背中
夏休みに入って二日が過ぎた寮内は、嘘みたいに静かだった。
つい先日まで賑やかだった廊下も、今は自分の足音しか聞こえない。
夏樹と小春は、オープンキャンパスや現場を見学する予定だという。
志織は自治体のインターンに参加すると、張り切った様子で申込書を見せてくれた。
それぞれが、もう次の先に向かって動き出している。
廊下に並ぶ「帰省中」の札が、その静けさをより際立たせていた。
みんな、帰る場所がある。
自分には、今はここしかない。
そのまま部屋の前で立ち止まることはなかった。
今日は、迎えに行く日だから。
駅の改札口で待っていると、人の流れの中に母の姿を見つけて、手を振った。
「お母さん、こっち!」
頬は少しやつれ、目元には疲れが残っていた。
それでも、私に気づいた瞬間、ぱっと顔が明るくなった。
「菜月!」
駆け寄って、軽く肩を抱き合う。
洗剤の匂いと、どこか消毒液のような匂いが混ざっていた。
それは母の匂いであると同時に、これから飛び込もうとする世界の匂いでもあった。
けれど触れた温もりは、変わらないままで、思っていたよりもずっと普通の再会だった。
「元気そうね」
「そっちこそ。ちょっと痩せた?」
「そう?仕事が立て込んでるからかもね。でも、あんた見たらお腹空いてきちゃった」
「なにそれ」
変わらない調子に、自然と頬が緩む。
気づけば、私までお腹が空いてきた。
途中で入ったファミレスは、昼時だというのにBGMのひとつも流れていないせいか、驚くほど静かだった。
「元気そうで良かったわ。ちゃんと食べてるみたいだし」
注文を済ませると、母はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。
以前、何気なく送った一枚だ。
「この玉転がしみたいなお祭り、面白いわね。この前もね、病院から見える公園があって、皆でバケツリレーしてるかと思ったら急に水を掛け合ってるのよ」
「え、なんで!?」
「何事かと思ったら、それがツツジ祭りだっていうの」
「こっちのお祭りって豪快だよね」
「たまげたわよ」
ふたりで顔を見合わせ、声を殺して笑った。
出された食事は、栄養バランスだけを計算し尽くしたような、いかにもこの街らしい、そっけないものだった。
けれど、久しぶりに向かい合って食べる母の存在が、その無機質な味を確かな温もりに変えてくれた。
店を出て少し歩くと、視界が開けた。
市街地には不釣り合いなほど広い車両待機所があり、トラックやバス、タクシーが整然と並んでいた。
「こっちって、ほんとこういうの多いわよね」
「ずっと動いててすごいよね。止まらなそう」
「乗用車が少ないのも、いかにもって感じよね。事故の患者も、珍しいくらいだって」
道沿いの商店は、看板も陳列も飾り気がなく、全体的にあっさりとしていた。
「選んでるはずなのに、悩む前に決められてる感じするわよね」
「迷わせないんだよね、きっと」
「あら、わかってるじゃない」
母は満足そうに笑い、私の肩をぱんと叩いた。
やがて、寮の門が見えてきた。
機能性重視の冷たい鉄柵も、今は少しだけ頼もしく見える。
「歩いても、そんなにかからなかったのね」
「うん、すぐでしょ」
案内された身内用の宿泊室は、ベッドと机だけというシンプルな作りだった。
「へえ、いいじゃない。よく眠れそうね」
母は窓を開け、湿った夏の風を部屋に招き入れた。
「何もないけどね」
「いいのよ。この何もないのが、今は一番贅沢」
母はベッドに腰を下ろし、深く長い息をついた。
その一瞬、母が背負っている現場の重みが滲み出た気がした。
「最近はどうなの?」
「まあ普通だよ。みんな帰っちゃったから、静かだけどね」
「進路の話とか、増えてるでしょ」
「うん。オープンキャンパスと……病院の見学も行く予定。あとは西側のも、オンラインでね。役所に申請出して、許可はもらえてるから」
「そっか」
その一言には、同じ道を見ようとしている私への、複雑な響きがこもっていた。
「……ねえ」
窓の外を眺めたまま、ずっと聞きたかったことを思い切って切り出した。
「そういう現場ってさ、やっぱ、すごいの?」
背後で、くすっと笑う声がした。
「すごいなんてもんじゃないわよ。毎日が戦場よ」
あまりにも軽く言うものだから、かえって胸に刺さった。
「でもね。忙しいほうが楽なのよ。考えなくて済むから」
何気ない口調なのに、その言葉は思ったより重く感じる。
「怖い?……手、震えたりしない?」
その声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
母は一瞬、弾かれたように目をしばたたかせた。
七月下旬、蝉の声が遠くで激しく響く。
母は、自分の右手を一度じっと見つめ、それから私を真っ直ぐに見た。
「……震えるわよ。今でもね」
その答えは意外だったのに、不思議と胸をほっと緩めた。
「震えない人のほうが、怖いわよ」
さらりと続けた言葉には、母の誇りと、揺るぎない覚悟が宿っていた。
そして、ふっと表情を和らげた。
「……そんなこと、聞くようになったのね」
それは、私がもう子供ではないことを認め、一人の人間として向き合うような、やわらかい声だった。
ああ、気づかれちゃたかな。
私が母の姿に何を重ねようとしていたのかを。
「だから大丈夫。ちゃんと怖がってるなら、それでいいのよ」
「……そっか」
ほっと息を吐いた。
もっと厳しい答えを覚悟していたのに、返ってきたのは、ずっと欲しかった言葉だった。
遠いままだったはずの背中が、前よりも少しだけはっきり見えた気がした。
怖さがあっても、それを分け合える支えがあると思えたから、聞けたのだと思う。
それを教えてくれた人のことを、ふと思い浮かべた。
すると、母が急に表情を崩して、カラッと笑った。
「でもまあ、そのうち慣れるわよ」
「それ、本当に大丈夫なやつ?」
「大丈夫じゃないままやるの。正直、そんなにずっと張り詰めてたらもたないわよ? みんな、適度に冗談言って発散させてやってるのよ。西側の現場なんて、もっと……」
いたずらっぽく笑いながら、裏話を始めた母につられて、私も笑った。
――翌日、母を駅まで見送る途中、ふと歩幅が揃っていることに気づいた。
足取りは風に溶けるようで、進む場所の感覚がすっと定まっていた。




