第五話「月光の花、咲く」
第五話「月光の花、咲く」
パーティの当日、エレノアが出かける前にユウの部屋に来た。
「見ていてくれる?」
そう言って、扉のところに立った。
ユウは少しの間、エレノアを見た。
銀色の髪が、丁寧に整えられていた。光の当たり方で白く輝く。肌の色が落ち着いていて、疲れた感じがない。ドレスは深い青で、髪の色と合っていた。立ち姿がまっすぐで、手の位置が自然で、視線に迷いがない。
「きれいです」
ゆうは答えた。世辞ではない。これは事実だ。
「緊張しているかしら、見える?」
「見えません」
エレノアは少し笑った。
「本当は少しだけしているの。長いこと外に出ていなかったから」
「でも、行くと決めたんですよね」
「ええ」
「なら大丈夫です」
エレノアはユウをしばらく見ていた。それから「ありがとう」と言って、廊下に向かった。
マリアが後に続いた。扉の向こうに二人の足音が遠ざかっていった。
ユウは部屋に残ったまま、その音を聞いていた。
(あとは、お母様次第だ)
自分にできることは、全部やった。あとはエレノアが、自分の力で歩く番だ。
エレノアが帰ってきたのは、夜も深くなったころだった。
ユウはすでに自室にいたが、眠ってはいなかった。魔力の修練をしながら、ただ待っていた。
廊下に足音が聞こえた。マリアの足音と、エレノアの足音。それから、もう一人——父のオルグレインの足音も混じっていた。父が出迎えに出たらしい。
しばらくして、扉が軽く叩かれた。
「ユウ、起きている?」
エレノアの声だった。
「起きています」
扉が開いた。エレノアが入ってきた。ドレスはそのままで、髪も乱れていない。表情は——どこか、すっきりした顔だった。
「どうでしたか」
エレノアは椅子に座った。少しの間、何かを整理しているような顔をしていた。それから静かに話し始めた。
会場に入ったとき、最初は静かだったらしい。
エレノアが長いこと社交界から遠ざかっていたことは、出席者の多くが知っていた。久しぶりに顔を見せた「ヴァルロード伯爵夫人」に、最初は値踏みするような視線が集まった。「月光の花」と呼ばれた過去を知る者は、今のエレノアをどう見るか確かめようとしていた。
「最初の一時間は、少し居心地が悪かったわ」
エレノアは正直に言った。
「久しぶりすぎて、どこに立てばいいか、誰に声をかければいいか、少しわからなくなって」
「でも動いた」
「ええ。昔からお世話になっている方が何人かいらしていたから、まずその方たちのところへ」
年配の貴婦人たちだった。エレノアが若いころから親しくしていた方たちで、今もマリアンナ侯爵夫人の振る舞いに複雑な思いを抱いている方たちだ。
「みなさん、すごく喜んでくださって」
エレノアの声が、少し柔らかくなった。
「『戻ってきたのね』って言ってくださった方がいて。その言葉だけで、緊張がほとんどなくなってしまった」
ゆうは何も言わなかった。続きがある、と感じたから。
マリアンナ侯爵夫人と話したのは、パーティも中盤を過ぎたころだったらしい。
向こうから近づいてきた。笑顔で、丁寧な言葉遣いで。確かに美しかった、とエレノアは言った。華があって、場の中心にいることに慣れている、そういう佇まいだった。
「でも、近くで見ると、わかることがある」
エレノアは静かに言った。
「笑顔の中に、品定めがあった。どう話せばいいか考えながら、相手が自分より上か下かを測っている。そういう目だった」
「それで、どう話しましたか」
「普通に話したわ。特別なことは何もしていない。その場にいた年配の方への挨拶を丁寧に、相手の話をちゃんと聞いて、返す言葉を選んで」
「普通に、ということが難しいこともある」
「そうね。でも——それが『月光の花』と呼ばれた理由なのだと、今日初めてちゃんとわかった気がした」
エレノアは少しの間、窓の外を見た。
「美しいだけでは、人の記憶には残らない。その場にいる全員を、等しく大切に思う気持ちが伝わるから、残るんだと思う。マリアンナ夫人に足りないのは、たぶんそこだわ」
ゆうは、その言葉を聞きながら思った。
(お母様は、ちゃんとわかっている)
勝ちたいから行ったのではなく、ちゃんとした姿を見せたいから行った。その通りのことが、今日起きたのだ。
「マリアンナ夫人の反応は」
「わからない、というのが正直なところね」エレノアは少し苦笑した。「笑顔のまま話して、笑顔のまま離れていったから。内心で何を思っていたかは、わからない」
「でも、周りの方たちは見ていた」
「ええ。それは感じた」
その夜のことが、屋敷に戻ってしばらくしてから、少しずつ広まり始めた。
パーティに出席していた複数の貴婦人たちが、それぞれの知人に話した。「ヴァルロード伯爵夫人が戻ってきた」「月光の花は、少しも衰えていなかった」「あの場での立ち振る舞いは、今の社交界の誰とも違う」——そういう言葉が、あちこちに届き始めた。
ゆうがそれを知ったのは、エレノアから直接ではなく、屋敷の使用人たちの話からだった。
数日後、父のオルグレインが夕食の席で言った。
「エレノア、パーティの後から、何通か手紙が来ているな」
「ええ、少し」
「少し、じゃないと思うが」
父は珍しく、少し笑っていた。エレノアも笑った。
「三十通ほどかしら」
「……三十通か」
「久しぶりに顔を出したから、みなさん驚いてくださったみたいで」
父はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「よかった」
短い言葉だったが、父らしい言葉だった。
ゆうはその夕食の席で、何も言わなかった。ただ、夕食を食べながら、その会話を聞いていた。
(動き出したな)
三十通の手紙は、単なる挨拶ではない。ヴァルロード家への注目が、一気に変わり始めた証拠だ。エレノアが社交界に戻ったことで、この家の周囲の空気が変わる。父が仕事をしやすくなる。ヴァルロード家の名前が、また重みを持ち始める。
地道な積み上げが、一つの形になった。
その後の数週間で、屋敷の様子が変わってきた。
来客が増えた。エレノアを訪ねてくる貴婦人たちが、週に何人かやってくるようになった。父への仕事の相談や共同の申し出も、少し増えたと使用人たちが話していた。
エレノアが応接間で来客と話している声が、廊下から聞こえることがあった。笑い声が混じっていた。落ち着いた、でも弾んだ声だった。
ゆうはその声を廊下で聞きながら、少し立ち止まった。
(いい声だ)
くすんでいると言っていた頃の、鏡の前の横顔とは違う。それだけのことが、なんとなくうれしかった。
ある日、エレノアがゆうに言った。
「ユウが作ってくれたもの、来客の方に少し聞かれるの。何を使っているのか、って」
「そうですか」
「正直に答えているのだけれど、みなさんすごく興味を持ってくださって。分けてもらえないか、と言う方も出てきて」
ゆうは少し考えた。
(来るとは思っていた)
「どう答えていますか」
「まだ差し上げられるだけのものがない、とお断りしているの。でも、ユウに聞いてみる、と言った方が何人か」
「少し時間をください」
「急がなくていいのよ、ユウ。無理はしないで」
「無理ではないです。ただ、手順を考えてから動きたい」
エレノアは少し首を傾けた。
「手順?」
「誰にでも同じものを渡すのか、特別な方には別のものを用意するのか。どういう形で渡すのか。少し整理してから動いた方がいいと思います」
エレノアはしばらくゆうを見ていた。五歳の子どもが「手順を整理してから動く」と言っている。その顔が、少し不思議そうだった。
「……ユウって、本当に不思議な子ね」
「そうですか」
「いい意味よ」
また同じやり取りだった。ゆうは内心でまた少し笑った。
その夜、ゆうは魔力の修練をしながら、ここまでの流れを整理した。
シャンプーとリンスを作ったこと。マリアで確認して、エレノアに渡したこと。基礎化粧品を渡したこと。パーティがあって、エレノアが自分の力で場を作ってきたこと。手紙が三十通来たこと。来客が増えたこと。今度は外の貴婦人たちから声がかかり始めたこと。
一つ一つは小さい。でも繋がれば、流れになる。
(次は、どう動くか)
全員に同じものを渡す、という方向は違う気がした。希少性がなければ、価値は下がる。エレノアが使っているものが特別だから、価値がある。それを崩してはいけない。
一般向けに渡すものと、特別な方にだけ渡すもの——二つのラインを作る。前世でそういう商品設計の話を、どこかで読んだことがあった。高級品のブランドは、安易に広めないから価値を保てる。
(まずは一般向けのものを整理して、特別なものは別に置く)
方針は決まった。
実行するのは、もう少し先でいい。今はまだ、エレノアの動きがどこまで広がるかを見ていた方がいい。急いで動くより、流れを読んでから動く方が、結果として大きくなる。
前世でも、そうしてきた。
魔力の糸は、さらに太くなっていた。毎日続けてきた修練が、確実に積み重なっている。この世界に来て何年も経ったが、誰にも気づかれないまま、ゆうの内側では何かが着実に育ち続けていた。
眠気が来た。逆らわずに目を閉じた。
今夜は、すっきりと眠れる気がした。




