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第十一話「誰も動かない場で、一人だけ前に出た」

第十一話「誰も動かない場で、一人だけ前に出た」


 十五歳になった年の春、ゆうはリリスと会った。


 毎年そうしているように、社交シーズンの最初の催しで顔を合わせた。王家主催の夜会で、大勢の貴族が集まっていた。ゆうは父と一緒に出席した。


 リリスはいつもの凛とした佇まいで、人々の間を歩いていた。銀色の髪が、燭台の光を受けて静かに輝いていた。


 でも、何かが違った。


 表情が、少し固かった。完璧な令嬢の仮面は崩れていない。でもゆうには、その奥に何かが見えた気がした。緊張、というより——重さだ。何かを背負っている人間の顔だった。


 リリスは生まれたときから、王太子フェリクスとの婚約が決まっていた。公爵家の令嬢と王太子の縁組み——政略として申し分なく、誰もがそれを当然のこととして見ていた。


 リリスと目が合った。


 一瞬だけ、表情がほぐれた。すぐに戻った。でもその一瞬が、ゆうには見えた。


 (話したそうだな)


 でも、今夜はそういう場ではなかった。



 夜会が中盤に差し掛かったころ、広間の中心に人が集まり始めた。


 王太子フェリクスが、何かを言おうとしていた。


 ゆうはその動きを、少し離れたところから見ていた。


 フェリクスは十七歳になっていた。背が高く、顔立ちは整っている。王家の血を受けた堂々とした外見だ。でも、目が泳いでいた。感情が先に出ている目だ。今夜の彼は、何かに突き動かされている。


 傍に、一人の女性がいた。


 明るい茶色の髪に、愛嬌のある顔立ち。貴族の夜会には少し場違いな雰囲気だが、フェリクスはその女性の傍から離れなかった。リリスとの婚約者でありながら、今夜ここに別の女性を連れてきている。


 広間の空気が、少しずつ変わっていった。何かが起きる——そういう緊張が、場に滲み始めていた。


 広間が、少しずつ静かになっていった。



 フェリクスが口を開いた。


 「リリス・エルヴィン・フォン・クレシェンテ」


 名を呼ばれたリリスが、静かに顔を上げた。表情は変わらなかった。でもゆうには、その手が少しだけ強張ったのが見えた。


 「此度、私はクレシェンテ公爵家との婚約を解消することとした。異議のある者は申し出よ」


 広間が、固まった。


 誰も動かなかった。誰も声を上げなかった。ただ、空気が変わった。さっきまであった賑わいが、一瞬で消えた。


 フェリクスは続けた。言葉は丁寧だったが、その実、言い訳だった。家格のこと、政略のこと、将来の方向性のこと——言葉を重ねるたびに、それがいかに自分本位の都合から来ているかが、にじみ出ていた。


 ゆうはその言葉を聞きながら、内心でため息をついた。


 (まさか、こういう形で)


 ただ——


 リリスを見た。


 凛として立っていた。顔色は変わっていない。伏し目にもなっていない。公爵令嬢として、この場をすべて受け止めている。


 でも、ゆうには見えた。


 その体が、ほんのわずかだが、震えていた。


 (リリス)


