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第十話「歩き始めた命と、遠くの影」

第十話「歩き始めた命と、遠くの影」


 マナが初めて立ったのは、春の午後のことだった。


 マリアが部屋の隅に座って縫い物をしていた。マナはその傍で、床に手をついてはいを這い回っていた。ゆうは窓際の椅子に座って、本を読んでいた。


 ふと顔を上げたとき、マナがよろよろと立ち上がろうとしていた。


 小さな手が、床を離れた。膝が伸びた。体がぐらついた。それでも、なんとか立った。


 二秒か、三秒か。


 それだけ立って、またぺたりと座り込んだ。


 マリアが縫い物を置いた。ゆうも本を置いた。


 マナは二人を交互に見て、何が起きたかわかっていないような顔をしていた。それから、なぜかにこりと笑った。


 (笑うのか)


 ゆうは内心で、少し笑った。


 「マリア、見ていたか」


 「……見ていました」


 マリアの声が、少し滲んでいた。泣いているわけではないが、その手前くらいの声だった。


 「よかったな」


 「……はい」


 マナはまた立ち上がろうとしていた。今度は少し早く倒れた。でも泣かなかった。また試みた。


 (この子は、諦めない)


 ゆうは思った。生まれてまだ一年も経っていない命が、誰に教わったわけでもなく、ただ立とうとしている。それが、なんとなく、胸に来た。



 マナが歩くようになったのは、それから二週間ほど後だった。


 最初は三歩、次の日は五歩、一週間後には部屋の端から端まで。よたよたとしているが、確かに歩いている。転ぶたびに少しだけ泣いて、でもすぐに立ち上がる。


 エレノアがマナを見るとき、目が細くなった。


 「かわいいわ」


 「かわいいですね」


 「似ているわ、ユウに」


 「俺には似ていないと思いますが」


 「目が似ているの」


 エレノアはそう言って、マナをひょいと抱き上げた。マナがきゃっと声を上げた。エレノアが笑った。銀色の髪が、午後の光の中で揺れた。


 父も、珍しく表情をほころばせた。


 「歩いたか」


 「はい。昨日から」


 「そうか」


 父はマナを少しの間見ていた。マナが父の顔をじっと見上げた。父が指を差し出すと、マナがその指を両手で握った。


 「……力があるな」


 「そうですか」


 「ああ」


 それだけだったが、父の目が和らいでいた。



 その夜、ゆうはいつもの修練を終えてから、ダイナリを開いた。


 マナが歩き始めた。一つの区切りだった。次のことを考える時期だ、と感じていた。


 知りたいことを意識した。領地の次の課題。シルフィード商会の展開。この先一年で動かせることは何か。


 情報が流れ込んできた。


 まず、領地について。道路と橋は整備できた。次に来る課題は灌漑だ。南側の畑は水の引き方が非効率で、雨の少ない年には収穫が落ちやすい。水路を一本引くだけで、安定性が大きく変わる。費用は橋ほどかからない。父に話す価値がある。


 次に、シルフィードについて。王都での評判は順調に広がっている。ただ、今のままでは供給が需要に追いつかない時期が来る。製造の手順をもう一段効率化するか、信頼できる職人に一部を任せるか。どちらにせよ、動くなら早い方がいい。


 それから——


 (エレノアの名前を使った販路を、もう少し広げられる)


 特別ラインの紹介状制度は機能している。でも、一般ラインにはまだ伸びしろがある。王都の中堅商会と組めば、流通が一気に広がる。ただし、組む相手を間違えると品質の評判が落ちる。慎重に選ぶ必要がある。


 ゆうはしばらく、頭の中で計画を組み立てた。


 優先順位は、灌漑が一番だ。領民の暮らしに直接関わる。商会は並行して動かせる。人選を始めながら、製造の効率化を先に進める。


 (動き方は見えた)


