第四話「月光の花、咲く準備」
第四話「月光の花、咲く準備」
変化は、少しずつ現れた。
エレノアがゆうの作ったものを使い始めて、一週間が経ったころのことだ。朝の光の中でエレノアの髪を見て、ゆうは内心で「いいな」と思った。銀色の艶が、はっきり違う。光の当たり方によっては白く輝く。「月光の花」という呼び名が、今なら少しわかる気がした。
エレノア自身も気づいていた。
鏡の前でつぶやく「くすんできたかしら」という言葉が、ここ数日、聞こえなくなっていた。代わりに、鏡の前に座る時間が少し長くなった気がする。くすんでいるから気になるのではなく、輝いているから確かめたい——そういう顔に見えた。
(いい傾向だ)
ゆうは何も言わなかった。ただ、観察を続けた。
マリアの変化に、屋敷の中で少しずつ気づく人が出てきた。
「マリアさん、最近きれいになりましたね」と、年若い使用人が廊下で言っているのをゆうは耳にした。数日後、年配の女性使用人がゆうに声をかけてきた。
「ユウ様、マリアが使っておられるもの、もしよろしければ私どもにも分けていただけないでしょうか」
「少し待ってください。まとめて作ります」
一度に量を作るとなると、手順を見直す必要があった。ゆうは数日かけて工程を組み直した。素材を先にまとめて処理して、配合の段階で分けていく方式にすれば、一人でもある程度の量が作れる。
一週間後、使用人たちに渡せるだけのものが揃った。「ありがとうございます」という声が重なった。ゆうは「試してみてください」とだけ言って、その場を離れた。
それから一ヶ月ほど経ったある日、父のオルグレインが夕食の席で言った。
「エレノア、最近顔色がいいな」
さりげない一言だったが、オルグレインが妻の外見に言及するのは珍しかった。エレノアは少し目を丸くした。
「そう?」
「うん。なんか違う気がして」
父は特に深く追及するわけでもなく、また料理に視線を戻した。ただそれだけのやり取りだったが、エレノアの顔がほんの少し和らいだのを、ゆうは見ていた。
夕食の後、エレノアがゆうの部屋に来た。
「今日のお父様の言葉、聞いていた?」
「はい」
「ユウのおかげね」
「お父様が気づいたのは、お母様が変わったからです」
「でも、変えてくれたのはユウでしょう」
「二人で変えたんだと思います」
エレノアはまた笑って、「ふふ、そうね」と言った。機嫌のいい笑い方だった。
招待状が届いたのは、そのさらに数週間後だった。
夕方、エレノアの部屋の前を通りかかると、扉が少し開いていた。中から声が聞こえた。エレノアが、誰かと話しているわけではない。一人で何かを読んでいる。
ゆうが扉の隙間から見ると、エレノアは手紙を持ったまま、珍しく硬い顔をしていた。
(何かあったか)
ゆうは軽く扉を叩いた。
「おかあさま、入ってもいいですか」
「……ええ、どうぞ」
入ると、エレノアは手紙をそっとたたんだ。ゆうを見て、少し表情をやわらげた。
「何か、ありましたか」
エレノアはしばらくゆうを見ていた。それから、小さく息をついた。
「招待状が来たの。マリアンナ侯爵夫人から」
「……マリアンナ、侯爵夫人」
「今の社交界で、一番顔の広い方よ。あちこちのパーティを仕切って、誰と誰が親しいかを全部把握している、という方。美しい方でもあるし、確かに存在感はある」
言葉は丁寧だったが、声の奥に何かが滲んでいた。
「でも……?」
エレノアは少し苦笑した。
「勘がいいわね、ユウは。そう、でも——というのがあって」
エレノアは窓の外を見た。
「少し前にね、私の昔からの知り合いから手紙が来たの。社交の場でマリアンナ夫人が振る舞っている様子を書いてくれた手紙だったんだけれど。美しくて話題の中心にいるのはいいのだけれど、年配の方への礼を欠くことがあるらしくて。場の空気を読まずに自分の話を続けたり、目上の方に対しても少し見下したような言い方をしたり」
「それで、年配の方たちの評判がよくない」
「ええ。そしてその中で、何度か私の名前が出たらしいの」
ゆうは少し待った。続きがある、と感じたから。
「『月光の花と呼ばれたエレノア様は、美しいだけでなく、誰に対しても等しく礼を尽くす方だった』と、年配の方たちが言っていたと。マリアンナ夫人のそういう振る舞いを見るたびに、比べてしまう、と」
エレノアの声が、少し揺れた。
「……長いこと社交界を離れていたのに、まだそういうふうに思ってくださっている方がいるんだと思ったら」
言葉が途切れた。
(なるほど、か)
ゆうは静かに状況を整理した。年配の貴婦人たちがマリアンナ夫人の振る舞いを見るたびに「月光の花」を引き合いに出す——それがマリアンナ夫人の耳にも入っていないはずがない。
「その話が、マリアンナ夫人にも届いている」
「そういうことね」エレノアは淡々と言った。「招待状は丁寧な文面だったけれど、言ってみれば——私がどういうものか、確かめたいのだと思う」
「『月光の花』が本当に自分より上なのかどうか」
「……そういうことでしょうね」
