本音
消灯前の寮のラウンジは、すっかり人も引けていて、ずいぶん涼しく感じた。
スマホを耳に当てると、遠くでナースコールが鳴り響き、母の声には疲れが感じられた。
「最近暑いから気をつけてね。水分補給は、忘れずにするのよ」
「ちゃんと水筒持っていってるよ」
「ああ。ええと、真空波動ダンボールだっけ?」
「嘘でしょ。お母さん、それを言うなら真空断――」
「分かってるわよ」
母のわざとらしいボケに、思わず吹き出す。
こういう軽口があると、張り詰めていた心が少しだけ柔らかくなるのがわかった。
「それより進路の話でしょ。調査票のコメント用紙、昨日届いたよ。ありがとう」
「菜月の希望通り看護師で、と書いたわよ」
私はスマホを持つ手に、わずかに力を込めた。
「でね。あなたの人生だから、もうこれ以上は言わない。ただ、覚悟はいるわ」
私は無意識に背筋を伸ばし、スカートの裾を握りしめた。
「東側は、西側とは本当に違う。現場で動く役割と、医師との橋渡しが完全に分かれているの。一人ひとりの仕事量も責任も、その分ずっと重いから、まあ大変よ」
電話の向こうからは、時折サイレンも聞こえてくる。
「今回私たちは、西側の看護師として来ている。どちらもできる人員としてね。現場調整も、処置も。でもね……」
ふふ、と母が自嘲気味に笑う気配がした。
「助けに来たつもりが、逆に何度も助けられてるわ」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
「もし西側で同じような震災が起きたらと思うと……正直、大変だなって思う。本音を言えば、あなたにはもっと違う道もある。体力も頭も使う仕事は、看護師だけじゃないしね」
窓の外、夜の闇を見つめながら、私は頷いた。
「うん」
母はそれ以上、続けようとはしなかった。
無理強いもしない。
それが、突き放されるよりもずっと重く、私の覚悟を試しているようだった。
「でもね。大変だって分かってても、やりたいんだ」
「……そう」
母の声は諦めたようでいて、どこか誇らしげでもあった。
*
翌日の放課後。
私の進路調査票は、皆が持つ分厚い書式とは違う。
役割適性や希望職種が細かく記されたものではなく、転入生用のとてもシンプルなものだった。
白い紙に踊る文字を見つめながら、佐藤先生と向かい合って座った。
窓から差し込む西日の光が、机の上の調査票をオレンジ色に淡く照らしている。
先生は眼鏡の奥の冷静な瞳で、私の書いた文字をじっと見つめている。
「まず、西側の担任教師から、進路について引き継ぎを受けています。希望職種は看護師。西部国立大学の医学部看護学科への進学を考えていると聞いています。成績的にも、十分射程圏内です」
先生が淡々と切り出す。
私は膝の上で手を重ね、頷いた。
「もし、あなたが東側の生徒だったなら」
先生はそこで一度言葉を切ると、机の上で両手を組んだ。
「私としては、迷わず看護調整官を推します。その上で、東部国立大学の高度医療統括学科に推薦を出したいところです。この一貫した意思も含めて、喉から手が出るほど欲しい人材です」
そう言ってもらえたことが嬉しくて、でも同時に、少し寂しいような気持ちにもなった。
「ですが、小泉さんは西側の住民です。今回の転入は、あくまで災害支援に伴う特例措置。残念ですが、東側に定住することは、制度上できません」
先生は、眼鏡を指先で押し上げた。
その無機質な動作が、変えられない現実の冷たさを強調する。
「来年の受験については、一時的に許可をとって、西側へ戻る形になります」
私の反応をうかがいながら、距離を測るように言葉を続ける。
「ですから、私はあなたに指導はできません。助言しかできない」
それは、私がいつかこの場所を去る人間なのだと、改めて実感させる言葉だった。
「お母様が看護師である以上、今さら私が言うことでもありませんが。東西で制度は違っても、医療現場の仕事が過酷であることに変わりはありません。体力も判断力も、どちらも極限まで求められる」
先生はそこまで言って、ふっと表情を緩めた。
これまでの教師としての顔ではない、一人の大人としての、穏やかな笑み。
「でもね」
その一言が、硬直していた私の心をほぐしていく。
「あなたの、なりたいという気持ちは、きっと憧れだけではないのでしょう。きちんと考え、何度も自分に問い直した上での選択だと、私は感じています」
先生が進路調査票をそっと机の端へ置く。
その所作は、私の意志を大切に預かるような、とても丁寧なものだった。
「しっかりとした意志を持っている、素敵な夢です。実現できるよう、応援はもちろんします。困ったら、いつでも頼ってくださいね。あなたは、私の大切な生徒ですから」
その言葉を聞いた瞬間、ずっと張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。
「先生にそう言っていただけて、胸を張れます。ありがとうございます」
私は、夢が現実に近づいたような気がして、確かに頷いた。
進路調査票を受け取り、先生に一礼して進路指導室を出た。
廊下に出て一人になると、長く息を吐いた。
そのまま一歩踏み出そうとしたが、足元が心許なくなるのを感じて、急に立ち止まってしまった。
『これでもう、後戻りはできない』
自分の、なりたいという気持ちで、ここまで来た。
母の前でも、先生の前でも、私は迷わず頷いた。
でも、本当は怖い。
災害現場の話をする母の声の奥にあった、ほんのわずかな疲労。
それを聞き取ってしまった自分。
あの場所に、自分は立てるのだろうか。
母のようになりたい。
あんなふうに、誰かを支えられる人になりたい。
でも、あの背中はあまりに遠い。
もし、私の覚悟が足りなかったら。
もし、途中で逃げ出したくなったら。
それでもなりたい、と言い続けた以上、弱音は吐けない。
笑っていれば、きっと揺れは見えない。
前を向いていれば、迷いは悟られない。
そう思いながら、私はそっと自分の指先を握った。
震えていることに、気づかれませんように。




