憧憬
「……はい?」
我ながらなんとも間抜けで、素っ頓狂な声が出たことに驚いた。
教室のざわめきが一瞬止まって、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いている。
菜月は固まっている俺に気づく様子もなく、すっかりその気になっていた。
「前から思ってたんだけどね。私と志織君て、ほとんど身長や体格も同じくらいだし。明日にでもさ、予備の制服を持ってきて交換しようよ」
大げさに身振り手振りを交えながら、心底楽しそうに屈託のない笑みを浮かべている。
「一回くらい。ね?いいじゃん。て言うか、私がその制服を着てみたいって言うのが本音なんだけどねー」
一回くらい、いいじゃん。
その軽い調子に戸惑い、思わず助けを求めるように周囲を見渡した。
「わあ、いいじゃん。志織君なら、なんかすっごく絵になりそう!」
「僕も見てみたい!」
「ね!男子なんかのセーラー服を着るより面白そう」
周りの女子たちは、興味津々といった様子で次々と囃し立てている。
「興味ない」
と笑って一蹴してしまえば、それで済む話だ。
非常に俺らしい答えに、皆もきっと納得してくれる。
簡単だ。
なのに、なぜだろう。
今まで知らなかった熱を、どこか求めている自分に気がついている。
もし。
もしも、それを着たら。
どう見えるのだろう。
どう感じるのだろう。
西側のセーラー服に興味がないわけではない。
……いや、違う。
正直に言う。
俺は菜月の着るセーラー服に、憧れがある。
着てみたい。
女子として、男子として、規律という枠に収まるこの東側の仕組みに、皆は本当に納得しているのだろうか。
この気持ちは多分、俺だけではないはずだ。
例えば夏樹のように、口にはしないだけで。
別に反発したいわけじゃない。
ただ、何かが引っかかる。
その正体を、俺もまだ知らないだけだ。
それを、何にも左右されない白色が持っているような気がした。
菜月が転入してきたあの日を思い出す。
そう、西側の女子の制服である、セーラー服を着た菜月を初めて見たあの日のことを。
今までは映像や写真の中だけの、どこか非現実的な存在でしかなかったはずなのに。
いざ実物を目の当たりにすると、そこには圧倒的なまでのリアリティが宿っていた。
ディスプレイ越しに眺めていたときとは、何もかもが違った。
布地が放つ柔らかな光沢、動くたびに空気を孕んで踊るプリーツ、そしてその服に包まれた彼女から溢れ出す、眩しいほどの生命力。
その姿に、まるで一筋の光を見出したかのような錯覚さえ覚えた。
あんなにも明るくて可愛い彼女を見て ――もしも……、もしも俺も西側の女子高生であんなセーラー服を纏っていたら、きっと今とは違って――
一度意識してしまうと、今まで無意識に押し込めていた思いが次々と溢れ出してきた。
膨らみすぎて弾けてしまいそうな想像に囚われて言い淀んでいると、小春が横から茶々を入れてきた。
「えー菜月ちゃん、無理無理、無理だって。冷徹女子の志織君にそんな可愛いセーラー服は似合わないってば。ねぇ?」
その言葉に視線を向けると、おどけたように、口に手を当てて笑うが、俺は思わず。
「別に」
気づけば、勝手に口が動いていた。
「一回くらいなら」
言った瞬間、教室のあちこちから「おおー!」と歓声が上がった。
小春が、呆気に取られたような顔をしていた。
その日の帰り道、風がやけに軽かった。
あれからずっと、頭の中がフワフワとしている。
“私も東側の制服を着てみたい”
なんて、菜月は言ってくれたけれども。
体育祭の日、「もしも、俺も西側の人間だったら……」と漏らしたことを覚えていてくれたのかもしれない。
それを、セーラー服をみる視線で感じとってくれたのではないだろうか。
羞恥なのか、期待なのか。
菜月の言葉に頷いてしまったことが、信じられない、夢なんじゃないかという感覚。
せっかく小春が冗談めかして助け舟を出してくれたというのに。
でも、“そんな可愛いセーラー服は似合わない”と断じられた瞬間、引き下がりたくなくなった。
夜、ベッドに横になっても、なかなか寝つけなかった。
白色の布地が、頭の中で揺れている。
それは、今俺が着ているポロシャツのような、機能的な布ではなく、もっと心そのものを包み込むための、祈りのような手触りなのではないか。
枕に顔を埋めても、まだ見ぬ白のきらめきが頭から離れない。
明日、西側のセーラー服に袖を通した瞬間、俺は俺でなくなってしまうのかもしれない。
その恐怖を上回るほどの、甘い予感が胸を満たしていく。
鏡の前に立つ自分を、想像してしまう。
凛としているだろうか。
爽やかだろうか。
――可愛い、だろうか。
暗い天井をじっと見つめる。
「一回だけ、だし」
誰に言い訳するでもなく、呟く。
それだけで、鼓動が少しだけ速くなる。
憧れなのか、好奇心なのか。
まだ、名前はつかない。
ただ明日、制服が入れ替わる、それだけのことだ。
けれど、その白はきっと、俺の知らない何かを連れてくる。
怖いはずなのに、なぜか少しだけ楽しみだった。




