第三話「栗色の髪の少女と、月光の花の復活」
第三話「栗色の髪の少女と、月光の花の復活」
三歳になってすぐのころ、ゆうは父の書斎に忍び込んだ。
忍び込んだというと聞こえが悪いが、要するに許可をもらって入ったのだ。父が領地の視察に出ていた日、エレノアに「書斎の本を読んでいいですか」と聞いたら「好きにしていいわよ」と言われた。それだけだ。
棚に並んでいる本の背表紙を、一冊ずつ確かめていった。
歴史書、農業書、法令集、地誌、貴族の礼法、商業取引の手引き。ヴァルロード伯爵家の当主が読んできた本の種類が、そのままそこに並んでいた。
(まあ、読んでおいて損はないな)
ゆうは一冊ずつ取り出して、目を通し始めた。三歳の子どもが領地経営の手引きを読んでいる光景は、誰かに見られたらたいそう奇妙だろうと思いながら。表向きは「絵が好きで眺めている」というていにしておいた。挿絵の多いページを開いたまま置いておけば、絵本と大差ない。
(適度に「子どもらしく」していないといけないな)
それもまた、五十年生きた魂が持つ処世術だった。
四歳になるころには、言葉はほぼ完全に使えるようになっていた。
困ったのは、知識と外見のギャップだった。四歳の子どもが話せる内容には、周囲が「ほほう」と感心してくれるラインがある。そのラインを少し超えたあたりに、ゆうはいつも着地するようにしていた。ぴったり超えすぎると怪しまれる。大幅に超えると説明を求められる。
前世でもそういう調整はしていた。会議で「発言しすぎると出る杭になる」ことを学んだのは、三十代のころだ。
(転生しても、このあたりの苦労は変わらないか)
ゆうは少しだけ苦笑した。内心だけで。
もう一つ、ゆうがこの世界で気に入っていることがあった。
風呂だ。
ヴァルロード家には、石造りの浴室があった。湯を張って体を温める習慣が、この家にはある。前世のゆうは仕事で疲れ果てて帰る日々が続き、湯船につかる余裕もなくシャワーで済ませることがほとんどだった。
だからこの世界で初めてゆっくり湯につかったとき、心の底から「ああ、これだ」と思った。
五十年分の疲れが、少しずつほぐれていく気がした。
以来、ゆうの風呂の時間は、屋敷の中でも際立って長かった。使用人たちは最初のうち心配していたが、ゆうが毎回のびのびと出てくるので、やがて「ユウ様は長風呂がお好きなのだ」と認識されるようになった。
(いい文化だ、この世界は)
湯の中で、ゆうはよく考えごとをした。魔力修練もした。一石二鳥とはこのことだ。
そしてある日、湯の中でふと気がついた。
(この髪、なんとかならないか)
前世ではシャンプーとリンスが当たり前だった。洗って汚れを落とすだけでなく、洗い流した後に髪をなめらかに整えるものがあった。でもこの世界には、そういうものがない。湯と石鹸のようなもので洗うだけだ。悪くはないが、洗い上がりの手触りが違う。前世の記憶と比べると、どうしても物足りなかった。
(作れないか)
ゆうは湯の中で、記憶を辿り始めた。
洗い流すもの(シャンプーに当たるもの)と、洗い流した後に使うもの(リンスに当たるもの)——二種類必要だ。素材は何が要る。油は厨房から少し分けてもらえるかもしれない。ハーブなら庭に生えているものがある。酸味のある果汁が使えるものもあったはずだ。
(段取りさえ整えれば、できるかもしれない)
湯の中で、静かに計画が組み上がっていった。
五歳の春になった。
その日、エレノアに呼ばれた。珍しく、いつもより少し改まった顔をしていた。
「ユウ、今日からあなたの専属のメイドが来ます」
「……専属、ですか」
「そう。あなたが大きくなるにつれて、身の回りのお世話も増えてくるでしょう。よろしくしてあげてね」
(専属メイド、か)
まずは会ってみよう、とシンプルな結論に落ち着いた。
その午後、エレノアに連れられて来たのは、小柄な少女だった。
栗色の髪を丁寧に結い上げて、少し大きめのメイド服を着ている。年齢は八歳くらいに見えた。表情は硬かった。
少女はゆうの前でぺこりと頭を下げた。
「マリア・ベルモントと申します。ユウ様のお世話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
よどみのない口上だった。何度も練習してきたのだろう、とゆうは思った。でもその声が、少しだけ震えていた。
(緊張しているんだな)
八歳の少女が、五歳の子どもの専属メイドとして来ている。ベルモント男爵家の出だとエレノアから聞いていた。家は裕福ではないらしい。八歳で見知らぬ屋敷に来るのは、怖いことだろうと思った。
ゆうは、できるだけ穏やかな顔で言った。
「マリア。よろしく」
「は、はい! よろしくお願いいたします!」
返事が大きすぎた。マリア自身も気づいたのか、少し顔を赤くした。
ゆうは笑いをこらえた。内心だけで。
(かわいいな)
五歳の体と五十五年分の魂の複合体が、八歳の少女を見て「かわいいな」と思うのは、やや複雑な気持ちになる構図だった。でも純粋に、不器用に一生懸命な人間を見るときの、温かい感情だった。
マリアが来て少し経ったころ、ゆうは製作に本格的に取りかかった。
素材の調達は全部自分でやった。庭師に「あの草の名前は何ですか」と聞きながら必要なものを把握して、厨房の使用人に「少し分けてもらえますか、風呂に使いたくて」と頼んだ。子どもが興味を持っている、という顔で話せば、たいていは快く分けてくれた。
(五歳の見た目は、案外便利だな)
素材が揃ってからは、自室で一人で作業した。二種類、同時に開発を進めた。洗い流すためのもの(シャンプーに当たるもの)と、洗い流した後に使うもの(リンスに当たるもの)だ。片方だけでは意味がない。セットで完成させる必要がある。
配合を変えながら何度も試した。シャンプーの方は三度目でまずまずのものができたが、リンスの方が難しかった。配合の加減で、べたつきが出たり、逆に効果が薄すぎたりした。結局リンスが納得できる仕上がりになるまで、さらに一週間かかった。
まず自分で使ってみた。
風呂の日、いつも通り湯を張って、まずシャンプーを試した。洗い流すと、石鹸とは違うなめらかさがあった。続けてリンスをつけて、しばらく置いてから流す。乾かすと、髪がするりとまとまった。前世のシャンプーとリンスの記憶に、ずっと近い手触りだ。
(よし)
内心でガッツポーズした。表情には出さなかった。品を保つのも修練のうちだ。
数日使い続けて、効果が安定していることを確かめた。これなら人に渡せる、と判断してから、ゆうは初めてマリアに声をかけた。
「マリア、これを使ってみてくれないか」
小さな陶器の壺を二つ差し出した。マリアは少し驚いた顔をした。
「……これは、何でございますか」
「髪を洗うときに使うものだ。二種類ある。最初にこっちを使って、流してから次にこっちを使う。試してほしい」
マリアはしばらく二つの壺を見比べていた。それから、「……かしこまりました」と受け取った。
二週間ほどが経った。
ある朝、廊下でエレノアとマリアがすれ違った。ゆうはその少し後ろを歩いていた。
エレノアが、ふと立ち止まった。
「マリア、ちょっといいかしら」
「は、はい。なんでございましょう」
マリアが緊張した声で答えた。エレノアはマリアの髪を、まじまじと見ていた。
「その髪……最近、何か変えた? いつもよりつやつやしているわ。栗色がきれいに出ている気がして」
エレノアの声は責めているわけではなかった。純粋に、不思議そうだった。
マリアはちらりとゆうの方を見た。ゆうは小さくうなずいた。話していい、という意味で。
「……ユウ様が作ってくださったものを、使わせていただいております」
「ユウが?」
エレノアの視線がゆうに移った。ゆうは歩み出た。
「髪を洗うものと、洗った後に使うものです。二種類セットで。自分で作って、自分で試してから、マリアにも」
エレノアはしばらく、黙ってゆうを見ていた。それからマリアの髪にそっと手を伸ばした。触れて、また離す。
「……柔らかいわ」
静かな声だった。
