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第九話「マナという名の、小さな命」

第九話「マナという名の、小さな命」


 十三歳になった年の春、ゆうの身に一つのことが起きた。


 貴族の家には、古くからの風習がある。男子が成熟の時を迎えたとき、家として然るべき配慮をする——当てがい女と呼ばれる役目の者を用意するというものだ。どの家も、それぞれのやり方で、静かに、慎ましく行われる。ゆうも、そういうことがあることは知っていた。


 ただ、手違いがあった。手配の行き違いで、当てがい女の役目がマリアに回ってしまったのだ。


 翌朝、ゆうはそれをはっきりと認識した。


 (まずい)


 最初にそう思った。マリアへの申し訳なさが、先に来た。


 マリアは専属のメイドだ。ゆうより三歳年上で、この春で十六歳になっていた。ヴァルロード家に来て八年。ずっとそばにいてくれた。信頼できる相手だ。


 その相手を、こういう立場にさせてしまった。それだけが、ゆうの頭の中にあった。


 (マリアは、俺にとって何なんだろう)


 ふと、そんなことを思った。専属メイドだ。それは間違いない。でも、それだけではない気がした。八年間、毎日そばにいた。怒らず、急かさず、ただ静かにそこにいてくれた。リリスへの気持ちとは違う。でも、大切だということは、はっきりわかった。


 マリアは翌朝から、何事もなかったように仕事をしていた。表情は静かで、動揺は見えなかった。でも、ゆうを見る目が少し違う気がした。何かを抑えている目だった。


 ゆうは一人になったとき、マリアを呼んだ。


 「昨夜のこと……ごめん。お前をこういう立場にさせてしまった」


 マリアは少しの間、黙っていた。


 「……迷惑では、ございません」


 「でも、俺のせいだ」


 マリアはゆうを見た。何か言いたそうな顔だったが、言葉にならなかった。


 「何かあったら、ちゃんと言ってくれ。一人にしないから」


 「……はい」


 その「はい」は、いつもの仕事の返事と少し違った。


 マリアが部屋を出た後、ゆうはしばらくそこにいた。


 (俺は、マリアのことをどう思っているんだろう)


 答えはすぐには出なかった。リリスへの気持ちは、ずっと前からわかっていた。でもマリアへの気持ちは、名前をつけにくい。大切だ。信頼している。傍にいてほしい。でもそれが何なのか、十三歳のゆうにはまだ、うまく整理できなかった。



 それから二ヶ月後、マリアがゆうに話しかけてきた。


 いつものように部屋を整えている途中で、手を止めた。


 ゆうは顔を上げた。マリアが少し青い顔をしていた。


 「……ユウ様、少しよろしいでしょうか」


 「うん」


 マリアはゆうを見た。言葉を探しているような、少しの間があった。


 「おそらく、子が……できたと思います」


 沈黙があった。


 ゆうは少しの間、その言葉を受け取った。頭の中で、いくつかのことが同時に動いた。マリアの体のこと。この先どうするか。家族への話。まだ生まれてもいない命のこと——なぜかひとつの名前が浮かんだが、それはまだ、心の中だけにしまった。


 それと同時に、ゆうの胸の中に、うまく言葉にならない何かが生まれた。


 マリアが、自分の子を宿している。それは手違いによるものだ。でも——その事実が、ゆうの中で何かを動かした。守らなければ、という気持ちが、責任感とは少し違う場所から来ていた。