 ダイナリを閉じた。手のひらに、いつもの温もりが残った。



 父に灌漑の話をしたのは、翌週の夕食後だった。


 「南の畑の水路を引き直したいんですが」


 父が顔を上げた。


 「どのくらいかかる」


 「橋の三分の一以下だと思います。工期も短い。ただ、地形を先に見てもらう必要があります」


 「職人に声をかけてみよう」


 「ありがとうございます」


 エレノアが二人を交互に見て、「またやっているの」と言った。呆れたような、でも嬉しそうな声だった。


 「何がですか」


 「二人して領地の話。食後にするものじゃないわよ、そういう話は」


 「失礼しました」


 「謝らなくていいわ。ただ、少し笑えるくらい自然にやっているから」


 父がわずかに口元を動かした。笑った、というほどではないが、それに近い何かだった。


 (この家は、いい家だ)


 ゆうはそっと思った。前世では想像もしなかった光景だ。食卓で家族が話して、少し笑って、それだけのことが、確かにある。



 シルフィードの件は、夏にかけて動かした。


 王都の商会をいくつか調べて、ゆうが判断基準をまとめた。長く続いていること。品質を大切にしていること。貴族との取引実績があること。その三つを軸に、父が実際に交渉した。


 最終的に、二つの商会と契約した。


 一つは老舗の香料商会で、丁寧な仕事で知られていた。もう一つは若い商会だったが、当主の目利きが確かで、ゆうの見立てでは長期的に伸びると判断した。


 契約を終えた日、父が書斎でゆうに言った。


 「あの若い商会、なぜ選んだ」


 「十年後を見ているので」


 「十年後」


 「今すぐより、長く続く方が価値があります。若い商会は今は小さくても、一緒に育てていけば、こちらの意向を大切にしてくれる。大きい商会は強いですが、力関係が変わることがある」


 父はしばらくゆうを見ていた。


 「……前世で学んだのか」


 ゆうは少し固まった。


 父が静かに言った。


 「冗談だ。続けろ」


 (今のは、冗談ではなかった気がするが)


 ゆうは内心でそう思いながら、「まあ、そういうことです」とだけ答えた。


 父は何も言わなかった。でも、追及しなかった。いつも通りだった。



 夏の終わりごろから、ある話が耳に入るようになった。


 王太子フェリクスのことだ。


 最初は使用人たちの話の端々からだった。「王太子殿下が、クレシェンテのご令嬢との婚約を破棄されるかもしれない」という噂が、社交界の端から漏れ始めていた。


 ゆうはそれを聞いたとき、何かが引っかかった。


 ダイナリを開いた。


 フェリクスの性格。アメリアという平民女性への執着。そして、リリスとの婚約——リリスは生まれたときから王太子との縁組みが決まっていた。それがこの世界の政治的な文脈だ。


 流れ込んでくる情報の中に、一つの確信が見えた。


 (フェリクスは、婚約を壊そうとしている)


 アメリアに溺れたフェリクスにとって、リリスとの婚約は邪魔になっている。感情で動く人間の行き着く先は、読みやすかった。


 ゆうはダイナリを閉じた。


 部屋の中が、少し静かすぎる気がした。


 (まだ、確定ではない)


 そう思いながら、でも何かが胸の奥に残った。リリスへの想いは、ずっと封印してきた。告白もしない、独占もしない、ただ幼馴染として傍にいる——それが自分のやり方だと決めていた。


 でも今、その封印が少しだけ、揺れた気がした。



 秋の社交シーズンに、リリスと会った。


 お互い十四歳になっていた。リリスは相変わらず凛としていて、でもゆうの前では少し表情がほぐれる。それが変わらないことが、ゆうには少しだけ安心だった。


 庭に出て、しばらく二人で歩いた。


 「ユウ」


 「はい」


 「最近、何か考えていることがあるでしょう」


 ゆうは少し驚いた。


 「なぜそう思うんですか」


 「なんとなく。目が違う気がして」


 (この子は、よく見ている)


