第二話「言葉と、父と、この世界の手触り」
第二話「言葉と、父と、この世界の手触り」
言葉が出たのは、一歳二ヶ月のことだった。
正確には、一歳になってすぐのころから「あー」とか「うー」は出ていた。でもそれは言葉ではなく、ただの音だ。ゆうが「言葉が出た」と思ったのは、ある朝、エレノアの顔を見て「おか」と言えたときだ。
エレノアは目を丸くした。それからすぐに、目尻に涙を浮かべた。
「ユウ、今、お母さまって言ったの?」
言った。そのつもりで言った。でも「おか」しか出なかった。喉と舌がまだ言うことを聞かない。語彙は頭の中にあるのに、出口が狭すぎる。
(「おかあさま」と言いたかったのだが)
ゆうは内心で少しだけ悔しかった。五十年間、会議で意見を述べてきた人間が、「おか」しか言えないのは、なかなかに情けない。
でも、エレノアはすごく喜んでいた。ゆうを抱き上げて、頬に顔を寄せて、「上手ね、上手ね」と繰り返していた。銀色の髪がさらりとゆうの頬に触れた。温かかった。
(……まあ、よかった)
喜んでもらえたなら、「おか」でも十分だと思うことにした。
言葉の習得は、思ったより早く進んだ。
理由はわかっていた。ゆうには「すでに話す経験がある」という下地があった。五十年分の語彙と、文章を組み立てる感覚と、場の空気を読む経験が、頭の中に全部詰まっている。必要なのはただ一つ、体がそれに追いつくことだけだ。
だから毎日、意識的に練習した。
誰かと話しているとき、相手の言葉をよく聞く。音の並びと意味の対応を確かめる。自分が発音できない音を探す。唇の形、舌の位置、息の使い方——前世では無意識にやっていたことを、ゆうは意識的に一つずつ組み立てていった。
一歳半になるころには、簡単な単語が出るようになっていた。
「おみず」「ほしい」「おなかすいた」「いたい」「みてみて」
使用人たちが「賢いお子様ですね」と言っているのを、ゆうは聞いていた。自分でも思う。ただ、賢いのではなく、五十年分の経験があるというだけなのだが。
(まあ、説明できないからな)
賢い子どもということにしておいて、困ることは何もない。
視界がほぼ完全に開けたのも、一歳の後半に入ってからだ。
世界が、はっきり見えるようになった。
ヴァルロード家の屋敷は、思っていたより立派だった。石造りの建物で、内装はシンプルだが清潔感がある。廊下には絵が飾られていて、中庭には手入れされた庭がある。使用人が十数人はいるらしく、朝から夕まで誰かが動いている。
窓から外を見れば、広い領地が見渡せた。畑があって、村があって、遠くには森が続いている。空は澄んでいて、この世界のどこかにいるのだという実感が、ようやくゆうの中に根を下ろし始めた。
(ここが、俺の世界か)
悪くない、とゆうは思った。
前世のコンクリートとアスファルトの景色も嫌いではなかったが、こういう緑の多い場所も悪くない。空気が違う。匂いが違う。光の色が違う。
ダイナリで確認した限り、このアルヴァニア王国は比較的安定した時代にある。大きな戦争はここ数十年ない。貴族と平民の格差は大きいが、極端な圧政というわけでもない。中堅貴族の生まれというのは、動きやすいポジションだとゆうは思っていた。
公爵家や王家ほど縛りがない。かといって平民ほど不自由でもない。
(いい立ち位置だ)
そういう計算ができるのは、五十年間サラリーマンとして組織の中を泳いできたからかもしれなかった。どこに立てば動きやすいか、どういう立場が後々利いてくるか、ある程度読めるのだ。
一歳七ヶ月のある日、父のオルグレインが部屋に来た。
父が来るのは珍しかった。いつも忙しそうで、夕食を共にする日もあれば、一週間顔を見ない日もある。領地の仕事がそれだけ多いのだろうと、ゆうは思っていた。
その日、父は椅子を引いてゆうの近くに座った。特に何を言うわけでもなく、ただゆうを見ていた。眼差しは穏やかだった。威圧感はない。でも、何かを確かめるような目だった。
ゆうも父を見た。
四十代くらいか。茶色がかった黒髪に、落ち着いた顔立ち。目元がわずかに細く、何かを考えているときの顔をしている人だ、とゆうは思った。
