夏樹
進路希望調査票は、思っていたよりも分厚かった。
数枚をホチキスでまとめた、小冊子みたいな紙の束が手元にある。
放課後のホームルーム。
教壇に立った担任の佐藤先生が、教室全体を見渡す。
パンツスーツを隙なく着こなし、後ろでまとめた髪を指先で整える。
薄く引かれた口紅が、その知的な表情をいっそう引き締めていた。
「これは提出用です。仮の希望で構いません」
受け取った表紙には、事務的なフォントでこう印字されている。
進路適性・希望調査票(高等第二学年・第一次)
最初のページには、名前や出席番号とともに、各種の測定スコアが並んでいる。
淡々と数字が並ぶだけの欄なのに、それだけで自分の存在価値を一方的に評価されているようだった。
ページをめくったところで、私は手を止めた。
〈希望進路〉
選択式で並んでいるのは、建設、土木、物流、発電施設、機械保守――。
どれも力仕事という一言では片づけられない、専門性の高い職種ばかりだ。
必要な知識も技術も、この国を支えているのは分かる。
でも、どこか息苦しさを覚えてしまう。
ちらりと、隣の席に座る志織の調査票を盗み見る。
研究、行政、医療、教育、起業――。
同じ進路調査なのに、書かれている内容はまるで別物だった。
最初から住む世界も、果たすべき役割も違うのだと突きつけられているようだった。
そんな私の思考を遮るように、先生の声が響いた。
「女子諸君」
低く落ち着いた声に、教室の空気が引き締まる。
「皆さんは将来のリーダーです。どの学問で社会に貢献したいのか、高い志を持って考えなさい」
タブレットに一度目を落とし、それから教室を見渡した。
「力や体力ではありません。知性と判断力、そして好奇心こそが、皆さんの武器です。社会に影響を与える舞台は、あらゆる分野に広がっています」
志織の背中が、少しだけ伸びたのが分かった。
続いて、先生の視線が男子の列へと向けられる。
「男子諸君」
今度は、はっきりと。
「自分の身体能力スコアと実務適性を、よく確認しておくように。君たちのリボンは、単なる飾りではありません」
私は、反射的に胸元に結ばれたリボンに指を触れた。
「この国を物理的に支える『誇り高い労働者』のしるしです。時に重荷と感じるかもしれませんが、それは精神的な誇りの象徴でもあります」
その言葉に、教室のあちこちで控えめな笑いが漏れる。
けれど、皆は当然のこととして受け入れていた。
下校時間になっても、調査票を前に手が止まっていると、小春が覗き込んできた。
「まだ決めてないの?夏樹ちゃんがそんなに悩むなんて意外だな」
「そうかな」
「身体能力スコア、どれも平均より上でしょ。もう現場行きの優等生だよ」
それは褒め言葉なのに、素直には受け取れなかった。
志織が「そうそう」と、鞄を手に取って立ち上がった。
「建設でも発電でも、物流でも、どこでも必要とされるよ。夏樹ちゃんなら」
「でも、向いてるかっていうと……」
「向いてるよ。能力があるなら、それを使うのが一番効率いい」
何を迷っているのかというように、首を傾げた。
小春は「ほらね」とばかりに、調査票の“物流”の文字をトントンと叩いた。
「ホントそれだよ。私もここに、とっくに丸つけたよ」
自分の得意なことと進みたい道が、最初から一本の線で繋がっているのだろう。
でも私が迷っている場所は、手にした一覧の中にはなかった。
そう言えばいいだけなのに、自分の道を見据えている二人を前にすると、言葉がつかえてしまう。
小春は同意を求めるように志織に視線を向けた。
「志織君も、もう決めてるんでしょ。医療とか教育とか、それともまた意味わからん専門?」
志織は、鞄から女子生徒用の調査票を取り出し、こちらに向けた。
「行政だよ。段取りを考えるのが好きだし、そういう役回りが性に合ってる」
その言い方があまりにも自然で、胸の奥がきゅっと鳴った気がした。
「俺はさ、“管理職適性あり”って評価されてるの、ありがたかったよ。悩まなくて済む」
「悩まないんだ……」
「向いてる場所に行くだけ。夏樹ちゃんみたいに迷うのは贅沢」
小春が、志織に聞こえるくらいの小声で、私の耳元に囁いてくる。
「志織君、ちょいちょい冷たいよね」
「合理的って言って」
確かに、体を動かすのは好きだし、現場仕事は社会に必要だと分かっている。
それでも私の頭には、別の進路が浮かんでいた。
『研究職』
すぐに首を振って打ち消した。
男がそんな職業を考えていると知られたら、きっと面倒なことになる。
私はごまかすように、軽い調子を装った。
「でもさ。この中から選ぶだけで、決めた気になっていいのかなって……」
「「贅沢だなあ」」
志織と小春が声を揃えて笑った。
小春が佐藤先生の真似をして、眼鏡を押し上げるような仕草をする。
「それ、そもそも選択肢すら満足に与えられない人の前でも言えますか?」
「……ちゃんと考えてみます」
そのやり取りに志織は笑いをこらえながら、私に向き直った。
「でも、夏樹ちゃんらしいな。考えるの、好きだもんね」
「別に、普通だよ」
反射的に強く否定してしまったからか、志織は片手を軽く上げ、何かを飲み込むように頷いた。
「……そう。いつも授業の考察、鋭いから。今も、ただ迷ってるだけには見えなかっただけ」
それ以上は言わなかった。
必要以上に人の内側へ踏み込まないところも、志織らしかった。
そのとき、誰かが「ねえ、大ニュースだよ!」と声を上げながら、テレビの電源を入れた。
画面に映るのは、昨年、海沿いの地域を襲った大規模な震災の爪痕だった。
その映像に、何もかもが終わってしまったような絶望感と、あの日々の混乱が生々しく蘇った。
『現在も復興現場では、深刻な人員不足が続いています』
女性キャスターが、淡々と現状を伝えている。
『政府は緊急対策として、医療や物流などの分野へ、東西の区分を越えた異例の人員派遣を決定しました』
「西」という言葉に、教室が静まり返ったかと思うと、次の瞬間にはあちこちから驚きの声が上がった。
志織が、信じられないというように口元に手を当てる。
「うそ、西側から人を呼ぶってこと!?」
小春も食い入るように画面を見つめている。
「そんなに大変なことになってるんだ……」
これまで東と西に分かれていた社会で、こんなことが起きるなんて。
これほどの状況なら、私も男子として、この身体を現場で役立てるのが当然なのかもしれない。
でも、そうあるべきだという理由で、このまま流されてしまうのは、少し怖かった。