 「色々と動かしていることがあるので」


 「領地? 商会?」


 「それも。あと……少し先のことを考えていて」


 リリスはゆうを見た。


 「先のこと、というのは」


 「まだうまく言えないです」


 「そう」


 リリスは少しの間、黙って歩いた。それから静かに言った。


 「いつか話してくれる?」


 「はい」


 「約束ね」


 「約束します」


 リリスはまた前を向いた。銀色の髪が、秋風に少し揺れた。


 (この子に、何も起きなければいい)


 ゆうは思った。でもその「何も」が何を指しているか、まだリリスには言えなかった。



 その夜、マリアが部屋を整えながら言った。


 「ユウ様、今日は少し顔色が違いましたね」


 「そうか」


 「何かありましたか」


 ゆうは少し考えた。マリアには、話してもいいと思った。


 「リリスと王太子の婚約が、破棄される方向に動いているかもしれない」


 マリアは手を止めた。


 「……それは」


 「まだわからない。でも、可能性がある」


 マリアはしばらく黙っていた。それから、静かに聞いた。


 「ユウ様は、どうされるつもりですか」


 「まだ、何も」


 「でも」


 「でも——放っておけない、とは思っている」


 マリアはゆうを見た。何かを言おうとして、でも言わなかった。


 ただ「……そうですね」とだけ言って、また仕事に戻った。


 その声が、少し複雑だった。ゆうはそれに気づきながら、何も言わなかった。マリアの気持ちを、ゆうはわかっていた。わかっていて、でも今夜は、それに向き合う言葉を持っていなかった。



 冬になってから、フェリクスの動きが少しずつ具体的になってきた。


 婚約破棄の方向性が、複数の筋から聞こえてくるようになった。


 エレノアがゆうに言った。


 「王太子殿下がクレシェンテ家との婚約を解消されるかもしれないという話、聞いた?」


 「聞いています」


 「リリスちゃんのことが心配?」


 ゆうは少し間を置いた。


 「……心配、というか」


 「言わなくていいわ」


 エレノアは静かに言った。


 「ユウがリリスちゃんのことを大切に思っているのは、ずっと見ていたから」


 ゆうは何も言わなかった。


 「でもね、ユウ」


 エレノアが続けた。


 「動くなら、ちゃんと考えてから動きなさい。感情だけで動いたら、リリスちゃんを傷つけることになるかもしれない」


 「わかっています」


 「わかっているなら、いいわ」


 エレノアはそれ以上は言わなかった。ただ、ゆうの肩にそっと手を置いて、離した。


 その温かさが、ゆうにはありがたかった。



 十四歳の終わり、冬の夜にゆうはダイナリを開いた。


 王太子フェリクスという人間について、改めて調べた。感情的で、プライドが高い。気に入った者への執着が強い。判断が感情に引きずられやすい。そういう人間の動き方は、読みやすい。


 (やはりそう来るか)


 流れ込んでくる情報の中で、ゆうの確信は強まった。フェリクスは婚約を破棄する。そしてそのやり方は——おそらく、リリスを傷つける形になる。


 どうするか。


 動くとすれば、何ができるか。


 (今の俺に、できることとできないことがある)


 伯爵家の嫡男として、公爵家の令嬢に直接動くには、家格の壁がある。今のヴァルロード家の格では、まだ正面からは難しい。でも、動けることはある。情報を集める。準備を整える。リリスが傷つく場面が来たとき、遅れずに動ける状態にしておく。


 ゆうはダイナリを閉じた。


 窓の外で、雪が降り始めていた。白い雪が、庭の石畳に静かに積もっていった。


 (来年、何かが変わる)


 その予感は、静かだったが、確かだった。


 ゆうは目を閉じた。眠る前の、いつもの修練をした。魔力の束が、体の中で静かに熱を持っていた。十四年間、一日も欠かさず積み上げてきたものが、確かにそこにある。


 準備は、できている。


 あとは、いつ動くかだけだ。

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