第十二話「静かな部屋と、冷たい社交界」
第十二話「静かな部屋と、冷たい社交界」
夜会の翌朝、ヴァルロード家の屋敷は静かだった。
父はすでに書斎に入っていた。エレノアは応接間で手紙を書いていた。マリアは部屋を整えながら、ゆうの様子をちらちら見ていた。
ゆうは窓際に座って、外を見ていた。
問題は、これからだ。
昨夜の場に居合わせた貴族たちは、今頃それぞれの屋敷で昨夜の話をしている。「クレシェンテ公爵令嬢が王太子に婚約破棄を言い渡された」という事実は、すでに広まっている。貴族社会というのは、そういうものだ。リリスのことを心配している人間もいるだろう。でも大多数は、「王家に否定された令嬢」の価値を、今この瞬間に計算し直している。
(リリスは、今どうしているだろう)
ゆうは立ち上がった。
父に話したのは、その日の朝のことだった。
「リリス嬢のことは、どうするつもりだ」
父は単刀直入に聞いた。
「時期を見て、正式に求婚したいと思っています」
父はしばらく黙った。
「わかっているとは思うが——王家に婚約を解消された令嬢だ。どの家も、今は距離を置くだろう。そこに伯爵家の嫡男が動けば、周囲はどう見る」
「リリス様を拾った、という目で見る者もいると思います。でも、それがリリス様を傷つけるとは思っていません。むしろ、誰も動かない今だから、意味があると思っています」
父は少しの間、ゆうを見ていた。
「お前のやり方でやれ。ただし、リリス嬢をこれ以上傷つけるな」
「はい」
それだけだった。父との話は、いつもそうだ。短くて、要点だけで、でも必要なことは全部入っている。
夕方、エレノアがゆうの部屋に来た。
応接間での来客が終わったばかりらしく、少し疲れた顔をしていた。でも、椅子に座るとすぐにゆうを見た。
「怒られると思っていたけれど、思ったより反応が分かれているわ」
「どういう話が出ていますか」
「場を乱した、王太子への不敬だ、という声もある。でも——」エレノアは少し間を置いた。「誰も動かなかった場で一人だけ声を上げた、それが正しかったと言ってくださる方も多くて」
ゆうは黙って聞いていた。
「お母様の知り合いの方々が、そう言ってくださっているんですよね」
「……ええ」
「お母様が社交界に戻っていてくださったから、そういう声が届くんだと思います」
エレノアはしばらくゆうを見ていた。何かを言おうとして、でも言葉にならない、という顔だった。
「ユウ」
「はい」
「リリスちゃんのこと、心配じゃないの」
「心配です」
「会いに行かないの」
「今すぐ行くのは、違う気がして。あの子はきっと、誰かに助けてもらおうとは思っていない。少し、自分の中で整理する時間が要ると思うので」
エレノアはゆうの顔を見ていた。
「……よくわかるわね、あの子のこと」
「十年、見ていたので」
エレノアは少し笑った。笑ったあと、少し目が潤んでいた気がした。
「ユウ、あなたって、本当に——」
「何ですか」
「いいえ、なんでもない」
エレノアは立ち上がって、ゆうの頭をそっと撫でた。銀色の髪が、夕方の光の中で静かに揺れた。
「ちゃんとしなさいよ。あの子のこと」
「はい」
それだけだった。でも、それだけで十分だった。
数日が経った。
エレノアへの来客や手紙、マリアが使用人たちの話から拾ってくる断片——それを頭の中で整理すると、社交界の空気が少しずつわかってきた。
リリスへの風当たりは、やはり厳しかった。
「王家に否定された令嬢」というレッテルは、貴族社会では重い。公爵家という家格がある分、完全に社交界から外れることはない。でも縁談は遠のく。以前のように「王太子の婚約者」として扱われることはない。パーティへの招待が減る。話しかけてくる人間の顔ぶれが変わる。
目に見えるほどの変化ではないかもしれない。でも、確実に空気は変わっている。
そういう変化を、リリスが感じ取っていないはずがなかった。
あの凛とした令嬢が、今どんな顔をして部屋にいるだろうか。仮面を保ったまま、一人でいるだろうか。それとも——。
(待つのが正しいとわかっていても、胸が落ち着かない)
ゆうは静かに思った。
一週間後、マリアから聞いた。
「リリスお嬢様が、屋敷に籠もっていると聞きました。夜会の翌日から、社交の場にほとんど出ていないようで」
ゆうは少しの間、黙った。
