菜月
「菜月ちゃん!」
後ろから名前を呼ばれて、私は振り返った。
「ほんとに転校するんだよね?」
声をかけてきたのは、真帆だった。不安そうというより、単純に寂しそうな顔をしている。
「うん、もう決定なんだ。お母さんの復興支援の仕事だから、どうしてもね」
もう何度も口にした言葉なのに、やっぱりまだ言い慣れなかった。
「急だよねー」
もう一人、奈緒が駆け寄ってきて、間に割って入る。
「ゴールデンウィーク終わったと思ったらさ、はい転校だからね」
「タイミング変すぎじゃない?せめて夏休み明けでしょ」
二人は顔を見合わせて、同時にため息をついた。
「ねえ、東側ってさ。こっちとは、だいぶ違うんでしょ」
真帆が口元にそっと手を添え、声をひそめる。
「んー、なんだろ。違うって言うか……」
違いはいくらでもあるのに、何から話せばいいのか分からない。
奈緒が思いついたように、人差し指を立てた。
「ほら、東側のドラマあるじゃん!」
「深夜のやつ?」
「そうそう! あれ見ると異文化っていうか、異世界じゃない!?」
「「分かる!」」
私と真帆の声がきれいに重なった。
私達の間では、こういうことがよくある。
「あと喋り方!」
「ご飯も違うって聞いたことある!」
「それ県民性じゃない?」
「あはは、それもあるかも」
気づけば、話題は次から次へと飛んでいた。
「あ!テレビと言えばね。昨日特集やってたんだけど」
そうそう、今日はこの話がしたかったんだ。
「ペロンチェの新作フラッペ、もう飲んだ?」
「まだ!」
「私も!」
「「「行こうね~」」」
ぴったり重なった声がなんだか可笑しくて、三人で顔を見合わせながら笑うと、胸の奥があたたかくなった。
「でもさあ。ほんとに遠くへ行っちゃうんだね。東側、だもんね」
真帆が手を後ろで組んだまま、私の顔を覗き込んだ。
「同じ国内なのに、やっぱ別世界って感じする」
「やだなー。そんな大げさじゃないってば!」
私は真帆の肩をぐいっと引き寄せて笑った。
地図で見れば日帰りだってなんとかできそうな距離だ。
けれど、実際はそんな簡単な話ではないのも分かっていた。
奈緒は腕を組んで、あちこちへ視線を巡らせた。
「ほら、生活圏が違う、ってやつ?制度とか、学校とか」
「うん。まあ、そういうのだよね」
今さら詳しく説明するようなことでもなかったので、曖昧に返した。
説明しようとすると、どうしても正しさの話になるから。
「向こうってさ、男子がわりと大人しいってほんとかな?」
奈緒が興味津々といった様子で、口元を緩めた。
「決まりはちゃんと守ろうねって感じだから、そう見えるんじゃないかな」
まだどこまで本当なのか分からないから、はっきりとは答えられなかった。
「それはあるかも。なんか疲れそうだよね。きっちりするのはいいけど大変そう」
奈緒の即答に、真帆も頷く。
「こっちはさ、多少うるさくても許されるじゃん」
西側では、私たちはよく喋る。
よく笑うし、よく迷うし、よく悩む。
それを、誰も止めない。
「じゃあさ、転校前ミッション、もう一個追加ね。校門で三人で写真撮っておこうよ」
真帆はシャッターを切るような仕草をしている。
一瞬、校門の向こうで桜がひらひら舞う光景が頭に浮かび、思わず吹き出した。
「やだー、卒業みたいじゃない?」
「違うって。一時離脱、期間限定」
その言い方が可笑しくて、気持ちがちょっとだけ軽くなった。
「期間限定、ね」
この先どうなるかなんて誰にも分からないけど、今はそれくらいでちょうどいいのかもしれない。
「ねえ、菜月ちゃん。向こう行っても、ちゃんと連絡してよ。既読スルーとかしないから」
「もちろん。通知うるさいってブロックしないでよ!」
笑い合うこの空気と、この距離感。
私はこれを普通だと思って育ってきた。
だからまだ知らない。
この普通が、どれだけ恵まれたものだったのかを。
その日の夜、私は母と一緒に引っ越しの準備を進めていた。
段ボールの口を閉じるたび、ガムテープの裂ける音だけがやけに大きく響く。
「ごめんね」
母はガムテープを置き、腰に手を当てて息をついた。
「こんな急な形で、転入先の高校の寮に入れるつもりじゃなかったんだけど」
「ううん」
私は手を止めずに、洋服を畳んでは段ボールに入れていく。
「お母さんは被災地の近くで、寝る間もないくらい忙しくなるんだし。だから気にしないで」
母は、困ったように、それでも少しだけ嬉しそうに声を漏らした。
「同じ東側にはいるけど、いつ家に戻れるかも分からないし。菜月を一人にするわけにもいかないからね」
二年の途中で転校して、全寮制。
少し変わってるかもしれないけど、もう決まったことだ。
母の言葉は、まるで自分自身を責める言い訳のように聞こえたけれど、私にそんな気は毛頭なかった。
この人の手がひどく荒れている理由くらい、私だって分かっている。
ふと、母の視線が机の上に置かれた私の成績表へと向いた。
「ねえ菜月。やっぱり、大学は別の学部を考えたほうがいいんじゃない?法学部とか。あんた頭いいんだし、もっと別の道だって選べるのよ」
そう言いながら、荒れた指先をさりげなく袖の中へと隠した。
最前線で働く看護師。
その仕事の尊さも、同時に削り取られていく心身の重さも、身をもって知っているからこその言葉なのだろう。
「いいよ」
私は段ボールの蓋を閉じた。
「大学には行きたい。でも、看護しか考えられないよ」
ガムテープを、真っすぐに力強く引く。
「私、やっぱりお母さんみたいになりたいの」
母の肩が、わずかに揺れた。
「……頑固ね」
そう言って、母はそっと窓の方を向いた。
街灯の光が、横顔の輪郭だけを淡く照らしていた。
「誰に似たと思ってるの」
不思議と目頭が熱くなった。
けれど、それをこらえて笑ったまま、声には出さなかった。
自分で選んだ道を歩く。
それがどれだけ重いか、まだ全部はわかっていない。
それでも、私は逃げない。
そう自分に言い聞かせるように、私は段ボールをしっかりと叩いた。




