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第六話「銀髪の令嬢と、五十年ぶりの動揺」

第六話「銀髪の令嬢と、五十年ぶりの動揺」


 エレノアが社交界に戻ってから、屋敷への来客が増えた。


 それだけでなく、逆に招待される機会も増えた。エレノアに宛てた招待状が、週に何通か届くようになった。父への仕事の相談も増え、ヴァルロード家の名前が、以前より重みを持って聞かれるようになっていた。


 そういう流れの中で、ある日エレノアがゆうに言った。


 「今度、クレシェンテ公爵家の茶会に呼ばれているの。ユウも一緒に来てくれる?」


 「クレシェンテ、公爵家」


 「ええ。公爵夫人がとても素敵な方で、子ども連れでどうぞ、とおっしゃってくださったの」


 (公爵家、か)


 ゆうは少し考えた。伯爵家の上は侯爵、その上が公爵だ。王家に次ぐ最高位の家格。社交の場に子どもを連れていくというのは、この世界では「後継ぎを周囲に見せる」という意味合いも持つ。エレノアが呼ばれた上にゆうも、というのは、ヴァルロード家への関心が確かに高まっているということだ。


 「行きます」


 「よかった。ちゃんとした服を用意しましょうね」


 エレノアが嬉しそうに言った。ゆうはうなずきながら、内心で少し身構えた。


 公爵家の茶会。貴族の社交の場に初めて出る。どういう振る舞いが求められるか、どういう人間が集まるか。準備は必要だ。


 (まあ、やることは一つだ)


 礼儀を守る。余計なことを言わない。観察する。それだけだ。



 茶会の当日、ゆうは生まれて初めて、きちんとした貴族の服を着た。


 仕立てのいい上着に、白いシャツ。靴も磨かれている。マリアが朝から丁寧に整えてくれた。髪も撫でつけられていて、どこからどう見ても「伯爵家の坊ちゃん」だ。


 鏡の前で確認しながら、ゆうは少し複雑な気持ちになった。


 (五十五年生きて、こういう格好をする日が来るとは)


 前世では一度もなかった。スーツはあった。でも、こういう貴族的な装いは別物だ。袖の長さとボタンの位置が、普段の服と全然違う。


 「ユウ様、とてもよくお似合いです」


 マリアが言った。声が少し弾んでいた。


 「……ありがとう」


 ゆうは素直に礼を言った。マリアが嬉しそうにしているのを見ると、まあいいか、という気持ちになった。



 クレシェンテ公爵家の屋敷は、ヴァルロード家とは格が違った。


 門をくぐった瞬間から、空気が違う。建物の規模も、庭の手入れも、使用人の数も、全部が一段上だった。前世でいえば、中堅企業の社員が大企業の本社を訪ねるような、そういう感覚だ。


 (ここが公爵家、か)


 ゆうは観察しながら歩いた。構造を覚えておく。どこに何がある。使用人の配置。来客の動線。癖のようなものだった。


 応接間に通されると、すでに何人かの貴婦人たちが集まっていた。エレノアは慣れた様子で挨拶を始めた。ゆうはエレノアの少し後ろに立って、丁寧にお辞儀をした。


 「まあ、可愛らしいお子様ね」


 「賢そうなお顔ですこと」


 いくつかの声が向いてきた。ゆうは穏やかに笑った。五歳の子どもが見せるべき表情を、大人の感覚で選んだ。愛想よく、でも馴れ馴れしくなく。


 (慣れてきたな、この演技も)


 内心でそんなことを思いながら、ゆうはさりげなく部屋を見回した。


 そのときだった。


 部屋の奥から、女の子が入ってきた。



 年齢は、ゆうと同じくらいに見えた。四歳か、五歳か。


 銀色の髪だった。エレノアの髪とは違う、もう少し淡い、冷たさのある銀色。光の当たり方で、ほんのりと青みを帯びて見えた。瞳は蒼色だった。澄んでいて、深い。凛とした顔立ちで、背筋がまっすぐで、歩き方が静かだった。


 子どもなのに、どこか落ち着いた佇まいがあった。


 傍についていた使用人が「リリスお嬢様」と呼んだ。


 (リリス)


 ゆうはその名前を、頭の中で繰り返した。


 なぜかは、わからなかった。ただ、その名前が頭の中に落ちた感覚があった。


 リリスはまっすぐ歩いてきた。エレノアの前で丁寧にお辞儀をした。


 「ヴァルロード伯爵夫人、ようこそいらっしゃいました」


 五歳とは思えない、整った挨拶だった。声が落ち着いていて、視線が定まっていた。エレノアが「まあ、お上手ね」と嬉しそうに言った。


 それからリリスの視線が、ゆうに移った。


 ゆうは、その目と合った。


 (あ)


 何かが、少しだけ狂った気がした。


 うまく言葉にできない。心拍数が上がったわけでも、頭が真っ白になったわけでもない。ただ——いつも通りに動いていた何かが、一瞬だけ、そうではなくなった。


 リリスはゆうを見て、少し首を傾けた。


 「あなたも、ヴァルロードの方?」


 「……そうです。ユウ・フォン・ヴァルロードといいます」


 「リリス・エルヴィン・フォン・クレシェンテです」


 淀みのない自己紹介だった。また、丁寧にお辞儀をした。ゆうも返した。


 「よろしく」


 リリスはゆうを少し見てから、「よろしくお願いします」と言った。それだけだった。挨拶が終わると、リリスは母親らしい女性の傍に戻っていった。


 ゆうは、その背中を見ていた。


 (……なんだろう、これは)



