仮住居
土曜日の正午を告げるチャイムが鳴ると、途端に空気が和らいだ。
半日で終わる放課後は、誰もがどこか浮き立っていた。
昨日でクラス全員の進路面談が終わった。
次の期末テストという嵐が来るまでは、束の間の小休止だ。
けれど、私の中にはまだ霧がかかったままだった。
――あなたの言葉には、覚悟が見えません
先生に改めて向き合わされた現実を思い出して、喉が少し渇いた。
「ねえ、ひと段落だしさ。ペロンチェチームでお疲れ会しようよ!」
前を歩いていた菜月が、弾むようにくるりと振り向く。
日差しを受けた髪が、ふわりと跳ねた。
「テイクアウトして、川原でお茶しようよ。今日は風が気持ちいいしね」
「大賛成!完全にオーバーヒートしてたからね!」
小春が天を仰いで、大げさに四肢を伸ばす。
「午後の自習までは時間があるし、たまにはそんな過ごし方もいいかもね」
志織も表情を少しだけ緩め、心なしか足取りまで軽やかだった。
校門を出てしばらく歩くと、甘ったるい香りが風に乗ってきた。
昼間でも看板が煌々と光るペロンチェへ、吸い込まれるように入る。
相変わらず、糖分に全振りしたメニューが並んでいた。
「私は『練乳まみれソーダ』!」
一番に決めた小春が手を挙げて注文する。
「じゃあ俺は『浸透率一五〇%ショコラ』かな。……さすがにセーフティサイズで」
名前だけで歯が浮きそうだ。
私は無難に「甘々抹茶」に逃げようとしたが、注文直前で菜月に腕を掴まれた。
「夏樹ちゃんもこれにしようよ」
店員から手渡されたのは『熟糖マンゴーの卒倒フラッペ(マシマシサイズ)』
もはや警告文だ。
「これ、救急搬送案件じゃない?」
「大丈夫。私、看護師志望だから」
自信満々に胸を張るが、何が大丈夫なのかさっぱり分からない。
しかも言い出しっぺのくせに、菜月はしれっとセーフティサイズを手にしていた。
けれど、そんな無茶苦茶な理屈に毒気を抜かれて、つい呆れたように笑ってしまう私がいた。
川原へ出ると、梅雨の晴れ間を惜しむように、土手には色とりどりの日常が散らばっていた。
幾人もの時間を受け止めてきたであろう、なだらかな斜面に腰を下ろす。
梅雨前の風が、ぬるく頬を撫でていく。
川面がきらきらと揺れている。
「で、結局みんな、進路どうするの?」
小春が、練乳まみれのストローをくわえたまま、唐突に現実を引き戻した。
「私はほぼ決まりだよ。親も喜んでるしね」
「地元の国大の政策学部。俺の描いた最短ルートだから」
志織が淡々と答え、二人の視線が、自然と私に集まった。
「夏樹ちゃんは?」
「……まだ、検討中」
答えた瞬間、言葉がずしりと重くのしかかった。
「まだ?もう決めちゃいなって。おいしい枠は早い者勝ちだよ!」
小春が手を振って、笑い飛ばす。
志織は何も言わずに、ただ、私を見ている。
その視線は優しいのに、なぜか息苦しさを覚えた。
しばらくの沈黙のあと、志織が気を遣ってくれたのか、話題を変えた。
「菜月ちゃんは特例で来たとは言え、やっぱり西側に戻らないといけないんだよね?」
菜月はフラッペを一口飲み「甘っ」と言って、笑ってから空を見上げた。
「うん。仮に東側で資格取っても、西側じゃ使えないからね。長くても、卒業までかな」
さらりとした口調だった。
けれどそれは、抗いようのない法律の話だ。
「そもそも、向こうに残るって選択肢がなかったからね。西側って未成年の一人暮らしダメなんだよね。親戚の家からだと、条件の合う学校もなかったし」
だから、より遠くの学校へ行くくらいなら、と。
母親の東側での復興支援に合わせて、この全寮制の学校に来たのだ。
私はその話を人づてに聞いたことがあるけれど、本人の口から改めて聞かされると、やっぱり胸にくるものがあった。
「だから、西側で取るしかないんだよね。結局」
その言葉は、いつか必ず、私たちの前からいなくなることを示していた。
湿っぽくなりかけた空気を、小春が無理やり明るい色に塗り替える。
「……こっちだとさ、現場で作業するのは“臨床機動士”でしょ?医師と現場をつなぐ調整は“看護調整官”。役割がパキッと分かれてるけど」
それが当たり前、という空気で、私と志織は自然に頷き合う。
「その“看護師”って、分担制じゃないんでしょ? 私なら三日で逃げる!」
両手で自分の肩を抱き、ぶるっと震えてみせた。
「小春ちゃんは、採血で失神するお約束タイプだよね」
「ホント、女子って西も東もヒドイよね」
菜月との軽妙なやり取りに、私たちの笑い声が土手に響く。
「志織君は似合いそうだよね。修羅場でも冷静に動いてそう」
「どうかな。案外、患者に説教して嫌われるかもよ」
とても想像しやすい例えだが、怖いので誰も茶化せなかった。
「夏樹ちゃんは?」
菜月が期待を込めた目で、首を傾げる。
「じゃあ……点滴の棒を運ぶ係」
「それじゃ、患者さんでしょ!」
菜月の鋭いツッコミに、再び笑いが広がる。
ひとしきり笑ったあと、小春がふと真面目な顔になる。
「でもさ、菜月ちゃんは、絶対向いてると思う」
「そうかな?」
「うん。なんか頼れそう」
菜月の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……そんなことない、全然だよ」
すぐにいつもの柔らかな顔に戻り、フラッペを口に運んだ。
その言葉に、先月の体育祭の出来事が脳裏に浮かんだ。
私が派手に転倒した、あの時。
真っ先に駆け寄ってくれた、あの手。
そのとき、ほんの一瞬だけ、なにかが引っかかった気がした。
でも、それが何だったのかは、うまく言葉にできなかった。
「あ、見て」
小春が立ち上がって指をさす。
川原の端に、紫陽花が咲き始めていた。
「そうだ。明日、神社の紫陽花祭り行こうよ!」
「ああ、いいね。この辺じゃ一番大きな祭りだし、気分転換にはちょうどいい」
「わあ、行きたい。このメンバーで休日に出掛けるの初めてだよね、楽しみ!」
菜月が立ち上がり、咲きかけの花を見つめる。
その笑顔には、何故か少しだけ寂しさが感じられた。
風が吹いて、紫陽花が揺れた。
期限付きの自由を味わうみたいに、私たちは溶けかけたフラッペを飲み干した。




