仮初
翌朝、俺はかつてないほど慎重な足取りで校門をくぐった。
カバンの中には、菜月と約束した予備の制服が入っている。
たった数枚の布のはずなのに、それはまるで自分の魂の一部を預けるかのように、ずっしりと肩に食い込んだ。
一歩踏み出すごとに、カバンの中で制服が微かに擦れる音がする。
そのわずかな振動さえも、今の俺には教会の鐘の音のように厳かに響いていた。
「おはよー、志織君!」
教室の扉を開けた瞬間、眩しい声が飛んできた。
菜月が、いつもの何倍も輝いた笑顔で駆け寄ってくる。
その手には、約束通り白いセーラー服の入った紙袋。
「おはよう、菜月ちゃん」
俺は努めて平静を装い、いつもの顔で応じた。
正直に言えば、昨夜から鼓動がうるさい。
落ち着け、と何度も言い聞かせてきたのに、胸の奥がいまだに騒がしい。
けれど、その必死さが逆に功を奏したのかもしれない。
いつも以上に理性的で、冷静で、隙のない自分を演じられていた。
誰にも悟られていないはずだと、自分に言い聞かせながら息を整える
紙袋を受け取る手が、ほんの少しだけ慎重になる。
まるで壊れ物でも扱うみたいに。
「放課後にね!」
「うん」
軽やかに去っていく背中を見送りながら、紙袋を机の横にそっと置いた。
それだけで、体温が一度上がった気がした。
一日中、どこか熱を持っているようだった。
授業の内容は半分も頭に入らない。
黒板の文字が、白く滲んでいく。
視線が何度も、無意識に机の横へ落ちそうになるのを堪えた。
ただの布だ。
ただの制服だ。
それなのに、放課後の鐘が鳴ったとき、俺はほとんど反射で立ち上がっていた。
放課後の更衣室は、昼間よりも少しだけ広く感じた。
窓から差し込む西日が、ロッカーの列を斜めに照らしている。
ポロシャツのボタンを外し、いつもの制服を脱ぐ。
慣れた動作といつもの感触。
でも今日は、そこに見慣れない白が重なる。
西側のセーラー服を広げる。
袖を通したとき、一瞬だけ胸の奥が熱くなった。
昨日、あれほど焦がれた白。
あの光の延長線上に、今の自分が立っている。
着替えが終わって、心臓が破裂しそうなくらいに高鳴るのを覚えながら、鏡の前に立つ。
――だが。
鏡の前に立った瞬間、その熱はすっと冷えた。
「誰、これ」
そこにいるのは確かに俺だ。
同じ顔と同じ目がある。
けれど、輪郭が違う。
線がやわらかく、どこか儚い。
鏡の中の自分に問いかけてみる。
「あなたは、どうやって生きてきたの?」
しかし、鏡の中の俺は、どんなに待っても返事を返さない。
凛と立つその姿は、笑えばきっと可愛いのかも知れない。
数秒、見つめ続ける。
甘い予感が胸の奥でふくらみかけて――
「いや」
目を閉じて、首を振る。
「やっぱり、これは俺じゃない」
似合わないわけじゃないし、嫌いでもない。
けれど、違う。
胸の奥で膨らんでいた甘い予感が、音もなくほどけていく。
でも、それは落胆ではなかった。
むしろ霧が晴れるように、心が軽くなっていく。
ああ、そうか。
俺は、別に可愛い存在になりたかったわけじゃない。
羨ましかったのは、きらめきそのものじゃない。
やっぱり俺は、役割を果たす自分でいたいんだ。
だから。
東側“で”いい、のではない。
東側“が”いい。
それでいい。
静かな確信が、胸の奥に落ちる。
それは安堵じゃなく、誇らしい熱だった。
俺は、ここを選ぶ。
だから最後に、鏡に映る俺の――「私」の頬にそっと触れて、別れを告げた。
「さようなら、志織ちゃん」
冗談みたいな響きだった。
けれど確かに、昨日の夜に夢を見ていた「私」が、そこにいた。
選べる側に立っていたかも知れない、もう一人の「私」。
それは確かに、ここにいた。
でも、俺は「俺」のままがいい。
そう思えた瞬間、呼吸が深くなった。
選べないと思い込んでいただけで。
実はちゃんと自分で選んでいた。
それが分かっただけで十分だ。
その時、扉からコンコン、と軽いノック音が響いた。
「志織くーん、着替え終わったー?」
返事をする間もなく、扉が半分ほど開いた。
俺の姿を見た菜月は両手を口の前で重ねて目を丸くした。
「わー志織君、かっこいいね!」
一瞬、聞き間違いかと思って固まった。
え、かっこいい?
「思ってた通りだよねー。志織君ってすっごく落ち着いてて、大人の女性って感じだからね。もう佇まいが綺麗っていうか」
そこまで一気にまくし立てて、「あ」と口を押さえた。
「ごめんね。ここは可愛い、だったよね」
「ううん、ありがとう」
心の底から嬉しくて、自然に言葉が出た。
「菜月ちゃんも似合ってるよ」
そう返すと、東側の制服に身を包んだ菜月は、ぱっと笑顔になる。
両手を広げてくるりと回ると、ポロシャツの裾がひらりと舞った。
「ねえこれ!めっちゃ動きやすいんだけど!見て見て!スラックスだからこんなこともできちゃう!」
そのまま腰を左右にぶんぶん振りながら、どこで覚えたのかわからない妙なステップを踏み始める。
腕を振り上げ、回って、しかも舌をぺろっと出しながら。
完全にアホだ。
絶対に、クラスの皆の前ではやらないほうがいい。
でも、羨ましいくらいに「菜月ちゃん」だ。
呆れ半分で見つめる俺の前で、まるで舞台の上に立っているみたいに楽しげだ。
……ああ。
昨日、少しだけ思った。
俺のために、気を遣って制服の交換を提案してくれたのかもしれない、と。
訂正。
この子は、ただ全力で楽しんでいるだけだ。
西側でも、東側でも。
制服が何であろうと。
きっと同じように笑う。
どちらも受け入れて、どちらも面白がる。
生き方ごと、軽やかだ。
これは、菜月だからこその強みだ。
俺は思わず吹き出した。
鏡の中の白い自分を、もう一度だけ見つめる。
もうそこからは、なんの体温も感じられなかった。
仮初の白は、もう十分だ。
あとは帰って、ゆっくりお風呂に浸かろう。
今日はきっと、ぐっすり眠れる。
そう思ってロッカーに向き直ろうとした、その時。
ガシッと、菜月が俺の手首を掴んだ。
「……?」
咄嗟のことで言葉を失っていると、菜月はにっと笑う。
「よし、じゃあ教室に行こうか!みんなまだかまだかって首がキリンになってたよ!」
「あ」
……忘れてた。




