連絡事項
九月一日。
始業式を終えたあと、ホームルームが始まる号令がかかった。
夏休み明けといえば、西側ならもう少し騒がしかったはずだ。
けれど、この教室はまるで昨日の続きみたいに、いつも通り静かだった。
それなのに私の心だけが、ずっとざわついていた。
先生が二学期の心構えなどの話をした後、話題は明後日の防災訓練に移った。
「毎年、二年生は準備だけでなく、終了後には資材等の整備や確認作業などもあります。そのつもりでいるように」
どうやら一年生は初めての訓練で、三年生は受験生ということもあり、そのまま帰宅するらしい。
連絡事項が済んで、そのまま号令となるのがいつもの流れだが、今日は違った。
「それと、女子生徒の小泉さんの件で、皆さんに伝えておきたいことがあります」
私の名前が呼ばれ、皆の視線が一斉に集まるのを感じた。
「小泉さん、教壇の横に」
呼ばれて先生の隣に並んだとき、ふと、視界の端に窓の外の青空が広がった。
そのわずかな瞬間に私の意識は、あの日の景色へと落ちていく。
始業式の二日前、母が勤務中に倒れたと、病院から電話があった。
容体は落ち着いていると聞いたけれど、居ても立ってもいられずに翌朝の始発に飛び乗った。
借り上げのマンションは、病院のすぐそばにあった。
「だから、大したことないって言ったでしょ」
部屋着のままベッドに腰掛け、母はけろりと言った。
「ほんとに?」
「ほんとほんと。ちょっと立ちくらみしただけ。点滴一本で回復よ。検査も問題なし。はい、おしまい」
まるで世間話でもするように、あっけらかんとしている。
「良かった。でも本当、病院から連絡があった時は私……」
思っていたよりずっと元気そうな姿に緊張が解けて、その場にへたり込みそうになった。
「でも、ごめんね。心配させちゃったわよね」
私がよほど不安そうな表情をしていたのだろう。
さすがに悪いと思ったのか、母は決まり悪そうに視線を泳がせた。
「この前菜月が、ああやって聞いてくるようになったの、ちょっと嬉しくて張り切りすぎちゃったって言うか」
最初は照れ隠しのように笑っていた。
けれどふと、一度も見たことのないような顔になっていると気づいた瞬間、思わず息を呑んだ。
「それでもね。どう思われたいとか、やりがいとか、そういう話じゃないのよ。この手が止まったら、そこで何かが終わる気がしてね。だから一人でも多く、日常に戻したいの。それだけ」
そこには、一人の人間として、憧れとしての看護師の姿があった。
私が怖いと思いながらも進みたいと願っていた、その先の自分の姿を初めてはっきりと思い描けた気がした。
「それで、なんだけどね」
そのまま窓の外の、西側へと続く空を眺めて、少しだけトーンを落とした。
「向こうから連絡が来てて。今回のこともあるし、このタイミングで戻るかって話になってるのよ」
「戻るって、西に?」
「そう。まあ、かなり長い支援にはなってたしね。ちょうど区切りでもあるしって」
それに、と付け加えて母は続けた。
「もともと前例も少ないことだから、いろいろ調整が追いつかないみたいでね。一度整理しようって流れになってるのよ。……また急な話になっちゃって、ごめんね」
どこか申し訳なさそうな顔をする母に、私は首を横に振った。
「ううん、お疲れさま。ありがとう」
母は目を丸くして、それから照れたように笑った。
そんなやり取りを思い出していると、先生の声が私を現実に引き戻した。
「残念ではありますが」
その一言が、静まり返った教室に重く響いた。
「小泉さんが家庭の事情で、今週末に西側へ戻ることになりました」
一切の装飾がない、事実だけの言葉だった。
皆、すでに知っていたから驚きの声は上がらなかった。
それでも、先生の口から改めて告げられた瞬間、それはもう揺るがない事実なのだという実感が込み上げてきた。
視線を感じて、私はゆっくりと顔を上げた。
最初に目に入ったのは、小春だった。
笑顔を作ろうとしていたけれど、それができないことに気づいたように、困ったような表情を浮かべていた。
志織は潤んだ瞳でまっすぐこちらを見ている。
感情を押し込めるように、口元にはそっと手が添えられていた。
けれど夏樹だけは、何を思い巡らせているのか、私には読み取れなかった。
どこか遠い場所からこちらを見られている、そんな感覚があった。
「では、小泉さんから一言お願いします」
「はい」
視線が集まるのが分かり、少し気後れしてしまった。
「急なことなんだけど。向こうに戻ることになりました」
なるべくいつも通りを意識したのに、何故か私の声ではないような気がした。
「お母さんの仕事の都合で。だから、その……」
一瞬だけ、視界の端の空がぼやけたような気がした。
「残り少ないけど、よろしくね」
精一杯自然に笑ったつもりだったけど、それでも少しだけぎこちない気がした。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
やがて、誰かが「急だよね」「新学期始まったばかりじゃん」と、消え入りそうな声をこぼしただけ。
その反応も広がらないまま消えていき、いつもと同じチャイムが鳴った。
それを合図に教室は動き出すはずだった。
けれど、まるで時間が止まったみたいに、誰もすぐには席を立たなかった。
こういう連絡を受けて、居場所を変えるのは初めてじゃない。
以前、西側にいたときも同じことはあったから、分かっているはずだった。
今回もきっと同じように、一度区切りがついてまたどこかで繋がれる、のであればよかったのだけれど。
けれど、これは同じじゃないと、言葉にしなくても分かっている。
それでも、考えないようにしていた。
心の底にある予感に、形を与えてしまえば、この時点でもう戻れなくなる気がしたから。
まだ、いつも通りでいられるこの時間を、崩したくなかった。
九月の空気は少しだけ軽いはずなのに、何かが急に遠ざかっていく気がした。