 ゆうは動いた。



 「一つ、確認させていただいてもよいでしょうか」


 ゆうの声が、広間に通った。


 静かな声だった。大きくもなく、でも届く声だった。周囲の視線が一斉に向いた。十五歳の少年が、王太子に向かって声をかけている——誰もが、その光景に固まった。


 フェリクスがゆうを見た。


 「……ヴァルロードか」


 「はい。ユウ・フォン・ヴァルロードと申します」


 ゆうは静かに、でもはっきりと言った。


 「今の宣言は、王家としての正式な最終決定として受け入れてよろしいでしょうか」


 広間がざわついた。


 問いの形をとっていた。でもその問いが意味することは、この場にいる誰にもわかった。「異議のある者は申し出よ」と言われたから、申し出た。それだけだ。


 フェリクスの顔が、少し赤くなった。


 「……王家の決定だ。それ以上でも以下でもない」


 「承知いたしました」


 ゆうは静かに言った。それからフェリクスから視線を外して、リリスを見た。


 貴族たちが、押し黙っていた。誰一人動いていなかった。


 「リリス様」


 ゆうはリリスに向かって言った。


 「あなたは何も悪くない」


 広間が、また静まり返った。



 リリスが、ゆうを見た。


 その目が、少し揺れた。凛とした仮面が、一瞬だけ、ほんの少しだけ、崩れた。


 すぐに戻った。


 でも、その一瞬が、ゆうには十分だった。


 「ヴァルロード」


 フェリクスが声を上げた。苛立ちを抑えきれていなかった。


 「貴様の言いたいことはわかった。しかし、これは王家の決定だ。伯爵家の子息が口を挟むことではない」


 「おっしゃる通りです」


 ゆうは静かに言った。


 「王家の決定に、私が異を唱える立場ではありません。ただ——」


 一拍、置いた。


 「リスクを承知で申し上げます。この場にいる方々の中で、リリス様のことを大切に思っている方は、今夜のことをどう受け取られたか。それだけを、殿下にお伝えしたかった」


 フェリクスは何も言わなかった。


 言い返せなかったのか、言い返す気がなくなったのか、ゆうにはわからなかった。ただ、その顔が、さっきより少し複雑になっていた。



 その後の夜会は、妙な空気のまま続いた。


 誰も大きな声を出さなかった。フェリクスはアメリアの傍に戻った。貴族たちは、小さな声で何かを話し始めた。


 ゆうは人の輪から少し離れたところに立って、広間を見ていた。


 父が、隣に来た。


 「……やったな」


 静かな声だった。


 「はい」


 「後で面倒が来るかもしれないぞ」


 「来ると思います」


 「それでも」


 「それでも、やるべきことだと思いました」


 父は何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。それで十分だった。



 リリスと話せたのは、夜会が終わりかけたころだった。


 廊下に出ると、リリスが壁際に立っていた。人がいない場所を選んだのだろう、と思った。


 ゆうが近づくと、リリスが顔を上げた。


 「ユウ」


 「はい」


 「なぜ、あんなことをしたの」


 ゆうは少しの間、考えた。


 正直に言っていい、と思った。


 「あなたが、震えていたから」


 リリスの目が、少し揺れた。


 「見えていたの」


 「はい」


 「……私は、震えていなかった」


 「震えていました」


 リリスは少し黙った。反論しようとして、でもしなかった。


 「王太子に楯突いて、怖くなかったの」


 「怖かったかどうかは、正直わかりません。でも——動かなければならないと思ったので」


 「どうして」


 ゆうは、リリスをまっすぐ見た。


 「あなたのことが、大切だからです」


 広間の賑わいが、遠くから聞こえていた。


 リリスは、ゆうを見ていた。長い時間ではなかったが、ゆうには長く感じた。


 「……同情、ではないの?」


 「違います」


 「打算でも、ない?」


 「ない」


 「じゃあ、何?」


 ゆうは少し考えた。全部言うのは、今夜ではない気がした。でも、これだけは言えると思った。


 「十年分の気持ちです」


 リリスは、何も言わなかった。


 ただ、ゆうを見ていた。その目が、いつもの凛とした目とは少し違った。何かを受け取ろうとしている、でもまだ受け取り切れていない——そういう目だった。


 「……帰るわ」


 リリスは静かに言った。


 「はい」


 「また、話せる?」


 ゆうは少し驚いた。リリスの方から、「また話せる?」と聞いてきたのは初めてだった。


 「いつでも」


 リリスはゆうを見て、それから前を向いた。


 歩いていった。銀色の髪が、廊下の燭台の光の中で、静かに揺れた。


 ゆうはその後ろ姿を、しばらく見ていた。



 帰りの馬車の中で、父は何も言わなかった。


 ゆうも何も言わなかった。


 ただ、窓の外を流れる夜の景色を見ていた。


 (始まった)


 そう思った。


 十年間、封印してきた。告白もしない、独占もしない、ただ傍にいる——それが自分のやり方だと決めていた。でも今夜、何かが変わった。正確には、自分が変えた。


 リスクはある。王太子に楯突いた。家への影響が出るかもしれない。面倒が来るかもしれない。


 でも——


 (リリスが「震えていなかった」と言いたそうにしていた)


 ゆうは、少し笑った。内心だけで。


 そういうところが、好きだ。負けを認めない、でも嘘もつかない。強がりと本音が、あの子の中でいつもせめぎ合っている。


 (この先、どうなるかはわからない)


 でも、動いたことは正しかったと思っていた。


 馬が蹄の音を立てて、夜の道を走っていった。

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