 茶会の間中、ゆうは何度かリリスを見た。


 見ようとして見たわけではない。気がついたら、視線がそちらに向いていた。


 リリスは母親の傍で大人しくしていた。話しかけられると丁寧に答えて、聞かれていないときは静かにしていた。子どもにしては落ち着いていて、でも子どもらしい仕草もあった。カップを両手で持つときの、少し慎重な感じ。窓の外の庭を、ちらりと見る瞳。


 (どうしたんだろう、俺は)


 ゆうは内心で自分に問いかけた。


 五十年間生きてきた。恋愛と呼べるものが、なかったわけではない。二十代のころに一度、好きだと思った人がいた。でも仕事に追われるうちに、いつの間にか終わっていた。それ以降は、そういう気持ちになる余裕もなかった。


 では今これは何かといえば——


 (わからない)


 ただ、目が向く。それだけは確かだった。


 理由を説明しろと言われても、できない。銀色の髪が綺麗だから、というのもあるかもしれない。でもそれだけではない気がする。あの凛とした佇まい。子どもなのに落ち着いた視線。整った言葉遣いの中に、少しだけ、不器用な何かが見えた気がして——


 (待て)


 ゆうは少し自分を止めた。


 相手は四歳か五歳だ。自分も見た目は五歳だが、中身は五十五年分だ。それでいて、四歳五歳の子どもに動揺するというのは、どういうことなのか。


 (いや、これは……)


 動揺、というのとも違う気がした。ただ、気になる。それだけだ。


 五十年間、誰かをこんなふうに「気になる」と思ったことが、なかった気がする。それが少し、意外だった。



 帰り際、庭を通るときにリリスがいた。


 花壇の前に立って、何かを見ていた。一人だった。傍についていた使用人が少し離れたところにいて、リリスは一人で花を見ていた。


 ゆうは少し立ち止まった。


 リリスがゆうに気づいて振り返った。


 少しの間、二人で見合った。


 「帰るの?」


 リリスが言った。


 「はい」


 「そう」


 また少し間があった。リリスは視線を花に戻した。それから、ゆうを見ずに言った。


 「また来る?」


 唐突な問いだった。ゆうは少し驚いた。


 「……機会があれば」


 「そう」


 それだけだった。


 リリスはまた花を見始めた。ゆうは、その横顔をしばらく見ていた。


 何を考えているのかわからない。何を聞きたかったのかもわからない。「また来る?」という問いが、どういう気持ちから出たのかも、わからない。


 でも、その問いを聞いたとき、ゆうの中に「また来たい」という気持ちが生まれたのは、確かだった。


 「失礼します」


 ゆうは静かに言って、その場を離れた。


 リリスは何も言わなかった。



 帰りの馬車の中で、エレノアが機嫌よく話していた。公爵夫人との話が楽しかったこと、また招待されたこと、ヴァルロード家への関心がさらに高まりそうなこと。


 ゆうは相槌を打ちながら、窓の外を見ていた。


 頭の中に、銀色の髪が残っていた。


 (変だな)


 ゆうは思った。五十年間、これほど誰かの印象が残ったことがあっただろうか。あったかもしれない。でもこれほど鮮明に、というのは記憶にない。


 転生して五年。この世界に馴染んで、この家を好きになって、少しずつ何かを積み上げてきた。でも今日初めて、この世界に「また会いたい人」ができた気がした。


 (会いたい、か)


 その言葉が頭に浮かんで、ゆうは少し驚いた。


 自分でも思っていなかった言葉だった。でも浮かんでしまったものは仕方ない。


 窓の外を、景色が流れていった。空が夕暮れに染まっていた。茜色の中に、少しだけ青が残っていた。


 (……また来る、か)


 リリスの問いを、ゆうは頭の中で繰り返した。


 答えは、もう決まっていた気がした。



 その夜、ゆうは魔力の修練をしながら、珍しく別のことを考えていた。


 リリスの顔が、頭から離れなかった。


 (困ったな)


 本当にそう思った。


 五十年間、仕事だけを考えて生きてきた。感情を後回しにすることが習慣になっていた。誰かに動揺するということが、ここ何十年もなかった。それがなぜ今日、初めて会ったばかりの子どもに、こういう気持ちになっているのか。


 (でも、まあ)


 ゆうはゆっくりと考えた。


 おかしなことではないかもしれない。転生して五年。体は五歳でも、魂は五十五年分だ。でも今この世界で生きているのは、紛れもなくユウ・フォン・ヴァルロードとしての自分だ。この世界で誰かを好きになることが、おかしいわけがない。


 ただ——


 (相手は公爵家の令嬢だ)


 家格の差がある。伯爵家と公爵家では、二段違う。貴族社会において、その差は小さくない。今のヴァルロード家がどれほど格を上げたとしても、公爵家との釣り合いをどう取るか、それは簡単な話ではない。


 それを、ゆうは知っている。


 (でも、だから諦める、ということにはならない)


 前世では、いつも諦めることを先に考えていた気がする。無理だから、難しいから、時間がないから。そうやって、いろんなものを後回しにして、最後は過労死した。


 今回は違う。


 諦める前に、まず積み上げる。どうすれば届くか、何が足りないか、何から始めるか。それを考えてから動く。それがゆうのやり方だ。


 (まだ五歳だ。時間はある)


 焦る必要はない。ただ、方向だけは今日決まった気がした。


 リリス・エルヴィン・フォン・クレシェンテ。


 銀色の髪と、蒼い瞳と、「また来る?」という問い。


 ゆうはその記憶を、丁寧に頭の中にしまった。なくさないように。


 眠気が来た。いつもより、少し時間がかかった気がした。


 窓の外に、月が出ていた。今夜は青みがかった、澄んだ月だった。

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