沈黙があった。
ゆうは、エレノアの横顔を見た。硬い、というより——何かを決めようとしている顔だ、と思った。
「行くつもりですか」
エレノアはゆうを見た。少しの間、何かを考えるような目だった。
それから、静かに、しかしはっきりと言った。
「行くわ」
「……理由を聞いてもいいですか」
「悔しいから」
エレノアは少し笑った。でも、その笑い方は、いつもの穏やかなものとは少し違った。
「長いこと家に引きこもって、くすんでいた私が言えることではないかもしれない。でも——年配の方たちが、今でも私のことを覚えていてくださっているなら。その方たちの前で、ちゃんとした姿を見せたい」
「マリアンナ夫人に勝ちたい、ということではなく」
「それもある」エレノアはあっさり認めた。「正直に言えば、それもある。でもそれ以上に——あの方たちの記憶の中にある『月光の花』を、恥ずかしくないものにしたい」
ゆうは何も言わなかった。
言う必要がないと思った。
その夜、ゆうは自室に戻ってから、少しだけ考えた。
(タイミングがよかった)
エレノアが社交界に戻る動機は、ゆうが作ったものではない。年配の貴婦人たちの言葉があって、マリアンナ夫人という存在があって、そこに招待状が来た。ゆうはただ、エレノアが「行ける」と思えるだけの準備を、少し整えたに過ぎない。
鏡を見るのが嫌じゃなくなったから、外に出る気持ちになれた。そのくらいのことだ。
でも、そのくらいのことが、きっかけになることがある。
(まあ、結果として形になったな)
ゆうはそれで十分だと思った。
翌朝、ゆうはエレノアの部屋を訪ねた。
手に、小さな壺をいくつか持っていた。昨夜のエレノアの話を聞きながら、ゆうはすでに決めていたことがあった。
「おかあさま、これを」
「……また?」
エレノアが少し目を丸くした。ゆうは壺を並べて置いた。
「顔と手に使うものです。洗い流さないタイプが二種類と、朝と夜で使い分けるものを一種類ずつ。自分で先に試して、マリアにも使ってもらって、問題ないことを確かめました」
エレノアはしばらく、並んだ壺を見ていた。
「……パーティに向けて、作っていたの?」
「招待状が来る前から作っていました。ちょうどよかった、というだけです」
それは本当のことだった。肌用のものは、シャンプーとリンスの効果を見届けた後から、少しずつ開発を続けていた。エレノアの肌質を観察しながら、自分とマリアで順番に試して、一週間ずつ様子を見た。問題がないことを確かめてから、渡すタイミングを計っていた。
タイミングは、今日がいい、とゆうは思った。
社交界へ出る、と決めた翌朝に渡す。それが、気持ちの後押しになる気がした。
「使い方は?」
「朝はこの二つを順番に。夜はこちらを。量は少しでいいです」
エレノアは一つずつ手に取って、蓋を開けた。匂いをかいで、また閉じる。それを繰り返した。
「ユウ」
「はい」
「ありがとう」
今度の「ありがとう」は、これまでと少し違った。戸惑いもなく、遠慮もなく——ただ、真っ直ぐだった。
ゆうはそれを受け取って、「使ってみてください」とだけ言った。
翌日、マリアが珍しく自分から話しかけてきた。
「ユウ様、エレノア様がパーティにご出席されると聞きました」
「うん」
「……何か、私にできることはありますか」
ゆうは少し考えた。
「今のところは、お母様が安心して出かけられるよう、準備を手伝うことだ。あとは、戻ってきたときに、ちゃんと迎えること」
マリアは少し考えるような顔をした。それから「……かしこまりました」と言った。
「マリア」
「はい」
「お母様は、勝ちに行くわけじゃない。ちゃんとした姿を見せに行く、ということだ。それは違うから、覚えておいてくれ」
マリアはゆうを見た。何かを受け取ったような顔で、静かにうなずいた。
準備が進む中、エレノアが鏡の前に座っている時間が増えた。でも今度は、憂鬱な顔ではなかった。
ある夕方、ゆうが部屋を訪ねると、エレノアが鏡越しにゆうを見た。
「どう?」
銀色の髪が、よく整っている。艶がある。光の当たり方で白く輝く。
「きれいだと思います」
「本当に?」
「はい。正直に言っています」
エレノアはもう一度鏡を見た。それから、静かに言った。
「昔の自分に、少し近くなった気がする」
「昔より、よくなっていると思います」
エレノアが振り返った。少し驚いた顔だった。
「どうして」
「昔の自分がどういうものかを知って、それでも外に出ようと決めた人の顔は、昔より強いと思うので」
エレノアはしばらくゆうを見ていた。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「ユウって、本当に不思議な子ね」
「そうですか」
「いい意味よ」
三度目になっていた。ゆうは内心で少し笑った。
窓から夕方の光が差し込んでいた。エレノアの銀色の髪が、その光を受けてやわらかく輝いていた。
月光の花は、もう咲く準備ができていた。