しばらく、無言だった。
それからオルグレインが、静かに言った。
「ユウ。元気か」
「……げんき」
ゆうは答えた。一歳七ヶ月の語彙でできる範囲の返事だ。
父は少し笑った。
「そうか。元気ならいい」
また沈黙になった。でも、嫌な沈黙ではなかった。お互い何かを話そうとしているわけではなく、ただそこにいる、というような時間だった。
(お父さん、か)
ゆうは前世に父がいなかったわけではない。でも、五歳のころに病気で亡くなっていた。記憶はほとんどない。「背が高かった」「あまり話さない人だった」、それくらいだ。
目の前の父は、話す人だろうか。話さない人だろうか。
まだわからなかった。でも、嫌いではないと思った。
二歳になる少し前のある日、ゆうは初めてダイナリを「意図して開いた」。
それまでも手元には置いていた。でもどちらかというと受動的に、必要な知識が自然に届く感じで使っていた。でもその日は違った。
きっかけは、屋敷の外から聞こえてきた声だった。
低い声で、誰かが話している。言葉を聞けば平静に見えるが、微妙に語気が鋭い。窓から見下ろすと、恰幅のいい中年の男が、使用人の一人に何かを言っていた。使用人は頭を下げたまま、何も言えずにいる。服装からして商人らしかった。
(嫌いなタイプだ)
前世でも、ああいう人間はいた。立場の弱い相手には高圧的で、上の人間にはすり寄る。そういう人間が、職場に必ず一人か二人いた。五十年間、何度見ても慣れなかった。
ゆうはダイナリを取り出した。知りたいことを意識した。この世界の商人、貴族領の経済構造、仕入れと取引の力関係。
情報が流れ込んできた。
なるほど。ヴァルロード伯爵家は中堅貴族だが、財政的にはそれほど豊かではないらしい。領地の収入は安定しているが大きくはない。大きな商会との取引では、どうしても足元を見られることがある。あの商人も、その構造をわかった上で高圧的な態度を取っているのだろう。
(まあ……今はどうにもできないが)
ゆうはまだ二歳手前だ。今すぐ何かができるわけがない。でも、知識は知識だ。この家の財政状況、取引先との力関係、改善できそうな点。全部、頭の中に入れておけばいい。いつかそれが使えるときが来る。
(急がなくていい。今は覚えておくだけで十分だ)
日記をそっと閉じた。手のひらに、かすかな温もりが残った。
二歳になった日、エレノアが誕生日を祝ってくれた。
父と母と、数人の使用人が集まって、小さなケーキのようなものを用意してくれた。ろうそくの火を吹き消してほしいと言われた。
ゆうは少し困った。二歳の子どもが吹き消すというのはわかる。でも内心五十二歳の人間が吹き消すのは、どういう気持ちで吹けばいいのかよくわからなかった。
(まあ……せっかくだから、ちゃんと吹くか)
息を吸って、吹いた。火が消えた。
「上手!」とエレノアが笑った。父も目を細めた。
(なんだろう、この気恥ずかしさは)
前世では誕生日を一人で過ごすことが多かった。コンビニでケーキを買って、一人で食べて、明日も仕事だからと早めに寝る。そういう誕生日が、何年も続いた。久しぶりどころか、五十年ぶりかもしれなかった。
(……悪くないな)
ゆうは、そっと思った。
二歳を過ぎると、言葉はさらに流暢になった。
「おとうさま」「おかあさま」「みてください」「これはなんですか」。短い文なら話せるようになっていた。
言葉が使えるようになると、世界が広がった気がした。使用人たちと少し話せる。父や母が交わしている言葉の意味がわかる。屋敷の中で何が起きているか、どういう流れで一日が動いているか、少しずつ見えてくる。
そのころ、ゆうは一つ気づいたことがあった。
エレノアが、鏡の前で自分の顔を見るとき、たまに少し暗い顔をすることがあった。さりげない仕草で、すぐに笑顔に戻る。でもその一瞬が、ゆうの目には見えた。
(……何か、気にしていることがあるんだろうな)
直接聞ける言語能力は、まだない。でも、ゆうは覚えておくことにした。いつかわかるときが来る。いつか、何かできるときが来る。今はただ、見ていればいい。
二歳も後半に差し掛かったある日、父が書斎に来いと言った。
父の手を引かれて連れていかれた書斎は、屋敷の奥の静かな部屋だった。本棚に本が並んでいて、机の上に書類が積まれている。インクの匂いがした。
父は椅子に座り、ゆうを膝に乗せた。
「ユウ、字は読めるか」
「……すこし」
ゆうは答えた。正直に言えば「読めます」なのだが、二歳の子が「読めます」と言うのは怪しすぎる。「すこし」が正解だ。
父は本棚から一冊の薄い本を取り出した。子ども向けの、絵の多い本だった。
「一緒に読もう」
そう言って、ゆうをしっかりと膝の上に座らせ、本を開いた。
物語は、騎士が旅をする話だった。簡単な文章で、大きな挿絵がある。父は一ページずつ、ゆっくりと読み聞かせてくれた。
ゆうはそれを聞きながら、内心で複雑な気持ちになっていた。内容は当然わかる。もとより読めるのだから。でも、父が読んでくれる声は、ゆっくりで、低くて、穏やかで——なんというか、ただ聞いているだけで少し落ち着く声だった。
(こういう時間が、あったのか)
前世では、父の声を聞いた記憶がほとんどなかった。五歳で亡くなってしまったから。今の体では二歳で、また父の声を聞いている。転生してよかった、と思う場面はいくつかあったが、このとき初めて、じわりとした実感でそう思った。
本が終わった。父が「どうだった」と聞いた。
「……おもしろかった」
社交辞令ではなく、本当にそう思ったから言った。
父はまた少し笑った。笑うと目元がゆるむ。あまり笑わない人なのに、その表情が、なんとなく安心感があった。
「また読もう」
「……うん」
短い約束だった。でも、守られる予感がした。
二歳の終わり、夕方のことだった。
廊下を歩いていると、書斎の扉が半開きになっていて、父の横顔が見えた。机の前に座って、書類を見ているわけでも本を読んでいるわけでもなく、ただ窓の外を見ていた。何かを考えている顔だった。
ゆうは少し立ち止まった。邪魔してはいけないと思った。でもそのとき、父が気配に気づいてこちらを見た。
目が合った。
父は少し驚いたような顔をした。それからすぐに、柔らかい表情になった。
「ユウか。入れ」
招かれて入ると、父は膝を叩いた。来い、という意味だとわかったので、近づいた。抱き上げられて、膝の上に座らされた。
「何かあったか」
「……ない」
「そうか」
また静かになった。でも父はゆうを膝に乗せたまま、また窓の外を見ていた。ゆうも同じ方向を見た。
窓の外には、暮れかけた空があった。茜色と藍色が混ざって、遠くの森の輪郭が黒くなっていた。きれいだった。
(……お父さんは、何を考えていたんだろう)
聞ける語彙が、まだなかった。でも、いつか聞ける日が来るだろうと思った。
しばらくの間、父と子で並んで、同じ空を見ていた。言葉はなかった。でも、それで十分だった。
やがてエレノアが「夕食ですよ」と迎えに来た。父は「行こう」と言って、ゆうを抱いたまま立ち上がった。
廊下を歩きながら、ゆうはふと思った。
(この人は、信頼できる)
証拠も根拠もない。ただの直感だ。でも五十年間、人を見てきた目がそう言っていた。この父は、裏切らない。損得で動かない。そういう人間だ。
その夜、ゆうは魔力の修練をしながら、この二歳という一年を振り返っていた。
言葉が流暢になった。屋敷の中が見えてきた。父のことがわかってきた。エレノアに気になることがある。この家の財政に課題がある。
それぞれが、バラバラな事実のようで、ゆうの中ではひとつの絵になっていた。この家のこと、この世界のこと。少しずつ、輪郭が定まってきている。
(まだまだこれからだ)
でも、方向は見えている。
魔力の糸は、今では四本分くらいの太さになっている。毎日続けてきた積み上げが、確実に形になっている。誰にも見えない場所で、誰にも言わずに。
五十年間働いた魂は、急かされることに疲れていた。今回は焦らなくていい。地道にやる。コツコツやる。それが崎山ゆうという人間の、唯一といっていい特技だった。
眠気が来た。こんどは逆らわずに、そのまま目を閉じた。
崎山ゆう——ユウ・フォン・ヴァルロードとして、少しずつ、確かに、この世界に根を下ろしていった。




