紫陽花送
木々に囲まれた山道を抜けたところで、目の前が一気に明るくなった。
神社の境内には、人の歓声が波のように広がり、周囲には紫陽花が咲いている。
「やってるやってる!」
思わず声を上げたその時、奥から巨大な球体がゆっくりと転がり出てきた。
それを見た菜月が、ぽかんと口を開けた。
「え……、うそー!なにこれ!?」
突然大きな声を上げたので、思わず肩をびくりとさせた。
「何って、紫陽花送りだけど。知らないの?」
「送り!?え、知らない」
紫陽花の花を思わせる色が重なり合った、空気を含んだような球体を、何人もの男たちが押している。
「紫陽花祭りって……、こういうことなの?」
「まあ。この辺だと、こういうのだね」
「祭りってさ、紫陽花見たり屋台とかだと思ってたよ」
志織が球体に団扇を向ける。
「ああ、もちろん。でもメインはあれ」
菜月は目を輝かせて、弾むように跳ねた。
その子どもみたいな仕草に、思わず笑ってしまう。
「菜月ちゃんが驚くのを見ると、なんだかこっちまで楽しくなってくるよ」
小春が楽しそうに笑っていると、神社の境内から、太鼓の音が鳴り響いてきた。
「さあ、はじまるよ」
私も段々と気分が高揚してきた。
ドン、ドン、と腹に響く低い音に合わせて、観客たちの歓声が上がった。
大玉が転がるたびに歓声が上がり、観客たちは団扇を振りながら体を揺らしていた。
「ほら、あそこまで運ぶんだよ。あの玉」
志織が目線を向けた坂の上には、鳥居の手前に大きな輪が置かれている。
「えぇー、あんな高いところまで?すごーい!」
菜月が目を丸くする。
巨大な紫陽花の球体は、ゆっくりと坂を上っていく。
「わー、いいなこれ。やりたい!」
身を乗り出す菜月に、志織が苦笑して首を横に振る。
「参加できるのは、高校生以上の男子だけ。危ないからね」
「あー、そうなんだ」
少し残念そうに口を尖らせた。
「だからみんなタオルやハチマキ巻いてるんだよ。汗かくし、滑ると危ないからね」
小春が自分の頭のタオルをぽんと叩く。
菜月は納得したように頷きながら、もう一度巨大な球体を見上げた。
*
「そろそろ行こうか」
夏樹がそう言うと、小春と並んで紫陽花送りの受付の方へ歩き出した。
「頑張ってね!」
私が声をかけると、夏樹が振り返って、手を振った。
観客たちの掛け声は体育祭みたいにぴったり揃っているわけじゃなかった。
「寄せて右ー ソレ♪」
「みーぎへ みぎへー♪ ワッショイ!」
それでも太鼓と笛のお囃子に乗っているせいか、球体も、人も、声も、みんな同じリズムで揺れていた。
皆が楽しそうに団扇を振り、体を揺らしているのを見て、私はふと自分の手を見つめた。
「ねえ志織君、私も団扇を買いたい!」
そう言うと志織は「ハイ」と、自分が握っていた団扇を、私に差し出した。
「え、志織君は?」
突然のことにびっくりすると、志織は背負っていたリュックを下ろし、ファスナーを開けた。
「俺はこれもあるから」
中から取り出したのは、かわいいミニ団扇だった。
「あげるよ。去年のだけど、よかったら使って」
「嬉しい。ありがとう、志織君!」
「飴ちゃんのお返し」
志織のは青色で、私のはピンクの紫陽花が描かれていた。
「やったー、おそろだね」
二人で団扇を掲げて、くすっと笑う。
ぱたぱたと振ってみると、やわらかい風が頬に当たって気持ちよかった。
そのとき、歓声が一段と大きくなった。
視線を上げると、紫陽花送りの球体が坂に向かっていくところだった。
「わあ……」
まるで大きな紫陽花そのものが、ゆっくり転がるように、青や紫がくるくる入れ替わる。
「きれいでしょ」
志織が少し誇らしげに言う。
「うん……ほんとに紫陽花だね」
ふわり、と紫陽花色の紙吹雪も風に乗って舞ってきた。
「よいしょで 押してー♪ よいしょー!」
歌うみたいに続く声は相変わらず自由で、でも不思議とお囃子に合っている。
私も居ても立っても居られなくて、見様見真似で団扇を振ってみると、志織も照れくさそうに笑いながら団扇を揺らす。
「こうやるんだよ」
そう言って、太鼓のリズムに合わせて軽く肩を揺らした。
その動きを真似しているうちに、気づけば足まで軽く弾んでいた。
舞い散る紙吹雪、熱気、お囃子の音、そして、隣で一緒に体を揺らす志織。
すべてが、ひとつの美しい夢みたいだった。
「ころころ ころーり♪ ハイハイ!」
子供たちも、意味なんて関係ないみたいに、声を重ねていく。
その楽しそうな声につられて、私も自然に同じ掛け声を口にしていた。
紫陽花色の球体が、まるで人の声に送られていくみたいだった。
ふと、玉の向こう側に懸命に球体を押している夏樹と小春の顔が見えた。
「おーい!夏樹ちゃん、小春ちゃん、がんばれー!」
私が団扇を振ると、夏樹と小春がこちらに気づいて大きく手を振った。
子供の頃から、祭りや運動会でこうやって声を合わせてきたのだろう。
体育祭のときにも、感じたことだけれど。
西側の祭りとは、ちょっと違うけれど、賑やかで少し幻想的で。
「うん、すっごく楽しい!」
球体が坂の上へと消えていくと、太鼓と笛の音や歓声は少しずつ遠くなっていった。
そのまま見上げていると、夏樹が脇の階段をゆっくりと下りてきた。
「おかえり。小春ちゃんは?」
志織が団扇を振りながら、鳥居の向こうへ目を向けた。
「友達に捕まってた。なんか盛り上がっちゃってて、当分降りてこないと思うよ」
「ああ、そうなんだ」
夏樹は頭に巻いていたタオルを外しながら、境内の方をちらっと見回した。
「どうしようか、屋台でも見て回る?」
その提案に、志織は少し考えてから首を振った。
「いや、それだと小春ちゃんが戻ったとき迷子になるかも。屋台は後でいいんじゃないかな。お昼まで時間あるし」
そう言って、視線を境内の奥へ続く紫陽花道へ向けた。
「ここ、菜月ちゃん初めてだしさ。奥まで紫陽花が咲いてるでしょ?案内してあげなよ」
志織は団扇をリュックにしまうと、近くの石段へ腰を下ろした。
「俺はここで小春ちゃん待ってるから。その後四人で屋台回ろうよ」
夏樹は腕時計をちらっと見てから、私に目を向ける。
「……行く?」
「うん、行きたい!」
私は勢いよく手を挙げた。
「じゃあ決まりだね。いってらっしゃい」
「うん。ありがとう、志織君」
軽く手を振ってから、夏樹と一緒に境内の奥へ歩き出す。
奥へ行くほど太鼓や人の声は少しずつ遠くなっていく。
砂利を踏む音が、さっきよりもやけに大きく聞こえて、私はなんとなく団扇をぎゅっと握り直した。




