表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/12

第十二話「静かな部屋と、冷たい社交界」

第十二話「静かな部屋と、冷たい社交界」


 夜会の翌朝、ヴァルロード家の屋敷は静かだった。


 父はすでに書斎に入っていた。エレノアは応接間で手紙を書いていた。マリアは部屋を整えながら、ゆうの様子をちらちら見ていた。


 ゆうは窓際に座って、外を見ていた。


 問題は、これからだ。


 昨夜の場に居合わせた貴族たちは、今頃それぞれの屋敷で昨夜の話をしている。「クレシェンテ公爵令嬢が王太子に婚約破棄を言い渡された」という事実は、すでに広まっている。貴族社会というのは、そういうものだ。リリスのことを心配している人間もいるだろう。でも大多数は、「王家に否定された令嬢」の価値を、今この瞬間に計算し直している。


 (リリスは、今どうしているだろう)


 ゆうは立ち上がった。



 父に話したのは、その日の朝のことだった。


 「リリス嬢のことは、どうするつもりだ」


 父は単刀直入に聞いた。


 「時期を見て、正式に求婚したいと思っています」


 父はしばらく黙った。


 「わかっているとは思うが——王家に婚約を解消された令嬢だ。どの家も、今は距離を置くだろう。そこに伯爵家の嫡男が動けば、周囲はどう見る」


 「リリス様を拾った、という目で見る者もいると思います。でも、それがリリス様を傷つけるとは思っていません。むしろ、誰も動かない今だから、意味があると思っています」


 父は少しの間、ゆうを見ていた。


 「お前のやり方でやれ。ただし、リリス嬢をこれ以上傷つけるな」


 「はい」


 それだけだった。父との話は、いつもそうだ。短くて、要点だけで、でも必要なことは全部入っている。



 夕方、エレノアがゆうの部屋に来た。


 応接間での来客が終わったばかりらしく、少し疲れた顔をしていた。でも、椅子に座るとすぐにゆうを見た。


 「怒られると思っていたけれど、思ったより反応が分かれているわ」


 「どういう話が出ていますか」


 「場を乱した、王太子への不敬だ、という声もある。でも——」エレノアは少し間を置いた。「誰も動かなかった場で一人だけ声を上げた、それが正しかったと言ってくださる方も多くて」


 ゆうは黙って聞いていた。


 「お母様の知り合いの方々が、そう言ってくださっているんですよね」


 「……ええ」


 「お母様が社交界に戻っていてくださったから、そういう声が届くんだと思います」


 エレノアはしばらくゆうを見ていた。何かを言おうとして、でも言葉にならない、という顔だった。


 「ユウ」


 「はい」


 「リリスちゃんのこと、心配じゃないの」


 「心配です」


 「会いに行かないの」


 「今すぐ行くのは、違う気がして。あの子はきっと、誰かに助けてもらおうとは思っていない。少し、自分の中で整理する時間が要ると思うので」


 エレノアはゆうの顔を見ていた。


 「……よくわかるわね、あの子のこと」


 「十年、見ていたので」


 エレノアは少し笑った。笑ったあと、少し目が潤んでいた気がした。


 「ユウ、あなたって、本当に——」


 「何ですか」


 「いいえ、なんでもない」


 エレノアは立ち上がって、ゆうの頭をそっと撫でた。銀色の髪が、夕方の光の中で静かに揺れた。


 「ちゃんとしなさいよ。あの子のこと」


 「はい」


 それだけだった。でも、それだけで十分だった。



 数日が経った。


 エレノアへの来客や手紙、マリアが使用人たちの話から拾ってくる断片——それを頭の中で整理すると、社交界の空気が少しずつわかってきた。


 リリスへの風当たりは、やはり厳しかった。


 「王家に否定された令嬢」というレッテルは、貴族社会では重い。公爵家という家格がある分、完全に社交界から外れることはない。でも縁談は遠のく。以前のように「王太子の婚約者」として扱われることはない。パーティへの招待が減る。話しかけてくる人間の顔ぶれが変わる。


 目に見えるほどの変化ではないかもしれない。でも、確実に空気は変わっている。


 そういう変化を、リリスが感じ取っていないはずがなかった。


 あの凛とした令嬢が、今どんな顔をして部屋にいるだろうか。仮面を保ったまま、一人でいるだろうか。それとも——。


 (待つのが正しいとわかっていても、胸が落ち着かない)


 ゆうは静かに思った。



 一週間後、マリアから聞いた。


 「リリスお嬢様が、屋敷に籠もっていると聞きました。夜会の翌日から、社交の場にほとんど出ていないようで」


 ゆうは少しの間、黙った。


 出たくないのだろうと思った。人の目が変わったことを、リリスは敏感に感じ取っているはずだ。外に出れば、以前と違う視線がある。それを知っているから、出ない。


 (手紙を出そう)


