紫陽花
空を見上げると、一時的な通り雨だったようで、雨はだいぶ弱くなってきている。
菜月は東屋から手を出して、雨の具合を確かめた。
「あ、そろそろ止みそうだよ」
差し込んできた陽の光を受けて、紫陽花の花びらがきらめいている。
「ねえ、宝石みたいだね!」
菜月が両手を広げて、くるりと回った。
光を弾く花の中で、その姿はとても眩しく見えた。
菜月は紫陽花の前でかがみこむと、私を手招いた。
「ほら見てよ、とっても綺麗だね。一つの株に、青とピンクや紫色が咲いててもいいんだよ」
私も隣りに並んで視線を合わせると、雨の匂いの中で花の色が、ゆっくりと溶けていった。
**
そして、
――夏樹は、
――菜月は、
どちらともつかないまま、
――なつきは、
なんだか可笑しくなったように笑った。
「強いなつきちゃんが隣にいると、私も強くならなきゃって……なんか、無理してたかも」
私もきっと、同じように自分を追い詰め続けていたのかもしれない。
「でもさ。なつきちゃんも怖いって聞いて」
「……あ、そっかって思ったんだ。私だけじゃなかったんだなって」
その気づきもきっと、なつきと同時だった。
まるで、自分より強く見えていた人が、もう一人の私でいてくれたような気がした。
「だからかな。今は、ちゃんとそう思える。もう、さっきみたいに怖くないよ」
そのまま、二人の視線が近づいた。
「どっちの色もあるなら、無理に分けなくていいよね。迷ってるとか、怖いっていうのは、きっと両方を受け止めようとしてる途中なだけなのかも」
「……うん、そうだね」
言葉にしてみれば、驚くほど簡単なことだった。
けれど、そんなことを私一人でできるわけないから。
「この紫陽花は、なつきちゃんと私みたいだね」
何気なく口にしたつもりだったのに、言った途端に少し気恥ずかしくなってしまった。
でも、なつきは笑わなかった。
「いいね、それ」
あっさりと言った。
「一人で決めるのが怖いなら」
なつきが、どこか真剣で射抜くような瞳を向ける。
「二人で支え合えればいいよね」
その言葉に、心臓が跳ねるどころか、一瞬止まったような気がした。
そこにいるのが、なつきなのか、それとも私自身なのか。
その境界さえも、雨に打たれて滲んでいくような感覚。
――二人で。
雨音のせいか、それとも距離が近いせいなのか、うまく呼吸が合わない。
「だって」
なつきは、当たり前みたいな顔をして、私と自分を交互に指した。
「私たち、“なつき姉妹”でしょ」
「あ……」
さっきまでの変な緊張がとけて、思わず笑ってしまう。
安心したような。
でも、どこかだけ、少しだけ。
言葉にしきれない感覚が残ったまま。
「……うん」
それでいい、と思った。
その距離のままで。
その関係のままで。
「なつきちゃん」
なつきが隣で、私を見つめている。
「ありがと」
軽く言うのにその言葉はちゃんとまっすぐで、心にじんわりと響いた。
「うん。私たちは混ざった紫陽花で、いいんだよね」
あんなに怖かったのに、いざ言葉になってみると、不思議なくらい胸のつかえが軽くなった。
「うん!」
今は揺れててもいい、一人じゃないって思えるだけで踏み出せる。
雨は、ほとんど止んでいた。
葉先から、雫がぽたぽたと落ちる。
それまで見ていた世界が光で照らされて、澄んで見えた。
唇がわずかに開く。
「なつき」
一瞬、どっちを呼んだのか、それとも呼ばれたのか、わからなかった。
それが二人の名前なのか、それとも、この目の前の紫陽花のことなのかさえ。
「ん?」と振り向く気配を感じる。
「……なんでもない」
その笑顔は、この瞬間だけのものなのかもしれない。
それでも。
同じ根から伸びて、
違う土に触れて、
青とピンクを抱えたまま、
一つでいられるもの。
その名前を、もういつでも胸の中で呼べる。
「そろそろ行こっか」
**
歩き出すと、境内の空気はすっかり軽くなっていた。
雨上がりの湿った風に乗って、遠くからお囃子の音や人のざわめきが少しずつ混ざり合う。
「おーい、夏樹ちゃん!」
少し離れたところから、小春の声が飛んでくる。
「やっと止んだねー!」
手をぶんぶん振っているのが見えた。
「ほんと局地的すぎない?こっち普通に晴れてたんだけど」
呆れたように言いながら近づいてくる。
その隣で、志織は何も言わずにこちらを見ていた。
一瞬だけ、目が合った。
その視線に、ほんの少しだけ立ち止まる。
「……なに?」
思わずそう聞くと、
「別に……いや、なんでもない」
それだけ言って、先に視線を外した。
「ほら、行こ行こ!屋台だ屋台!」
小春の腕を引く勢いに、思わず笑ってしまう。
さっきまでの迷いや恐怖心が、全部消えたわけじゃない。
でも、それごと自分なんだと受け入れられた気がする。
四人で、歩き出す。
どちらかを選べば、もう一方は閉じるものだと思っていた。
でも、目の前の花はどちらの色も手放さずに、ちゃんと咲いている。
――あれ。
さっきまで感じていた距離が、いつの間にかなくなっていた。
今は、同じ場所に並んでいる気がする。
紫陽花の横を通り過ぎながら、僅かな間、振り返る。
迷いに縛られていた感覚を、あそこに置いてきた気がする。
あの場所が遠ざかるにつれて、足取りは軽くなっていった。
そのまま、前を向いて歩いていく。




