花火
管理室へと続く人気のない通路を進むにつれて、さっきまでの皆の笑い声は次第に遠のいた。
隣を歩く志織は名簿を確認しながら、時折こちらに視線を向けていた。
やはりと思い、こちらから首を傾げると、意を決したように口を開いた。
「……ねえ。さっきの写真どう思った?前の俺なら、眩しくて仕方なかっただろうな」
「うん。あっちなら、違う自分になれたのかなって思ったかも。でも今は、やっぱりここで、いろんな流れが生まれていく方がいいって思うんだ」
志織は「ふふっ」と漏らしたかと思うと、咳払いをした。
「流れ、ね。うん、言いたいことは分かるんだけどさ。ただ……ねえ、別に今さら止めようとか、そういうわけじゃないんだよ」
私をじっと見つめるその目には、さっきまでの笑みはもうなかった。
「西側から菜月ちゃんが来る前の俺なら、『そっちじゃないでしょ』って言ってた気がするんだよね」
少し困ったように、首の後ろに手をやった。
「でも、この前さ。自分でも思ってたより色々抱えてたんだなって、分かったから」
制服交換の時のことを思い出しているのか、目を細める。
「だから友達として、どう考えてるのかだけ聞いておきたくて」
私は何も言わず、志織の言葉をじっと受け止めた。
「研究職に行くって決めたら、それで終わりじゃないからね。むしろ、そこからの方が長い」
静まり返った通路に、志織の澄んだ声が響く。
「男子が現場に出ないのって、逃げてるんだなと思う人は絶対いるし。職場の女性からだって、どう接すればいいんだろって、距離を置かれると思う」
乾いた風が、音を立てて通路を抜けていった。
「常識的にも、能力を見る前に『なんでそこにいるの?』って聞かれ続ける。この社会に用意されてない場所に立つって、そういうことだよ」
厳しい言葉だが、脅しているわけじゃない。
その現実を分かった上で進むのかを確かめてくれている。
志織らしい優しさが嬉しくて、素直な気持ちを打ち明けた。
「うん。ここでは、それが普通なんだよね」
整った街並みの向こうに視線を流すと、日は少しずつ傾き始めていた。
「ずっと迷ってたんだ。男子として現場の道へ進むべきなのに、どうしてこんなに引っかかるんだろうって」
制度にうまく馴染めなくて、もがいているような感覚だった。
考えるたびに、流れから取り残されていくような気がして、苦しかった。
「こんなこと考えずに流された方が、どれだけ楽だろうって思うこともあったよ」
変な目で見られることもないし、わざわざ誰かに説明する必要もない。
普通の男子として生きていく方が、ずっと簡単だから。
「でも、紫陽花を見に行ったあの日、自分の中でずっと押し込めていたものを初めて、あってもいいんだって思えたんだ」
菜月と一緒に、恐怖を引き連れたまま迷いの雨を振り切ったその先には、確かに光り輝く未来の気配があった。
「私のことを強いよ、って言ってくれて。少しだけ吹っ切れたんだ」
一人で抱え込んで立ち止まっていた、あの頃の自分を思い出す。
「でも皆が、そうやって踏み出せるわけじゃないと思う」
やりたいことがあっても、興味があっても、違うって空気だけで、自分から閉じてしまう人はいる。
「震災のときも、止まるって怖いことなんだって分かった」
物流が止まって物が届かなくなって、皆が次はどうなるか分からないという顔をしていた。
あの時の張り詰めた空気を、今でもはっきりと覚えている。
「なにか一つ止まるだけで、人ってどんどん不安になるんだよね。だから私は、皆のそういう止まりそうになる瞬間を減らしたい」
気づけば、指先が震えていた。
「研究職っていうより、皆が立ち止まらずに進めるような、手助けをしたいんだ。だから、やる前から女だから、男だからで、自分から閉じたくない」
言葉にするのが、一瞬だけ怖かった。
それでも、大丈夫だよと『なつき』が手を握ってくれる。
怖くても進むんだと、奥歯を噛み締めた。
「これが見えてるのに今動かなかったら、私は私のままでいられない。決めるのは他の誰でもない、自分なんだ」
志織は私を見つめたまま、やわらかく笑った。
「ふふ。なんか、ずるいな」
「そこまで言われたら、もう何も言えなくなるだろ」
横髪を耳の後ろへ流し、少し困ったように目を細めた。
「そういう顔するなら、ちゃんと最後まで貫いてよ。あの時、夏樹ちゃんが助けてくれたように、必要なら声かけるくらいはするけど」
「うん、ありがとう。十分心強いよ」
いつの間にか、不思議と心が軽くなっていた。
ずっと覚悟を試されていると思っていた。
でも、志織はただ私の想いを受け止めてくれていたんだと気づいたとき、その温かさが胸の奥に広がっていった。
事務所で用事を済ませて中庭へ戻ると、菜月は皆と一緒に花火の準備をしていた。
私たちに気づくと、ぱっと顔を明るくして大きく手を振ってくる。
「二人とも、おかえりー。待ってたよー!」
その姿には、さっきまでの画面の向こうにいた菜月との距離が、当たり前みたいになくなっていて、私は思わず足を止めた。
きっと菜月は、人の流れの中に立てる人なんだと思う。
場を動かして、空気を前へ進ませて、自然と皆を巻き込んでいく。
もちろん私は、ああはなれない。
それでも、私がやろうとしていることと、少しだけ似ている気がした。
それは男子として、社会の望まない方向へ根を伸ばすようなことなのかもしれない。
それでも。
花火が、暗闇をこじ開けて光を放つように。
「よし、火をつけるよ!」
小春の声で空気が動き出す。
黄昏の空が、青からピンク、そして深い紫へと移ろっていく。
その下で、暗闇を照らす小さな光が生まれようとしていた。