 「わかった」


 ゆうは静かに言った。


 「俺がちゃんとする。お前一人に背負わせない」


 マリアの目が、少し揺れた。


 「……ユウ様」


 「俺がやれることは全部やる。お前は体だけ気をつけてくれ」


 マリアはしばらくゆうを見ていた。それから、静かに頭を下げた。


 「……ありがとうございます」


 声が、わずかに震えていた。



 父に話したのは、その夜だった。


 書斎に入ると、父は書類に目を通していた。ゆうが座ると、顔を上げた。


 「話がある」


 「聞こう」


 ゆうは正直に話した。何があったか。マリアが妊娠していること。自分の責任であること。


 父は話の間、何も言わなかった。表情が動かなかった。でも、ゆうを見る目は、冷たくはなかった。


 話し終わると、しばらく沈黙があった。


 「マリアは、今どういう状態だ」


 「体の具合は今のところ落ち着いています。気持ちの面では、まだ不安が大きいと思います」


 「そうか」


 父はまた少しの間、黙っていた。


 「お前は、どうしたいと思っている」


 「生まれてくる子を、ちゃんと認知したい。ヴァルロードの名前をつけたい。マリアのことも、きちんとしたい」


 「……十三歳で、そういうことを言うか」


 父の声に、責めるような色はなかった。どちらかというと、少し驚いたような、でも静かな声だった。


 「それが俺のやるべきことだと思っているので」


 父はしばらくゆうを見ていた。それから、息をついた。


 「わかった。母さんと話す。家としての対応を決める」


 「ありがとうございます」


 「礼を言うことじゃない」


 父は書類に視線を戻した。でもすぐに、また顔を上げた。


 「ユウ」


 「はい」


 「マリアに、辛い思いをさせるな」


 「はい」


 それだけだった。でも、それで十分だった。



 エレノアに話したのは、翌朝だった。


 父が先に話を通してくれていた。ゆうが部屋に入ると、エレノアはすでに知っている顔だった。


 「座りなさい」


 促されて座った。エレノアはしばらくゆうを見ていた。


 「怒っていますか」


 「怒っていないわ」


 エレノアは静かに言った。


 「ただ——マリアのことが、心配」


 「俺も同じです」


 「あの子はずっと、真面目にやってきた。この家のために、ユウのために。そういう子が、こういう形で……」


 エレノアの声が少し止まった。


 「責任は俺にあります。マリアは何も悪くない」


 「わかっている」


 エレノアはゆうを見た。


 「ユウが正式に認知して、ヴァルロードの名を与えると言っているのは、お父様から聞いた」


 「はい」


 「それは……正しいことだと思う。でも、それだけでいいの?」


 ゆうは少し考えた。


 「マリアが望むことを、できる限りやります。ただ、マリアが何を望んでいるかは、まだちゃんと聞けていない。体が落ち着いてから、話したいと思っています」


 エレノアはしばらくゆうを見ていた。それから、静かに言った。


 「そう。……わかったわ」


 「お母様にも、迷惑をかけます」


 「迷惑じゃない」


 エレノアは短く言った。


 「生まれてくる子は、この家の子よ。それだけよ」


 その言葉が、ゆうには少し温かかった。



 秋になってから、マリアに改めて話した。


 体の具合が安定してきたころだった。二人で庭に出て、少し歩いた。


 「お前の気持ちを、ちゃんと聞かせてくれ。この先、どうしたいか」


 マリアはしばらく黙って歩いていた。それから、静かに言った。


 「……この子を、ちゃんと産みたいです」


 「それは必ずそうする」


 「ユウ様が認知してくださると聞いて……本当によかったと思っています。この子に、ちゃんとした名前と居場所を与えてもらえるなら」


 「それだけでいい、とは言うな」


 ゆうは言った。


 「遠慮しなくていい。言えることでいいから、聞かせてくれ」


 マリアは少しの間、黙った。落ち葉が風に飛んでいった。


 「……今は、この子のことだけ考えていたいです」


 「わかった」


 「それから——」


 マリアが少し間を置いた。


 「ユウ様が、この子をちゃんと見てくださるなら。それだけで、十分です」


 「見る。必ず」


 マリアは前を向いたまま、静かにうなずいた。


 ゆうはその横顔を、少しの間見ていた。


 (この子は、強いな)


 手違いで巻き込まれて、それでも前を向いている。弱音を見せない。遠慮ばかりする。それが時々、少し苦しかった。もっと頼ってくれていい、と思う。その気持ちが、主人としてのものなのか、それとも別の何かなのか——ゆうにはまだ、判断がつかなかった。



 冬の終わりに、マナが生まれた。


 夜明け前のことだった。ゆうは屋敷の廊下で待っていた。産婆が出てきて「健やかなお子様です」と言った。


 部屋に入ると、マリアが横になっていた。疲れた顔だったが、穏やかな目をしていた。その腕の中に、小さな命があった。


 栗色の産毛。小さな手。目を閉じて、静かに眠っている。


 (マナだ)


 ゆうはそう思った。なぜその名前が浮かんだか、うまく説明できない。でも、この子の名前はマナだ、という確信があった。


 「マリア」


 「……はい」


 「よく頑張った」


 マリアは少し目を細めた。何か言おうとして、でも言葉にならなかったようだった。


 ゆうは、そのマリアの顔を見ていた。疲れていて、でも穏やかで、何かを受け取ったような目だった。きれいだ、とゆうは思った。そのままそう言えるほど、まだ気持ちの整理はついていなかったが——確かにそう思った。


 ゆうは小さな手に、そっと指を触れた。マナの指が、反射でゆうの指を握った。細くて、温かかった。


 (よく来た)


 声には出さなかった。でも、確かにそう思った。



 翌日、父と母に報告した。


 エレノアが小さなマナを抱いて、「かわいいわ」と言った。いつもの穏やかな声より、少し柔らかかった。


 父は少しの間、マナを見ていた。それから「名前は」と聞いた。


 「マナ・ヴァルロードにしたいと思います」


 父は少し間を置いた。


 「マナ、か」


 「はい」


 「……いい名前だ」


 それだけだった。でも父の目が、少し和らいでいた。


 その日のうちに、父が正式な書類を整えた。マナ・ヴァルロード。ユウ・フォン・ヴァルロードの娘として、正式に認知された。


 ゆうはその書類を見ながら、静かに思った。


 (これでいい)


 生まれてきた命に、ちゃんとした場所を与える。それだけのことだ。大げさな話ではない。ただ、やるべきことをやった。



 その夜、マリアの部屋の前を通りかかると、扉が少し開いていた。


 中をのぞくと、マリアがマナを抱いて座っていた。マナは眠っていた。マリアは窓の外を見ていた。


 気づいていないかもしれない、とゆうは思った。でもそのとき、マリアがゆうの方を向いた。


 目が合った。


 マリアは何も言わなかった。ゆうも何も言わなかった。


 でも、マリアの目が、少し違った。何かを抑えているでもなく、何かを隠しているでもなく——ただ、静かで、穏やかな目だった。


 (よかった)


 ゆうはそう思って、廊下を歩き続けた。


 マリアのことが、大切だ。それだけは、はっきりわかっていた。リリスへの想いとは形が違う。でも、どちらも本物だということも、わかっていた。それをどう整理するかは、まだ先の話だ。


 今夜は、マリアが穏やかな目をしていた。それで十分だった。


 冬の夜は、静かだった。

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