表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女ー男じゃない!  作者: 秋桜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/37

背中

 夏休みに入って二日が過ぎた寮内は、嘘みたいに静かだった。

 つい先日まで賑やかだった廊下も、今は自分の足音しか聞こえない。


 夏樹と小春は、オープンキャンパスや現場を見学する予定だという。

 志織は自治体のインターンに参加すると、張り切った様子で申込書を見せてくれた。


 それぞれが、もう次の先に向かって動き出している。


 廊下に並ぶ「帰省中」の札が、その静けさをより際立たせていた。


 みんな、帰る場所がある。

 自分には、今はここしかない。


 そのまま部屋の前で立ち止まることはなかった。

 今日は、迎えに行く日だから。


 駅の改札口で待っていると、人の流れの中に母の姿を見つけて、手を振った。


「お母さん、こっち!」


 頬は少しやつれ、目元には疲れが残っていた。

 それでも、私に気づいた瞬間、ぱっと顔が明るくなった。


「菜月!」


 駆け寄って、軽く肩を抱き合う。

 洗剤の匂いと、どこか消毒液のような匂いが混ざっていた。

 それは母の匂いであると同時に、これから飛び込もうとする世界の匂いでもあった。


 けれど触れた温もりは、変わらないままで、思っていたよりもずっと普通の再会だった。


「元気そうね」

「そっちこそ。ちょっと痩せた?」

「そう?仕事が立て込んでるからかもね。でも、あんた見たらお腹空いてきちゃった」

「なにそれ」


 変わらない調子に、自然と頬が緩む。

 気づけば、私までお腹が空いてきた。

 途中で入ったファミレスは、昼時だというのにBGMのひとつも流れていないせいか、驚くほど静かだった。


「元気そうで良かったわ。ちゃんと食べてるみたいだし」

 注文を済ませると、母はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。

 以前、何気なく送った一枚だ。


「この玉転がしみたいなお祭り、面白いわね。この前もね、病院から見える公園があって、皆でバケツリレーしてるかと思ったら急に水を掛け合ってるのよ」

「え、なんで!?」

「何事かと思ったら、それがツツジ祭りだっていうの」

「こっちのお祭りって豪快だよね」

「たまげたわよ」

 ふたりで顔を見合わせ、声を殺して笑った。


 出された食事は、栄養バランスだけを計算し尽くしたような、いかにもこの街らしい、そっけないものだった。

 けれど、久しぶりに向かい合って食べる母の存在が、その無機質な味を確かな温もりに変えてくれた。


 店を出て少し歩くと、視界が開けた。

 市街地には不釣り合いなほど広い車両待機所があり、トラックやバス、タクシーが整然と並んでいた。


「こっちって、ほんとこういうの多いわよね」

「ずっと動いててすごいよね。止まらなそう」

「乗用車が少ないのも、いかにもって感じよね。事故の患者も、珍しいくらいだって」


 道沿いの商店は、看板も陳列も飾り気がなく、全体的にあっさりとしていた。


「選んでるはずなのに、悩む前に決められてる感じするわよね」

「迷わせないんだよね、きっと」

「あら、わかってるじゃない」

 母は満足そうに笑い、私の肩をぱんと叩いた。


 やがて、寮の門が見えてきた。

 機能性重視の冷たい鉄柵も、今は少しだけ頼もしく見える。


「歩いても、そんなにかからなかったのね」

「うん、すぐでしょ」


 案内された身内用の宿泊室は、ベッドと机だけというシンプルな作りだった。


「へえ、いいじゃない。よく眠れそうね」


 母は窓を開け、湿った夏の風を部屋に招き入れた。


「何もないけどね」

「いいのよ。この何もないのが、今は一番贅沢」


 母はベッドに腰を下ろし、深く長い息をついた。

 その一瞬、母が背負っている現場の重みが滲み出た気がした。


「最近はどうなの?」


「まあ普通だよ。みんな帰っちゃったから、静かだけどね」


「進路の話とか、増えてるでしょ」


「うん。オープンキャンパスと……病院の見学も行く予定。あとは西側のも、オンラインでね。役所に申請出して、許可はもらえてるから」


「そっか」


 その一言には、同じ道を見ようとしている私への、複雑な響きがこもっていた。


 「……ねえ」

 窓の外を眺めたまま、ずっと聞きたかったことを思い切って切り出した。

「そういう現場ってさ、やっぱ、すごいの?」

 背後で、くすっと笑う声がした。

「すごいなんてもんじゃないわよ。毎日が戦場よ」

 あまりにも軽く言うものだから、かえって胸に刺さった。


「でもね。忙しいほうが楽なのよ。考えなくて済むから」

 何気ない口調なのに、その言葉は思ったより重く感じる。


 「怖い?……手、震えたりしない?」

 その声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。


  母は一瞬、弾かれたように目をしばたたかせた。

 七月下旬、蝉の声が遠くで激しく響く。


 母は、自分の右手を一度じっと見つめ、それから私を真っ直ぐに見た。

「……震えるわよ。今でもね」

 その答えは意外だったのに、不思議と胸をほっと緩めた。


「震えない人のほうが、怖いわよ」

 さらりと続けた言葉には、母の誇りと、揺るぎない覚悟が宿っていた。


 そして、ふっと表情を和らげた。

「……そんなこと、聞くようになったのね」

 それは、私がもう子供ではないことを認め、一人の人間として向き合うような、やわらかい声だった。


 ああ、気づかれちゃたかな。

 私が母の姿に何を重ねようとしていたのかを。


「だから大丈夫。ちゃんと怖がってるなら、それでいいのよ」

「……そっか」


 ほっと息を吐いた。

 もっと厳しい答えを覚悟していたのに、返ってきたのは、ずっと欲しかった言葉だった。


 遠いままだったはずの背中が、前よりも少しだけはっきり見えた気がした。

 怖さがあっても、それを分け合える支えがあると思えたから、聞けたのだと思う。

 それを教えてくれた人のことを、ふと思い浮かべた。


 すると、母が急に表情を崩して、カラッと笑った。


「でもまあ、そのうち慣れるわよ」

「それ、本当に大丈夫なやつ?」


「大丈夫じゃないままやるの。正直、そんなにずっと張り詰めてたらもたないわよ? みんな、適度に冗談言って発散させてやってるのよ。西側の現場なんて、もっと……」


 いたずらっぽく笑いながら、裏話を始めた母につられて、私も笑った。


 ――翌日、母を駅まで見送る途中、ふと歩幅が揃っていることに気づいた。


 足取りは風に溶けるようで、進む場所の感覚がすっと定まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