第八話「神童と呼ばれた少年と、幼馴染の十年」
第八話「神童と呼ばれた少年と、幼馴染の十年」
橋が完成した翌年から、ヴァルロード家の名前が少し変わった聞かれ方をするようになった。
「あそこの坊ちゃんは、なかなか聡いらしい」という話が、貴族の間でも商人の間でも聞こえてくるようになった。道路の補修、石橋の設計、商会シルフィードの立ち上げ——それぞれは別々の話として広まっていたが、「全部同じ子どもがかかわっている」という事実が、少しずつ人の耳に届き始めていた。
ゆうはそれを、複雑な気持ちで聞いていた。
(目立ちすぎるのは、あまりよくないのだが)
前世のサラリーマン経験が言っている。出る杭は打たれる。特に貴族社会では、子どもが大人を凌ぐ智恵を持つということは、場合によっては警戒される。
でも、父は特に心配している様子がなかった。
「評判というのは、使い方次第だ」
ある夜、書斎でオルグレインが言った。
「広まっていることを否定しても意味はない。それより、どう見せるかを考えた方がいい」
「どう見せる、というのは」
「お前の智恵が、家のためになっているということを、ちゃんと示す。個人の才覚ではなく、ヴァルロードの家の力として見せる。そうすれば、評判は脅威ではなく信頼になる」
ゆうは、父の言葉を聞きながら少し驚いた。
(この人は、わかっている)
追及しない。でも、見ている。見た上で、必要なことを言う。それがオルグレインという人間だった。
「……ありがとうございます」
「お前が礼を言うことじゃない。親が子に言うことだ」
父は静かにそう言って、書類に視線を戻した。
十一歳になったころ、魔法の修練が一つ形になった。
火の属性を、初めて安定して制御できた日のことだ。
庭の隅で、小石ほどの火球をゆっくりと空中に保ち続けた。消えない。揺れない。意図した通りの場所に、意図した通りの大きさで、静かに浮かんでいる。
(できた)
六年かけて積み上げてきたものが、一つ形になった瞬間だった。
魔力の修練は赤子の頃から続けてきた。土台は十分に育っていた。でも属性魔法は、魔力量があるだけでは制御できない。火なら火の、水なら水の「流れ方」を体で覚える必要がある。それが今日、初めてちゃんと合った。
マリアが少し離れたところで見ていた。
「……すごいですね」
「まだ小さい。これを大きく、速く、複数同時にできるようにするのが次だ」
「それでも、すごいと思います」
マリアは静かに言った。ゆうはその言葉を受け取って、「ありがとう」と言った。
火球をそっと消した。煙も残らなかった。
同じ年の社交シーズン、リリスと庭で話した。
十一歳のリリスは、五歳のころよりさらに凛とした佇まいになっていた。背が伸びて、言葉の選び方が丁寧で、でも気を許した相手には本音が出る——その二面性が、少しずつはっきりしてきていた気がした。
「ユウは最近、何をしているの」
「魔法の修練です。火の属性が少し安定してきました」
「魔法?」
リリスが少し意外そうな顔をした。
「魔法の修練をしているの?」
「習う人もいますが、自分でやっています。教師には頼んでいない」
「独学で?」
「本を読んで、考えて、試して、の繰り返しです」
リリスはしばらく黙った。
「……それで、できるようになるの」
「時間はかかります。でもできるようになる」
リリスは少し考えるような顔をした。
「私は魔法を習ったことがないわ。才能がないって言われたから」
「才能がない、というのは誰が言ったんですか」
「師に」
「その師が正しいとは限りません」
リリスがゆうを見た。
「どういうこと」
「魔法は才能だけじゃない。積み上げ方で変わります。才能がないと言われた人が、やり方を変えたらできるようになった、ということは普通にある」
「……ユウはなぜそんなことを知っているの」
「考えてきたので」
リリスはまた黙った。少しの間、何かを考えていた。それから「そう」と言って、視線を庭の向こうに向けた。
「今度、見せてくれる?」
「魔法を?」
「うん。ユウが独学で覚えたやつ」
ゆうは少し間を置いた。
「機会があれば」
リリスがゆうを見た。
「それ、よく言うね」
「本当のことを言っているつもりです」
「……意地悪ね」
「そうでしょうか」
リリスはわずかに口をとがらせた。でも怒っているわけではなかった。そういう顔をするときのリリスは、少し子どもらしい。ゆうはそれが好きだった。内心だけで。
十二歳になった春、ヴァルロード家に来客があった。
王都から来た商人で、シルフィードの取り扱いについて話し合いたいという申し出だった。父が対応したが、その場にゆうも同席させてもらった。
商人は、最初はゆうを「伯爵の坊ちゃん」として扱っていた。子どもが同席しているのは礼儀上のことだろう、という目だった。でも話が進むにつれて、それが変わった。
「こちらの流通経路ですが——」
商人が言いかけたとき、ゆうが口を開いた。
「その経路だと、南の市場に届くのが季節をまたぎます。香料系の商品は鮮度が大事なので、東の定期便を使った方が早い」
商人が止まった。父を見た。父は静かにうなずいた。
「……失礼ですが、坊ちゃまは」
「ユウ・フォン・ヴァルロードです。シルフィードの実務を担当しています」
商人はしばらくゆうを見ていた。それから、表情を切り替えた。子どもを見る目から、交渉相手を見る目に。
(よし)
ゆうは内心で思った。この切り替わりが起きた瞬間から、話が早くなる。
その後の交渉は、スムーズに進んだ。
帰り際、商人が言った。
「ヴァルロードの坊ちゃまのことは、聞いていましたが」
「何か聞いていましたか」
「神童だと。でも実際にお話しして——神童というより、もっと別の何かだと思いました」
「別の何か、というのは」
商人は少し考えてから言った。
「長く生きた人間の目を、している」
ゆうは何も言わなかった。
「失礼なことを申しました」
「いいえ」
商人は頭を下げて帰っていった。
ゆうはその後ろ姿を見ながら、少し思った。
(なかなか、鋭い人だ)
その年の秋、リリスと二人で庭を歩く時間があった。
クレシェンテ家での催しで、大人たちが話している間に子どもたちは庭に出るよう促された。他にも何人か子どもがいたが、気がつけばゆうとリリスだけが少し離れたところにいた。
「ユウ」
「はい」
「神童って呼ばれているんでしょう」
「呼ぶ人もいるらしいですね」
「自分では、どう思っているの」
ゆうは少し考えた。正直に答えていい問いだと思った。
「神童、というのは違うと思っています。ただ、普通の子どもより少し多く知っていて、少し長く考えている、それだけです」
「なぜ多く知っているの」
「色々な事情があって」
「色々な事情」
リリスがゆうを見た。探るような目ではなかった。ただ、真剣に聞いている目だった。
「いつか話せる日が来たら、話します」
「……約束する?」
「約束します」
リリスはしばらくゆうを見ていた。それから前を向いて、また歩き始めた。
「それでいい」
短い言葉だった。でも、受け入れてくれた、という感じがした。理由を今すぐ聞かなくていい、ということではなく——いつか話してくれるなら、今は待つ、という意味だと、ゆうは受け取った。
(この子は、信頼できる)
五歳のころから積み上げてきた時間の中で、ゆうはずっとそう感じてきた。でも今日、それがまたはっきりした気がした。
庭の木が、秋風に揺れていた。落ち葉が、二人の足元をかすめて飛んでいった。
十二歳の冬、父に呼ばれた。
書斎に入ると、父が珍しく少し改まった顔をしていた。
「座れ」
促されて椅子に座った。父はしばらくゆうを見ていた。
「ユウ、一つ聞く」
「はい」
「お前は、この先どういう人間になりたいと思っているか」
ゆうは少し驚いた。こういう問いを父から受けるのは初めてだった。
どう答えるか、少し考えた。正直に答えていい、と思った。
「目の前にいる人が、少しでも楽になれる場所を作りたいと思っています。大げさな話ではなく——この領地に生きている人たちが、暮らしやすくなること。そのために動ける人間でいたい」
父は何も言わなかった。
「それから」
ゆうは続けた。
「大切な人を、ちゃんと守れる人間になりたい」
父はしばらくゆうを見ていた。それから、静かに言った。
「そうか」
それだけだった。
でも父の目が、少し和らいでいた。追及でも、試験でもなく——ただ、息子の言葉を受け取った、という顔だった。
「お前は、お前のやり方でやれ」
「……はい」
「ただし、困ったときは言え。親だからな」
ゆうは少しの間、父を見た。
五十年間生きてきて、親にこういうことを言われた記憶がない。前世の父は、ゆうが五歳のときに亡くなった。だから「親だからな」という言葉を、大人になってから受け取ったことがなかった。
「……はい」
もう一度、答えた。今度は声が少し違ったかもしれない。
父は何も言わなかった。ただ、静かにうなずいた。
その夜、ゆうは魔力の修練をしながら、十二年間を振り返った。
転生してから、ここまで来た。赤子の体で魔力を探した日から、言葉を覚えた日から、初めてリリスと目が合った日から、道路を直して橋を架けて、商会を立ち上げて——全部が、一本の線でつながっている気がした。
(もうすぐ、一つ変わる)
魔力の糸は、今では太い束になっていた。十二年間、一日も欠かさず積み上げてきたものが、確かにそこにあった。
窓の外で、冬の星が瞬いていた。
静かな夜だった。




