第二十一話:大悪魔
「あの……悪魔、って……?」
伊吹さんが去り、改めて如月さんと二人きりになった僕は、先ほどから気になっていた疑問を恐る恐る口にした。
「ええ、悪魔です」
如月さんは特に悪びれる様子もなく、あっさりと肯定した。冗談を言っているような空気ではない。
(どうして悪魔が、警察官なんかをしているんだ……?)
訝しむ僕の視線に気づいたのか、それとも思考を読んだのか、如月さんは語り始めた。
「知的生命体の感情というのは、ある種の怪物にとってはエネルギー源になるんです。我々悪魔にとっては知的生命体の『悪感情』全般が糧となります。邪界獣が収集しているのもそれですね。他にも信仰心や好奇心など、糧とする感情の種類は違えど、感情を糧にする者は割と多いんですよ」
「……それと、刑事なんて仕事がどう関係するんですか?」
思うままに問うと、如月さんは目を細めた。
「ご存じの通り、悪魔というのは古来から人間を堕落させたり、破滅させたりして、いわば負の感情を『養殖』してきました。でも、この現代において堕落なんてものはどこにでもいくらでも転がっていて、わざわざこちらで用意する必要も無いんです」
如月さんの声のトーンが、ほんの少しだけ低く、艶を帯びた。
「悪辣な天然の犯罪者が、国家権力によって自らの悪事を暴かれ、前途が完全に閉ざされる。その瞬間に放つ絶望や悪感情というのは……養殖物とは比べ物にならないほど極上であることに気づきまして。だから、刑事になったんです」
「なるほど……?」
一応の筋は通っている。だが、それだけが目的なら、悪魔がやたらと『法律』にこだわる必要はないのではないか。その内心を読んだように、如月さんはニコニコと笑いながら付け加えた。
「自分が無敵だと思い上がっている化け物どもを、徹底的に屈服させ、絶望させた時なんかは……最高ですよ」
その笑顔の裏に底知れぬ凄みを感じて、少しだけ背筋が寒くなる。
「そこで、ですが」
如月さんはスッと姿勢を正し、こちらを真っ直ぐに見据えた。
「日向さんも、特殊二課で働きませんか」
「えっ」
「伊吹の口ぶりだと、日向さんはまだまだ強くなれそうです。あくまで公務員ですから、それほどの給料が出せるわけでもありませんが……悪くない話だと思います」
突然の勧誘。少しの間沈黙し、自身の状況と『力』について考えてみる。
そして、静かに首を振った。
「……お断りします」
「どうしてでしょう?少なくとも今のお仕事よりは……」
「『これ』は、出どころのわからない力です。なら、いつか突然消えてなくなるかもしれない。だからこれを『自分の力』だと考えるのは間違いだと思うんです。もし自分一人だったら、違った選択をしたかもしれません。でも……そんな不確かなものに、娘の人生を預けるわけにはいきません」
父親としての責任だけは、放棄できないから。
「なるほど。奇跡になんかに預けられるほど、君の娘は安くないというわけか。――面白いじゃないか」
先ほどまでとまったく異なる声色に、ハッとした次の瞬間。
「……おっと、失礼しました」
如月さんは聖母のような微笑みに戻り、軽く頭を下げた。
(どっちが本当のこの人なんだろう……)
どちらも本当じゃないのかもしれないけれど。
今はただ、その顔を見つめるしかできなかった。
「それでは、ご自宅まで車で送りますよ」
如月さんの申し出を承諾し、駐車場の車へと向かうと、そこには伊吹さんに連れられた小春さんの姿もあった。
「あの、ピューイさんは……?」
そう尋ねると、小春さんは今にも泣き出しそうな顔でつぶやいた。
「……もう、会えないみたい」
それ以上何も聞けず、小春さんと共に如月さんの車の後部座席に乗り込んだ。
夜の街を滑るように走る車内。小春さんは窓の外を流れる景色を悲しそうに見つめたままで、如月さんも前を向いて黙々とハンドルを握っている。
重い沈黙を破ったのは、不意に口を開いた如月さんだった。
「日向さん。さっき、悪魔がどうして法律にこだわるかと、疑問に思いましたよね」
ルームミラー越しに視線が交差する。
「……はい。ちょっと、イメージに合わないというか」
そう正直に答えると、如月さんはフッと静かに笑った。
「『化け物なのに』じゃない。『化け物だから』法を守るのさ」
突然の豹変に、隣で窓の外を見ていた小春さんが肩を少しだけ震わせた。
如月さんの言葉は、明らかに小春さんにも向けられていたから。
「いいかい。君たちは望むと望まざるに関わらず、『力』を手に入れた。手に入れてしまった。ならばいつか君が……あるいは君たちが、その『力』が故に『化け物め、ここからいなくなれ』と追われる時が来るかもしれない」
小春さんがゆっくりと、窓の外から車内へと視線を戻し、前の座席の如月さんの背中を見つめる。
「そんな時、『だけど自分は何も悪いことをしていない』と胸を張れるか、誇れるかどうか。それは決して小さなことじゃない。きっと、その誇りが君たちの心を守ってくれる」
静かで、けれど確かな熱を帯びた声が車内に響く。
「それに……もしかしたら『何も悪いことをしていないじゃないか』と味方になってくれる誰かがいるかもしれない。ささやかで、報われない期待かもしれないけれど、そんなふうにはならないかもしれないけれど……でも、その小さな期待のために、『正しくある』価値は十分にあると私は思う」
その言葉には、なにか……言葉通りだけではないものが含まれているように思われた。
小春さんも同じものを感じたのだろう。じっと如月さんの言葉に聞き入っている。
「だからさ、私は君たちが道を踏み外さないことを願うよ」
「これは個人的な願いだ。私が何と言おうと、力に溺れ、思うがままに振る舞いたくなる時は来るかもしれない。だが、その時はまず私が相手だ。この私が、地獄の公爵と称された大悪魔ダンタリオンが君たちの相手になろう」
「――いつでもかかってきたまえ」
挑発的で、けれどどこまでも優しい響き。彼女自身、過去にきっと色々なことがあったのだろう。
そんなことにはなるべくならないようにしたい、と心から思う。
車は夜の街を進んでいく。
前を向いたままの如月さんは、あの底意地の悪い微笑みでも、聖母のような微笑みでもない――そんな笑みを浮かべたように見えた。




