未定
放課後。
教室のざわめきが、少しずつ遠ざかっていく時間だ。
進路指導室の前に立つと、そこだけ空気がひんやりと感じられた。
ノックしようとした手を、一旦止めて呼吸を整えた。
別に怒られるわけでもない。
ただの進路調査だ。
そう分かっているのに、胸の奥がほんの少し落ち着かない。
進路調査の面談は一日に五人行われ、私はこの日の最後だった。
本当は二番目の予定だったが、朝のホームルームで佐藤先生から急遽最後に回すと告げられた。
「小泉さんは、少し時間が掛かると思いますので」
特に予定もなかったので、素直に了承したが「やはり」と思い、少しだけ憂鬱になった。
デスクを挟んで向かい合う先生は、無機質な手つきで眼鏡を直した。
その視線に棘はないが、逃げ場のない善意が宿っている。
「あなたの身体適性評価と学科成績。この二つの数値は、学園でも稀に見る高い均衡を保っています」
画面には、私の評価が整然とグラフ化されていた。
「これほどの数値があれば、選択肢は無数にあります」
例えば、と言いながらタブレットの画面を“男子生徒用:職業一覧”に切り替えて見せた。
「警備局特殊機動班、あるいは重機動制御士など」
画面に並ぶ職業名を一つずつ指で叩いていく。
「社会を物理的に維持し、守る。それが男子の特権であり、義務でもあります。あなたの数値なら、その最前線で誰もが認める貢献ができる」
ですが、と今度は私の調査票を指でなぞりながら読み上げる。
「第一希望、基礎理論研究職。第二希望、未定。第三希望、重機動制御士……」
そこで指が止まった。
「未定、とは?」
私は一瞬、息を整える。
「まだ、決めきれていません」
「何をですか」
「……自分が、どこに立つのか」
先生は頷いて、書類から目を上げた。
「基礎理論研究職は、この国では研究職に分類されます。恒久インフラの設計や規格策定は、研究官や設計官の領域です。それを理解したうえでの志望ですね」
「はい」
「それは、身体適性のある男子として、現場の最前線に立つ役割を望まない、と言うことですか」
責める口調ではない。
ただ、事実の確認をしている。
「あなたの身体適性はすべて基準以上です。それを踏まえて物理的に国を支える職業への進路は、制度上もっとも自然です」
「理解しています」
「ではなぜ、あえて研究職を第一希望に?」
「……うまく説明できません。ただ、現場に立つ人間を、支える側も必要だと思いました」
「それは、逃避ではなく?」
胸の奥がひりついた。
「分かりません」
理由が曖昧だと自覚している分、先生の言葉は当然の指摘だった。
もう、私には正直な気持ちを言うことしか出来なかった。
先生の表情に、失望した様子はなかった。
むしろ、ようやく本音を聞けたことに、安堵しているようだった。
「私は、あなたを正しく導く立場です。そして、迷うこと自体を否定はしません」
わずかに間を置いてから、核心を突くように続けた。
「しかし今のあなたには、自分の人生を選び取る覚悟が見えません」
言葉は静かだが、重い。
「どちらの職業にも、相応の責任があります」
書類の上の“未定”の文字に、視線が落ちる。
「ですが、第二希望を未定とする限り……。あなたはまだ、どちらの責任も引き受ける位置に立っていない」
その、きっぱりとした発言に何も言い返せなかった。
「男子としての進路には一定の期待があります。この制度の中で生きる以上、その現実からは逃れられません」
それでも声は冷たくなかった。
「秋口の進路調査までは時間があります。もう一度、自分が何を優先したいのか整理しなさい」
そして、ほんのわずかに柔らいだ。
これまでの言葉は厳しかったかもしれませんが、と先生は一旦息を整えてから言った。
「小泉さんは、どちらの能力にも恵まれた…、いえ、努力を怠らない強い芯がある人です。だからこそ、悩んでいることも分かっています。覚悟が定まったなら、全力で応援しますから」
書類が差し戻される。
紙は軽いはずなのに、妙に重い。
「ありがとうございます」
自分でも驚くほど、整った声だった。
何に対しての礼なのか、少し曖昧なまま。
厳しい指摘に対してか。
評価してくれたことに対してか。
それとも、まだ時間があると言ってくれたことに対してか。
先生は頷くだけだった。
私は会釈をして、進路指導室を出た。
時計を見ると、予定の時間を大幅に回っていた。
廊下の空気が、わずかに温かい。
けれど胸の内側は、さっきよりも冷えている気がした。
その夜、ベッドに横になり、天井を見つめたまま、今日の言葉を反芻する。
――覚悟が見えません。
――どちらの責任も引き受ける位置に立っていない。
未定。
たった二文字が、やけに刺さる。
物理は好きだ。
式が繋がる瞬間も、構造が理解できる感覚も。
体を動かすことも、嫌いじゃない。
走ることも、重機の操作訓練も、苦ではない。
だから、困る。
それが、自分を望まない場所へ引きずり込んでいくような、裏切りに近い感覚。
どちらかを選ぶということは、もう一方を、自分で閉じるということだ。
こんなに悩むくらいなら。
ふと、思う。
最初から物理なんて好きじゃなければよかった。
平均的で、平均的に進めばよかった。
男子として自然な道を、何も疑わず歩ければ。
その方が、きっと楽だった。
けれど、その考えはすぐに否定される。
それでもやっぱり、好きなものをなかったことにはできない。
疑問を、見なかったことにもできない。
目を閉じる。
先生の声が、胸の奥で重なる。
“覚悟が定まったなら、全力で応援しますから”
応援、という言葉だけが、やけに柔らかかった。
私はまだ、どちらにも立っていない。
けれど、立たなければならない場所があることだけは、分かっている。
天井は何も答えない。
部屋は静かだ。
未定、という言葉だけが、胸の奥で、ゆっくりと沈んでいった。




