約束
目に飛び込んできたのは、苦しそうにその場へかがみ込む菜月の姿だった。
頭の中は真っ白になる。
それでも次の瞬間には、考えるより先に菜月のもとへ駆け寄っていた。
「菜月ちゃん、どうしたの!?」
肩にそっと手を置くと、その細い身体は激しく震えていた。
焦点の定まらない瞳はどこか遠くを見つめ、荒い呼吸に混じって小さな嗚咽が漏れていた。
慌てて背中をさすろうと手を伸ばした。
けれど、何をすればいいのか分からず、その手は途中で止まってしまった。
「ちょっと、そこに座ろうか」
返事のかわりに力なく頷いたので、その手を引いて階段へ促した。
隣に座ると、さっきよりもはっきりと震えが直接肌へと伝わってくる。
「……どうしよう、どうしよう。急に、怖くなっちゃって……苦しいよ」
消え入りそうなその声に、焦る気持ちを飲み込みながら問いかける。
「……怖いって。看護師のこと?」
さっきまで、あんなに強い意志を宿した顔をしていたのに。
まるで怯えるように首を振った。
「違うの。皆と……離れちゃうのが……」
その言葉を聞いた瞬間、はっとした。
さっき口にした「終わり」という言葉が、菜月の中に潜んでいた恐怖を、引きずり出してしまったのだと。
「来る前はね……私には縁のない、まるで別の世界だと思ってたのに……」
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
途切れ途切れの呼吸が漏れる。
「でもこんな……大切なものになるなんて……」
一言一言を必死に紡ぎ出しているように見えた。
私は噛みしめるように、深く頷いた。
「私だってそうだよ。菜月ちゃんに会えて……こんなに前を向けたから」
その一言で、何かが崩れたみたいに、菜月の声が一気に揺れた。
「ほんとに……これで……終わっちゃうの……?」
この別れは、「またね」と手を振って済むようなものじゃない。
今回のような例外がなければ、東西の人間が交流することなんて、まずできない。
「最初から分かってたのに……期間限定なんだって」
ぽつり、ぽつりと、膝の上に涙の痕が広がっていく。
「そんな子いたねって……そのまま忘れられちゃうのかな……」
菜月は、ばっと勢いよく顔を上げた。
涙で濡れた瞳で私を見つめると、堪えていた感情を吐き出すように声を震わせた。
「こんな気持ちになるくらいなら……っ」
菜月は息を詰まらせると、何度も首を横に振った。
「……違う……違うよ」
「……やだよ」
その一言と同時に、声を押し殺すこともできず、泣き崩れた。
「もう二度と会えないなんて……そんなの、どうにかなっちゃいそう……!」
ああ、菜月の涙が、私の心の奥を何度も叩く。
脳裏をよぎったのは、紫陽花を見ながら交わしたあの日の言葉。
――二人で。
あの時は前を向けたことだけで十分だと思っていた。
でも今、ようやく分かった。
私はずっと、道路や設備、制度みたいなものだけを思い浮かべていた。
けれど、流れが閉ざされたり、立ち止まらなければならない時も、きっとある。
それでも、人が人を想って手を伸ばす。
だから、流れは生まれるんだ。
それが、止まらないということならば、今菜月に思うことは――
私は、ゆっくりと息を吸って、菜月の手をそっと包み込んだ。
その手は、驚くほど冷たくて、指先まで熱が抜けきっているみたいだった。
「菜月ちゃん、聞いて。私はこの先、人やモノの動きを支える道に進みたいと思ってるんだ」
その言葉に誘われるようにして、菜月はわずかに顔を上げた。
「皆のやりたいっていう気持ちが、迷子にならないようにしたいんだ」
私の中の何かが、菜月の涙によって溶けていく。
「ただ、それだけじゃなくて」
越えられないと決めつけていたものが、崩れていく予感。
「うん。菜月ちゃんの会いたいって気持ちも。……ううん。私も皆も、菜月ちゃんにまた会いたい。だから私が繋げたい!」
ここで踏み出さなければ、きっと何も変えられない。
「だからね。菜月ちゃんは安心して、先に進んでほしいんだ。次に会う時は、素敵な看護師さんになっててね」
菜月は目を見開き、唇を震わせた。
そのまま手の甲で涙をぐいと拭い、縋るような目で私を見上げてくる。
「……本当?」
その震える声に頷くと、深く息を吸い込み、ぐしゃぐしゃの顔のまま表情を崩した。
「絶対だよ!私、今ちゃんと聞いたんだから!嘘つきは泥棒なんだよ!もう逃げられないんだからね!」
そのまま私の手を握り返して、ぐっと前のめりに詰め寄ってきた。
「絶対いつでもすぐに会えるようにするって、夏樹ちゃん今、私に約束したんだからね!あとで冗談だったとか許さないんだからね!」
子供みたいな言い方に、思わず笑ってしまう。
いつもの笑顔が戻り始めたのを見て、覚悟はもう揺らがなかった。
この涙を、ただの思い出にはしない。
理想で終わらせるつもりもない。
「冗談じゃない。ちゃんと、繋げるから。待っててね」
菜月の目を見て、迷いなくそう言えた。
日が沈むにつれて、風はゆっくりと強さを増してきた。
それでも、その約束だけは、どこにも流されない気がした。
そして――
菜月は週末、西側へ戻って行った。