出たくないのだろうと思った。人の目が変わったことを、リリスは敏感に感じ取っているはずだ。外に出れば、以前と違う視線がある。それを知っているから、出ない。
(手紙を出そう)
ゆうは決めた。
「マリア、リリスに手紙を出したい。便箋を用意してくれるか」
マリアは手を止めた。
ゆうの方を向かなかった。少しの間、そのまま窓の外を見ていた。
「……かしこまりました」
振り返ったとき、マリアの顔はいつも通りだった。でも、その「かしこまりました」が、いつもの返事と少し違った。何かを一度飲み込んでから、出てきた言葉だった。
マリアは便箋を取り出して、静かに置いた。それだけで、また部屋を出ていった。
手紙を書くのに、しばらく時間がかかった。
何を書くかより、何を書かないかを考えた。
心配している、と書けば、傷ついたことを前提にしているように読まれるかもしれない。会いに行きたい、と書けば、こちらの都合を押しつけているように聞こえるかもしれない。大丈夫か、と聞くのも、なんとなく違う気がした。
最終的に、こう書いた。
——先日の夜会以来、何度かあなたのことを考えています。庭の花が咲き始めました。もし気が向いたなら、いつでも。
短い手紙だった。説明も言い訳も何もない。ただ、忘れていないということだけが伝わればいいと思った。
マリアに渡すと、マリアはその手紙をしばらく見ていた。
「……送ります」
「頼む」
マリアは手紙を持って部屋を出た。ゆうはその後ろ姿を見ながら、少しだけ、マリアのことを考えた。
リリスへの手紙を、ゆうの代わりに届ける。その複雑さを、マリアは黙って引き受けている。いつか、ちゃんと礼を言わなければ、と思った。
返事が来たのは、三日後だった。
便箋一枚の、短い手紙だった。
——花の話を聞かせてもらえますか。
それだけだった。
ゆうはその一文を、しばらく眺めた。
(来た)
リリスが、返事を書いた。短い。でも、書いた。「花の話を聞かせてもらえますか」——それは、会いたい、ということだ。直接そう書かないのが、いかにもリリスらしかった。
ゆうは少し笑った。内心だけで。
同時に、胸の奥に静かな何かが広がった。
一週間、リリスは部屋に籠もっていた。誰かに頼ることもできず、強がりながら、一人でいた。その間に、この短い返事を書いた。「花の話を聞かせてもらえますか」——それだけの七文字が、今のリリスにとって、どれほどの重さを持っているか。
(会いに行く)
ゆうは立ち上がって、マリアを呼んだ。
部屋に入ってきたマリアに、手紙を差し出した。
「返事が来た」
マリアは手紙を受け取って、一文を読んだ。少しの間、黙っていた。
「……よかったですね」
声は静かだった。笑顔でもなかった。でも、本当にそう思っている声だった。
ゆうはマリアを見た。
手紙を届けてくれた。便箋を黙って置いて部屋を出た。一度も「なぜリリスに」とは聞かなかった。ゆうのリリスへの気持ちを、ずっと知っていて、ずっと黙っていて、それでも動いてくれた。
「マリア」
「はい」
「ありがとう」
マリアが顔を上げた。
ゆうはそのまま、一歩近づいて——マリアの肩に、そっと手を回した。
力を込めたわけではない。ただ、触れた。それだけだった。
マリアが息を飲む気配がした。体が少し固まった。でも、逃げなかった。
ゆうは少しの間、そのままでいた。
(お前のことも、大切だ)
声には出さなかった。出せなかった。リリスへの気持ちと、マリアへの気持ちが、自分の中で同時にある——それをどう言葉にすればいいか、まだわからなかった。
でも、伝えたかった。言葉ではなく、こういう形で。
手を離した。
マリアはしばらく動かなかった。それから、静かに言った。
「……クレシェンテ家への訪問の申し入れを、します」
「頼む」
マリアは部屋を出た。扉が静かに閉まった。
ゆうは窓の外を見た。庭の花が、春風に揺れていた。
手紙に書いた花は、これだったな、と思った。白い花びらが、ゆっくりと揺れていた。
(ちゃんとしなければ)
誰に対しても。リリスに対しても、マリアに対しても。そう思った。
その夜、ゆうは久しぶりにゆっくりと窓の外を見ていた。
庭の白い花が、夜風に静かに揺れていた。
リリスから返事が来た。マリアが届けてくれた。それだけのことが、今夜はなんとなく、胸の奥に温かく残っていた。