「私にも使わせてもらえる?」
ゆうは少し間を置いた。
「今あるのはマリア用に作ったものです。お母様用は、別に作ります」
エレノアが、少し目を丸くした。
「別に、って?」
「銀色の髪には、栗色とは合う素材が違うと思うので。少し時間をください」
エレノアはしばらくゆうを見ていた。何か言おうとして、でも言葉を選んでいるような顔だった。
「……そう、わかったわ」
その声が、普段より少し柔らかかった気がした。
エレノア用は、一から作り直した。
同じ構成でいい。シャンプーとリンスの二種類。でも配合は全部変える。銀色の髪に合う素材を選んで、光沢が出るよう、艶が戻るよう、それぞれ調整する。
一週間かけて仕上げた。
できあがったとき、ゆうは小さな壺を二つ手に持って、少しだけ考えた。
どう渡すか。
単純に「どうぞ」と渡してもいいが、それだけでは伝わらないことがある。エレノアが鏡の前で「くすんできたかしら」とつぶやいていた横顔を、ゆうは覚えていた。あの声には、少し寂しさが混じっていた。
(ちゃんと、届けたい)
夕方、エレノアの部屋の扉を叩いた。
「おかあさま、少しよろしいですか」
「ええ、どうぞ」
入ると、エレノアが椅子に座って本を読んでいた。ゆうが近づくと、本を置いて顔を向けた。
ゆうは壺を二つ差し出した。
「できました。お母様の髪に合わせて作ったものです。二種類あります。シャンプーとリンス、と前世の……いえ、洗い流すものと、その後に使うものです」
危なかった、とゆうは内心で思った。「前世の」と言いかけてしまった。
エレノアは両手でそっと二つの壺を受け取った。一つずつ、順番に蓋を開けて匂いをかいだ。静かな表情だった。
「ユウ、これはなぜ作ろうと思ったの」
ゆうは少し考えた。
「お母様が鏡の前で、くすんできたかしら、とおっしゃっているのを聞いたことがあって」
エレノアが、わずかに目を見開いた。
「……聞こえていたの」
「はい。ずっと気になっていました」
エレノアはしばらく黙っていた。窓から夕方の光が差し込んで、銀色の髪をかすかに照らしていた。
「ありがとう」
短い言葉だった。でも声が、いつもと少し違った。
翌朝、ゆうがエレノアの部屋の前を通りかかると、扉が開いていた。
中をのぞくと、エレノアが鏡の前に座っていた。
銀色の髪が、昨日より明らかに艶があった。光の加減で、ほんのりと白く輝いている。
「ユウ」
エレノアが気づいて振り返った。
「昨日より、よくなった気がしますか」
ゆうは率直に聞いた。エレノアは少しの間、鏡の中の自分を見た。
「……なった気がする」
「まだ始めたばかりです。もう少し続ければ、もっとよくなると思います」
エレノアはまた少しの間、黙っていた。それからゆうのほうを向いて、ゆっくりと微笑んだ。
「ユウが最初に作ったのは、自分のためだったのね」
「……はい。お風呂で使いたくて」
「それがマリアに渡って、私のところに来た」
「お母様の髪のことが気になっていたのは、本当のことです」
エレノアは何も言わなかった。ただ、手を伸ばして、ゆうの頭をそっと撫でた。銀色の髪が、さらりと揺れた。今日は艶が違う。
(このひとに、輝いていてほしい)
言葉にすると大げさになるから、ゆうは心の中だけで思った。
月光の花の復活まで、まだ時間がかかるだろう。でも今日の一歩は確かに踏み出した。
夜、ゆうはいつものように魔力の修練をしながら、今日のことを思い返した。
自分用に作ったものが、マリアに渡り、エレノアのところへ届いた。作ったのは自分一人だ。でも、形になって誰かに届くまでには、マリアが使ってくれて、エレノアが気づいてくれて、そういう流れが必要だった。
(なんだろうな、この感じ)
前世では、誰かが喜ぶ顔を見たくて動く、という経験があまりなかった。今日のエレノアの「ありがとう」と、マリアの少し赤くなった頬が、ゆうの中に静かに残っていた。
(悪くないな)
素直にそう思った。
窓の外で、月が出ていた。銀色の光が、庭の石畳を静かに照らしていた。




