第十話:人間の身体はアスファルトより脆い
巨大なクマの怪物が、丸太のように太い腕を振り上げている。
その先にいるのは、地面へ座り込んだまま動けない少女だ。
考えている暇なんてなかった。
少女と怪物の間へ飛び込むと、振り下ろされた腕を両腕で受け止めた。
「ぬおっ……!」
おっもい……!
腕へ直撃した瞬間、全身の骨が一斉に軋んだ。
怪物の腕を受け止めたというより、まるで上から落ちてきた巨大な鉄骨を、無理やり支えているような感覚だ。
いや、そんな経験あるわけないんだけども!
「ぐっ……うぉぉぉぉっ!?」
たまらず膝が沈みこむ。
靴底がアスファルトを擦り、身体が少しずつ後ろへ押されていく。
「くっそ、化け物かよ……!」
見ればわかることを口にしてしまった。
どう考えても、パワーが違いすぎる。
反撃するしかない。
ないんだけど……痛かったよなあれ……
不用意なことをすればあの二の舞だ。
でも――こんな化け物が、子供を殴りつけるのを見るよりはマシだ。
……そうだ、拳で殴るのが駄目なら、別の場所を使えばいいんじゃないか?
例えば脚なら、腕よりは頑丈なはずだ。たぶん。
無事で済む根拠はないけど、今はそれに賭けるしかない。
「……よし!」
怪物の腕を受け流しながら、素早く横に身体をずらす。
すると、腕に込めていた力が行き場をなくし、怪物の巨体が前へ傾いた。
今だ。
少しだけ後ろへ下がり、地面を蹴る。
両脚を揃え、怪物の腹に渾身の蹴りを叩き込んだ。
足の裏へ、分厚い布の塊を蹴りつけたような感触が伝わる。
――次の瞬間、背中からアスファルトに墜落した。
「ぐえっ……!」
いってぇ。
そりゃ、そうなるか……でも、この間よりはマシだ。
脚は多分、折れて……ないよな?
顔をしかめながら身体を起こすと、蹴り飛ばされた怪物が商店街の奥に向かって飛んでいくのが見えた。
『ぼよん』
怪物の身体が、アスファルトに弾む。
『ぼよん、ぼよん』
そのまま、柔らかいボールのように何度も地面を跳ねながら遠ざかっていく。
「……なんでだよ」
物理法則はどうなってるんだ。
さっきまでは鉄みたいに重かっただろ。
「グアァァァッ!!」
怪物が凄まじい咆哮を上げ、こちらに向かってくる。
赤黒い光を放つ目が、怒りに燃えて僕を睨みつけていた。
完全に敵として認識されたみたいだ。
「……よし、こっちを向いたな」
ぜんぜん『よし』じゃない。
さっきの蹴りもきいてるんだかきいていないんだかわからないし、いつの間にか脚が強い痛みを訴えている。
やっぱり無事ではすまなかったのかもしれない。
脚は確かに手よりも丈夫だけど、力も相応に強いわけで……
そんなことを考えているうちに、怪物は至近距離まで到達していた。
なんと、鋭い爪を振り上げながらだ。
あんなのさっきはなかっただろ……
「グァァァァッ!」
「うわぁっ!」
間一髪、痛む脚を引きずりながら、飛び込んできた怪物を避ける。
熊の爪というのは人間の肌なんて簡単に引き裂いてしまうと聞いたことがある。
クマの怪物ならどうなるかは……見ての通りだ。
アスファルトの地面が深く抉れ、何本もの爪痕が刻まれている。
「ひぇぇ……」
情けない声が漏れた。
当然だけど、人間の身体はアスファルトより脆い。
あんなのを一度でもまともに受ければ――
死ぬ。
間違いなく死ぬ。
次も避けられるかどうかわからない。
……どうすればいい?
「マジカル・アイスランス!!」
背後から、凛とした少女の声が響いた。
その直後、僕の横を巨大な氷の槍が通り過ぎる。
「うわっ!?」
氷の槍は、こちらへ飛びかかろうとしていた怪物の胴体を貫いた。
そのまま怪物ごとアスファルトへ突き刺さり、巨体を地面へ縫い止める。
「ガ、ガアァァ……ッ!?」
怪物が苦しそうにもがく。
何度も腕を振り回しているけれど、胴体を貫いた氷の槍は抜けない。
しばらくすると、怪物が完全に凍り付き、動きが止まった。
今なら。
僕は痛む両脚に無理やり力を込め、地面を蹴って怪物に向かって走った。
もうどうとでもなれだ。
「うおおおおおっ!」
残っていた力をすべて振り絞り、怪物の巨体へ体当たりを叩き込む。
氷の槍が砕け、怪物の身体が地面から引き剥がされた。
そのまま砲弾のように宙を飛び、路地の奥にある壁へ激突する。
激しい炸裂音と共に、凍り付いた怪物が砕け散った。
「え……」
いや、そうはならないだろ。
生き物が凍り付いたからって、ガラスみたいに砕けるわけが……
物理法則はどうなってるんだ。
次の瞬間。
『ぼふんっ』
妙に間の抜けた音が響く。
黒い煙か、霧のようなものがその音と共に文字通り霧散し、それが消えた後に残っていたのは――ボロボロになった小さなクマのぬいぐるみだった。
「……はぁ、はぁ」
終わったのか?
……本当に?
「なんなんだよ、マジで……」
もし本当じゃなかったとしても、これ以上はもうなにもできないんだけども。
「ちょっと!なんてことするのよ!!」
背後から、大きな声が飛んできた。
さっきも聞いた声だ。
「……はい?」
間抜けな声をあげながら振り返る。
立ち上がった青い髪の少女が、ステッキを握ったまま僕を睨んでいた。
「なんてこと、と言われましても……」
なんで急に怒られているんだろう。
僕としては他にどうしようもなかったと思うんだけど。
そう困り果てていると、電柱の陰から白い何かがふわふわと飛んできた。
大きな綿毛かと思った。
真っ白な毛玉に、小さな羽が生えている。
動物なのか、ぬいぐるみなのか。
いや、動くぬいぐるみなんて……さっきいたな、そういえば。
ならどっちなのか判別できない。
白い毛玉は、地面に落ちたクマのぬいぐるみを見下ろすと、呆れたような声を出した。
「やれやれ。これじゃ浄化できないピュイ」




