なつき
車窓の外を指さして、富士山が見えたよ、と娘が声を弾ませた。
その小さな指の先を追うように、妻も身を乗り出して、素直な驚きと感嘆を浮かべる。
大きいね、きれいだね、と子どもみたいに笑っている。
私も流れる景色を眺めながら、時間の移ろいを感じていた。
久しぶりの家族旅行という高揚感と、特別な想いに胸が弾んでいた。
リニアの車内には、滞在許可証の携帯義務や、登録区域外への立ち入り制限などの注意が、淡々と流れている。
厳しい制約はあるが、かつてを思えばこうして西側へ向かえていること自体が、信じがたいほどの変化だった。
私は大学を卒業し、社会基盤の設計に関わる仕事に就いた。
人やモノの流れを支える、目に見えにくい土台をつくる仕事だ。
覚悟していた以上に、その道は平坦ではなかった。
理想を語れば冷ややかな視線を向けられ、提案も形になる前に握り潰されることもあった。
男なら本来の役割があるだろう、と遠回しに言われたことも少なくなかった。
このまま、どこにも届かないのではないかと自分を見失いそうになる無力感と重圧に、何度も膝を突きかけた。
それでも、そのたびに思い出す顔があった。
違う場所で、それでも確かに同じ時間を生きている、彼女の顔。
鏡のように、自分自身を映してくる存在。
あの日、ぐしゃぐしゃに泣いて、それでも笑って約束を押しつけてきた、あの顔。
ふと、彼女が西側へ戻った日のことを思い出す。
彼女は、最後まで明るい笑顔のままだった。
あまりにもいつも通りで、拍子抜けするほどに普通の別れだった。
――いや、
ここまで来たら本当のことを話してしまおう。
実際は、ものすごく泣いた。
子どもみたいに声を上げて、校門の鉄柵にしがみついて離れようとしなかった。
校舎ごと持って帰る、なんて本気で言い出して、母親に引きはがされる姿に、最初は一緒に泣いていた小春も、呆れて腹を抱えて笑い出していたくらいだ。
最後には志織に、私の形見だとキリンのがま口バッグをねじ込むように押し渡して、それを言うなら片割れだと泣き笑いしながら突っ込まれて。
そのやり取りに、先生も皆も大笑いした。
タクシーが見えなくなるまで、ずっと彼女は笑いながら手を振っていた。
――あの時の光景は、今も胸の奥に焼き付いて離れない。
そして今、こうして振り返ると分かる。
当然、この変化は、私たちのような小さな歯車だけで起こせるものではない。
思えば、あの震災をきっかけに、人やモノの流れが変わり、それぞれの境界も少しずつ見直され始めていたように感じる。
一人の少女が東側へ舞い込んだあの日々は、新しい時代の始まりを告げる兆しだったのかもしれない。
違う土に触れて色が溶け合う紫陽花のように、東と西の価値観はゆっくりと重なり合おうとしている。
私はただ、その変化の中で、ほんの少しだけ関われただけだ。
娘が、車両前方の大型モニターを指さす。
映っているのは、東西合同の人気バラエティ番組。
西側の屈託のない発言に、東側が冷静に言葉を揃える。
掛け合いというよりも、自然と噛み合っていくやり取りに、笑いがこぼれる。
いつの間にか、そうした光景も、特別なものではなくなってきている。
やがて、到着を告げるアナウンスが流れた。
その声は西側特有の、明るく柔らかな話し方へと変わっている。
妻はその響きを耳にすると、嬉しそうに私の手に触れた。
私は立ち上がり、荷物棚から私と妻のリュックを下ろす。
そして娘には、キリンのがま口バッグを手渡した。
だいぶ使い込まれたそれを見て、そろそろ休ませたほうがいいかな、と呟く。
まだ大丈夫、何度も直してきたでしょう、それは大事なものなんだから一緒にいたいの、と妻は首を振る。
その言葉に、私も笑って頷いた。
リニアがゆっくりと減速し、ホームへ滑り込む。
視線の先に、彼女の姿があった。
記憶の中の天真爛漫な少女は、柔らかな空気をまとった女性になっていた。
隣には、その人のパートナー。
そして二人の間には、男の子がいた。
娘が窓越しに手を振ると、その子も跳ねるようにして両手を振り返してくる。
その光景を見ながら、思う。
この子たちが大人になる頃には、もっと自然に、この距離を行き来できるようになっているといい。
――ドアが開いた時、「待ってるよ!」と泣きながら笑った、あの表情が頭をよぎった。
「菜月ちゃん、菜月ちゃん!」
志織は、弾けるような声を上げてホームへ飛び出した。
それまでの落ち着いた様子が嘘のように、一直線に駆け出していく。
「志織君、会いたかったよ!」
菜月も両手をいっぱいに広げて飛び込み、二人はぎゅっと抱き合った。
私の手を握っていた娘も、ぱっと手を離して「ねぇ!」と男の子へ駆け寄った。
「ぼく、桃架!」
「ぼく、青維!」
重なった「ぼく」の響きに、二人は一瞬顔を見合わせる。
次の瞬間には、もう笑っていた。
「一緒に遊ぼ!」
「うん!」
桃架と青維はすぐに手をつなぎ、駆け出した。
「あっ、待ちなさい!」
「二人とも、走らないの!」
大人たちも、笑いながら慌てて後を追った。
その様子を少し離れたところから見ていると、隣で同じように笑っている菜月がいた。
あの日とは違う、誰かを支える時間を重ねてきた人の、揺るぎのない強さがその眼差しに宿っていた。
菜月が、右手を軽く上げる。
頷いて、私も手を上げる。
パンッと、弾けるような音が二人の間に心地よく響いた。
「「なつきちゃん!」」
重なった手のひらの温度が、確かな実感としてそこにあった。
そして、先を歩く皆の笑い声を聞きながら、私たちはその後をゆっくり追う。
「……ねえ、あの約束ってさ。私がちゃんと聞いてあげたんだから」
菜月の目が、急にいたずらっぽく笑った。
「今度は、私のお願いを聞いてくれる番だよね!?」
……びっくりした。
やっぱり、何も変わってない。
……でも、どこかほっとした。
「だから、これからの分も全部予約していいよね?いっぱい考えておいてあげたからね!」
相変わらず無邪気な笑顔で、無茶苦茶な理屈を投げかけてくる。
どうやら菜月は、どうあっても私を巻き込むつもりらしい。
こんなことを全部引き受けていたら、これから先、私の時間はいくらあっても足りない。
だから、あの時必死に掴もうとしていた未来で、こんなふうにふざけて返せるのが嬉しくてたまらなかった。
「冗談じゃないよ」
また、何かが始まる予感がした。
女ー男じゃない!
『完』




