗き込むように、目線を合わせてくる。
近い。近すぎる。
整った顔立ちが目の前にある。
表情は穏やかで、からかうような笑みを浮かべているのに、目からはそれだけではないような何かを感じる。
しばらくそうやって見つめられていると、自分の心臓の音がうるさく鳴り始めた。
あたりまえだけど、この人も呼吸するんだ。とか、どうでもいいことばかり浮かんでくる。
いや、本当にどうでもいいな。
とにかく……心臓に悪いからやめてほしい。
「あの……」
「……いつまで見つめ合ってますの?」
月城さんが低い声で割り込んだ。
次の瞬間、如月さんはふいっと顔をそらして微笑む。
「うん、まだ正常だね。安心していいよ」
「安心できる要素がありませんわ!」
なんだかひどくくらくらする。顔が熱い。
僕だってこれまでの人生で『何も無かった』わけでもない。
それなのに、こんなふうに距離を詰められただけで動揺してしまうのは、本当は精神的な影響があるのかもしれない。
でも多分……如月さんは、言葉通り僕を安心させようとしてくれたんだろう。
それだけは、素直にありがたかった。
「おっと、ピザ屋が閉まる前に注文しないとね」
如月さんは何事もなかったかのようにスマートフォンを取り出した。
「二人とも、苦手なものがあれば教えてくれるかい?」
特に食べられないようなものはないけれど、この状況が苦手と言えば苦手ですよ。