 ゆうは決めた。


 「マリア、リリスに手紙を出したい。便箋を用意してくれるか」


 マリアは手を止めた。


 ゆうの方を向かなかった。少しの間、そのまま窓の外を見ていた。


 「……かしこまりました」


 振り返ったとき、マリアの顔はいつも通りだった。でも、その「かしこまりました」が、いつもの返事と少し違った。何かを一度飲み込んでから、出てきた言葉だった。


 マリアは便箋を取り出して、静かに置いた。それだけで、また部屋を出ていった。



 手紙を書くのに、しばらく時間がかかった。


 何を書くかより、何を書かないかを考えた。


 心配している、と書けば、傷ついたことを前提にしているように読まれるかもしれない。会いに行きたい、と書けば、こちらの都合を押しつけているように聞こえるかもしれない。大丈夫か、と聞くのも、なんとなく違う気がした。


 最終的に、こう書いた。


 ——先日の夜会以来、何度かあなたのことを考えています。庭の花が咲き始めました。もし気が向いたなら、いつでも。


 短い手紙だった。説明も言い訳も何もない。ただ、忘れていないということだけが伝わればいいと思った。


 マリアに渡すと、マリアはその手紙をしばらく見ていた。


 「……送ります」


 「頼む」


 マリアは手紙を持って部屋を出た。ゆうはその後ろ姿を見ながら、少しだけ、マリアのことを考えた。


 リリスへの手紙を、ゆうの代わりに届ける。その複雑さを、マリアは黙って引き受けている。いつか、ちゃんと礼を言わなければ、と思った。



 返事が来たのは、三日後だった。


 便箋一枚の、短い手紙だった。


 ——花の話を聞かせてもらえますか。


 それだけだった。


 ゆうはその一文を、しばらく眺めた。


 (来た)


 リリスが、返事を書いた。短い。でも、書いた。「花の話を聞かせてもらえますか」——それは、会いたい、ということだ。直接そう書かないのが、いかにもリリスらしかった。


 ゆうは少し笑った。内心だけで。


 同時に、胸の奥に静かな何かが広がった。


 一週間、リリスは部屋に籠もっていた。誰かに頼ることもできず、強がりながら、一人でいた。その間に、この短い返事を書いた。「花の話を聞かせてもらえますか」——それだけの七文字が、今のリリスにとって、どれほどの重さを持っているか。


 (会いに行く)


 ゆうは立ち上がって、マリアを呼んだ。


 部屋に入ってきたマリアに、手紙を差し出した。


 「返事が来た」


 マリアは手紙を受け取って、一文を読んだ。少しの間、黙っていた。


 「……よかったですね」


 声は静かだった。笑顔でもなかった。でも、本当にそう思っている声だった。


 ゆうはマリアを見た。


 手紙を届けてくれた。便箋を黙って置いて部屋を出た。一度も「なぜリリスに」とは聞かなかった。ゆうのリリスへの気持ちを、ずっと知っていて、ずっと黙っていて、それでも動いてくれた。


 「マリア」


 「はい」


 「ありがとう」


 マリアが顔を上げた。


 ゆうはそのまま、一歩近づいて——マリアの肩に、そっと手を回した。


 力を込めたわけではない。ただ、触れた。それだけだった。


 マリアが息を飲む気配がした。体が少し固まった。でも、逃げなかった。


 ゆうは少しの間、そのままでいた。


 (お前のことも、大切だ)


 声には出さなかった。出せなかった。リリスへの気持ちと、マリアへの気持ちが、自分の中で同時にある——それをどう言葉にすればいいか、まだわからなかった。


 でも、伝えたかった。言葉ではなく、こういう形で。


 手を離した。


 マリアはしばらく動かなかった。それから、静かに言った。


 「……クレシェンテ家への訪問の申し入れを、します」


 「頼む」


 マリアは部屋を出た。扉が静かに閉まった。


 ゆうは窓の外を見た。庭の花が、春風に揺れていた。


 手紙に書いた花は、これだったな、と思った。白い花びらが、ゆっくりと揺れていた。


 (ちゃんとしなければ)


 誰に対しても。リリスに対しても、マリアに対しても。そう思った。


 その夜、ゆうは久しぶりにゆっくりと窓の外を見ていた。


 庭の白い花が、夜風に静かに揺れていた。


 リリスから返事が来た。マリアが届けてくれた。それだけのことが、今夜はなんとなく、胸の奥に温かく残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