紫陽花色
境内の奥へ進むと、屋台の声や太鼓の音が遠のき、視界もゆっくり変わってきた。
梅雨前の湿った空気の中で、花びらはしっとりと光っていた。
「わー、こっちはすごい咲いてるんだね。きれーい!」
菜月が弾んだ声を上げると、そのまま紫陽花のほうへ駆け出した。
私もその後を追い、じっくりと花を眺めていると、なぜか今日は色の違いがやけにはっきりと目についた。
「……あれ?この株は青い花なのに。すぐ横の株はピンクなんだね。種類が違うのかな?」
「夏樹ちゃん、面白いところに気がついたねー」
菜月はくすっと笑って、紫陽花の根元を指さした。
「紫陽花ってね、同じ種類でも土で色が変わるんだよ」
「え、土?」
菜月は拳を口元に添え、「オホン」と咳払いをした。
「酸性だと青、アルカリだとピンクっぽくなるの。だから、同じ場所でも違う色の花が咲くんだよ」
同じ種類なのに、土で咲く色が違う……。
それは、どこか私たちにも重なる気がした。
まっすぐな青色は、志織や小春。
東側の色。
伸びやかなピンク色は、菜月。
西側の色。
そんな中、他とは違う株があった。
一つの株に青とピンクの花が並び、どちらの色も手放せないまま、混ざり合う色の花も咲いている。
「同じ株なのに、混じって咲いているのもあるんだね」
「うん、それはね。根っこが、どっちの土にも伸びているからなんだよ。だから、青とピンクが混ざり合ってるのもあるんだって」
――どっちの土にも。
――東側にも、西側にも。
「……はは。なんだか、どっちつかずの私みたいに、中途半端な色だな」
菜月は、きょとんとしたように首を傾げている。
「皆はこの花みたいに、どっちかの色にちゃんと染まっていってるよね。なのに私はいつまでも進路に迷っていて」
なぜだろう、誰にも言うつもりはなかったのに。
「それが、たまらなく怖くなっちゃうんだ」
さっきまで楽しかった祭りの喧騒が、今は遠い世界の音みたいに思えた。
ここで立ち止まっているほうが、自分には合っていると、そんな気すらしてくる。
菜月は戸惑ったように口を結んでいたが、やがて腑に落ちたような顔をした。
「迷っている色か、うん。でもさ、それってダメなのかな?」
「……え?」
「こういう混ざり合った色も、きれいだよ」
菜月らしいな、と思って口元が緩んだ。
「そう言うと思った」
「なにそれ」
「だって菜月ちゃんは、強いから」
言っておきながら気恥ずかしくなってしまい、視線を逸らした。
菜月は目を丸くして、紫陽花に伸ばしかけた手を止めた。
「そんなことないよ」
その声は、いつもよりか細かった。
その時、風が吹いて花が揺れたかと思うと、頬にぽつ、と冷たいものが落ちた。
見上げると、薄曇りの空から小さな雨粒が落ちてきた。
「通り雨かな」
次の瞬間、雨足が少しだけ強くなった。
「夏樹ちゃん、一回あっち行こ」
手首を軽く引かれて、東屋の軒下へ駆け込んだ。
木と雨の匂いが溶け合い、屋根を叩く雨音が辺りを包んでいる。
「……びっくりしたね」
ベンチに腰を掛けると、菜月はスマホを取り出した。
「あ、志織君から。『そっち大丈夫?こっち普通に晴れてるけど』だって」
「え、なにそれ」
距離は近いのに、そこまで違うものなのか。
「『こっち通り雨かな。ちょっと様子見してるね』っと」
また雨音だけになり、濡れた花がさっきよりも深い色に見える。
「雨に濡れた紫陽花ってきれいだよね。私、大好き」
菜月が祭りの余韻を楽しむように、鼻歌まじりに肩を揺らしている。
その横顔を見ながら、耳を澄ませた。
屋根を打つ雨音が、規則的に重なり、胸の奥でなにかがゆっくりと膨らんでいく。
それを押し出すみたいに、言葉が溢れた。
「ねえ。中途半端なまま進むのって、やっぱり怖いよ」
こんな格好のつかない弱音をこぼすなんて、私はよほど菜月を眩しく見ていたんだと思う。
短い沈黙のあと、菜月は物憂げな目でこちらを見た。
「……怖いよね。私も、怖いよ」
「え……、何が?」
「看護師になるのが。私に務まるのかなって、本当は毎日迷ってるの」
――え?
言葉の意味が、うまく入ってこなくて、思考が止まった。
あんなに強く見えていたのに。
私みたいに迷うことなんて、ない人だと思ってたのに。
「自分でなりたいって言ってるのに。いざってなったら、逃げたくなるかも、って」
雨が少し強くなり、屋根を打つ音が重なる。
「覚悟が足りないのかも、って思うと……手がね、震えちゃうの」
そう言って右手をそっと押さえた。
その仕草を見て、さっきからの引っかかりが言葉になりかける。
――ああ、そうだ。
この感じは、ずっと心の中で降り続いてる涙のようだ。
菜月の、怖いという言葉。
――体育祭で、私の手を引いたときの、あの、ほんの少しの震え。
「知ってたよ」
全てが、繋がった。
「菜月ちゃん、体育祭のあのとき。怖いのに来てくれたんでしょ」
菜月は、驚くように目を見開いた。
「そっか、バレてたんだ」
そう言うと、力が抜けたように息をついた。
「バレてたんだね」
一瞬、しんみりとした空気が流れる。
けれど次の瞬間、弾かれたように顔を上げた。
「待って!今なんて?うそ、ほんとに!?」
一瞬で顔が赤くなり、両手をわなわなと震わせる。
「ちょ、ちょっと待って」
頬に手を当てると、団扇でぱたぱたと仰いだ。
「それは、ちょっと……恥ずかしいかも」
笑ってごまかすように、私の肩をバンバンと叩いた。
「やだー、あはは!ね、強くないでしょー?」
雨が強くなり、屋根を叩く音が大きくなる。
「私も夏樹ちゃんと一緒。混じった色の紫陽花なんだよ」
菜月は胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐いた。
「もしね。私がこのまま東側で働くことになったとしたら、きっと夏樹ちゃんみたいに怖くなってたよ」
「看護だと、女性は調整官になるものなんでしょ?私は患者さんに直接ケアもしたいから、きっと同じように迷ってたよ」
「悩むだろうな、苦しいだろうな」
菜月は照れたように両手を合わせた。
「だからね、私からしたら。夏樹ちゃんのほうがずっと強くみえてたよ」
その言葉は、思ってもいなかった方向から差し込んできて、迷いがほどけていく音がした。
屋根を叩く雨音が、少しずつ遠のいていく。
さっきまで曖昧に見えていた花の色が、急にやさしく重なり合う。
それは、鮮やかな紫色だった。




