第百四十三話:ウィッシュ・リング
「浮気者! うーわーきーもーのー!!!」
開口一番、罵られた。
なんだこいつ。
「私以外の悪魔の匂いがする! ひどい! 浮気者!」
「やめてくださいよ、疲れてるんだから」
家に帰ってきて、ようやく一息つけると思ったのに。
いつも通りベッドに腰かけた僕の前で、如月さんが大げさに両手を振り回している。
「そうですよ、浩さんが浮気なんてするわけありませんし、したとしても、私は気にしませんわ」
「でたぁー! 全肯定お嬢様! 君ィ! ほんと最近おかしいよ!?」
「そうですか?」
「そうだよぉー! もっと尖ってたろ! あの頃の君をもう一度! 昔のアンタ……輝いてたぜ?」
あー、うるさい……悪魔の人ってみんなうるさいの?
澪は澪で、いつもより距離が近い。
僕の隣に座り、両手で右手を包み込むように握って、自分の太ももの上に置いている。
やめてほしい。
2人とも、どうせ言っても聞かないし、まったく心が休まらない。
「んで」
ひとしきり騒いだあと、如月さんの視線が学習机の上に置かれた指輪に向いた。
「さっき、まさかと思うけど……『ウィッシュ・リング』って言った?」
「言いましたよ」
「はぁ……『魔王ベリアル』と、『ウィッシュ・リング』ね」
さっきまでの大騒ぎが嘘みたいに、如月さんが深いため息をつく。
「知ってるんですか?」
「はい、お嬢様説明」
「『ベリアル』は、『サタン』を除けば最も有名な悪魔の1柱と言えますね。伝承によって扱いは異なりますが、非常に高位の存在であることに変わりはありません。指輪の方は、わかりませんが……」
「そうなんですか……僕なんかはゲームで名前を見たことがあるなーぐらいでした」
「ま、そーゆーこと。『魔王』だなんて、控えめすぎる表現だよ。ほとんど『魔神』に近い。よく生きて帰ってきたねー」
「すごいバカみたいな人でしたけど……変なモヒカンで、アニメの雑魚キャラみたいな恰好をしてて……」
バカみたいに高いモヒカンに、トゲトゲのついた黒い服。
魔王だか魔神どころか、どう見ても序盤で主人公に倒される雑魚キャラにしか見えなかった。
「『ベリアル』ってのはね、ヘブライ語で『無価値』みたいな意味なんだ。だからじゃないかな」
「なるほど……?」
そういうものなのか?
なんとなく納得できそうで、やっぱりできない。
「ベリアルが最初から最後まで本気だったら、万に一つも人間に勝ち目なんてないよ。強いとか弱いとか、そういう話じゃないんだよ。存在の次元が違うんだよ」
アレが?
いや、確かに強かったのは強かった。
何度殴っても平然としていたし、スターゲイザーの刃を素手で止めてみせた。
でも、だってアレだよ……?
「本当に、無事でよかったです。無茶をしないでほしいとは言いませんが、必ず私のところに帰ってきてくださいね」
「……はい、すみません」
「なんなの? 妻なの?」
「違いますよ……それで、指輪の方は? 知ってるんですよね?」
すぐ脱線する。
僕もあまり人のことは言えないけど、今日はもうほんと疲れてるから。
勘弁してもらいたい。
「……私が魔法を使えるのは知ってるよね」
「ええ、まぁ。なんか眠らされたりしましたよね」
「なんかとは失礼な」
「あれのせいで宿題ができなかったんですからね」
「命の危険がある人間を強制的に休ませただけじゃないかー」
「はいはい。それで?」
口を尖らせながらも、如月さんの視線は学習机の上の指輪から離れない。
「その魔法系統の最上位……いや、最上級なんて言葉でも足りないね」
ほんの少し、間があった。
こういう間を置く時は、だいたいなんかろくでもないことを言うから、少し身構えてしまう。
「伝説上の話だよ。史上最も強大だったとされる魔法使いが、一生のうちに1度だけ。その命と引き換えに唱えることができたとされる魔法がある」
「へぇー……?」
「その魔法が『ウィッシュ』だ。『この世界』の法則を捻じ曲げ、操作し――『どんな願いでも』叶う。1つだけね」
如月さんが、人差し指を1本立てながら、そう言った。
今、なんて言った?
「へ……?」
思わず、間の抜けた声が出た。
どんな願いでもって言った? よく聞く話ではあるけど……
「そうだね。『なんでも願いが叶う』なんて与太話、世界中のどこにでも転がっているからね」
「そうですよ、光る玉を7つ集めるだとか……」
「ですが、『本当に願いを叶えた』人物の実在が証明されたことはありませんわ」
「でもその魔法、真なる意味での『魔法』を、1度だけ行使することのできる指輪が存在すると、するかもしれないと……私は確かに聞いたことがある」
「誰もが望み、しかし手にすることのなかった『夢』の結晶。その指輪が本当に『ウィッシュ・リング』だったとしたら……えらいことだよ」
冗談はやめてほしい。
そんなことを言われたって、信じられるわけがない。
「私だってそうさ。そんなものが実在するなんて、普通なら信じる方がどうかしてる。他の誰かが言ったなら、笑い飛ばすよ」
「じゃあ――」
「でもさ、『魔神』は嘘をつかないんだよ」
言葉で偽るのは、雑魚のやること。
ベリアルは、そう言っていた。
「では……」
澪の声が、わずかに震えた。
そして、恐る恐るといった様子で……言葉を口にする。
慎重に、壊れてしまわないように。
「咲を……?」
僕の右手を包む指先に、さらに力がこもる。
いつも少し冷たい澪の手のひらに、汗がにじんでいた。
だって、本当に叶うのだとしたら。
『願い』なんて――決まってる。
「……それは、難しいと思う」
「どうしてですの?」
「さっき言ったろ。『ウィッシュ』は、『この世界』の法則を捻じ曲げる魔法なんだ」
「『この世界』ですか……」
「だから、『この世界』で完結することであれば、なんだってできるんだと思う。死んだ人間を生き返らせるとか、存在しない物を作り出すとか……伝承通りならね」
「そうか、咲は……」
「そう。咲さんは、この世界にいない」
「そうですか……」
短い言葉と共に、澪の指から少しだけ力が抜けた。
僕も、同じだ。
がっかり……というわけではない。
最初から、そんな都合のいい話に期待をしていたわけじゃない。
それでも――どうにも、やりきれない気分だ。
『魔神』を傷つけるだけの力を手にしても、『願いが叶う』ような奇跡を手にしても。
どうしても、咲には届かない。
だけど――だからって、諦めてたまるものか。
僕は咲の父親なんだから。
「まー、なんかの役には立つんじゃない? なるべく人には知られないようにして、よく考えて使おうね」
「叶えたい願いなんて……他にないですよ」
「可愛い可愛い結衣ちゃんと結婚させてくださいって願ってみるのはどう?」
「嫌ですよ」
「えーん、ひどい」
如月さんが子供みたいに両手で顔を覆う。大人なのに。
でもどうせ、泣いてない。
嘘泣きは嘘のうちに入らないってか?
「私なら、指輪に願わなくても構いませんわ」
「僕が構いますよ……」
勘弁してほしい。
深いため息をついてから隣を見ると、澪は僕の手を握ったまま、ほんの少しだけ微笑んでいた。
如月さんも指の隙間から、ちらちらとこちらの様子を窺っている。
2人とも、僕の様子がおかしいことに気づいてこんな風にしてるんだって、それぐらい僕にだってわかる。
ありがたいんだけどなー、気持ちは。




