第一話「転生、そして日記」
第一話「転生、そして日記」
最後に見た景色は、コンビニのレジ袋だった。
夜の十一時。駅からの帰り道。体がおかしいとは思っていた。胸の奥に鈍い痛みがあって、足が思ったより言うことを聞かなくて、それでも「少し疲れているだけだ」と言い訳しながら歩いていた。五十年間そうしてきたのだから、今夜もそれで乗り越えられると信じていた。
信じていた、のだが。
体がかしいだ。アスファルトが急に顔の近くに来た。白いビニール袋がゆっくり横倒しになるのが見えた。さっき買ったカップ麺と栄養ドリンクが散らばるのを、他人事みたいに眺めながら、崎山ゆうは五十年の人生に幕を下ろした。
痛みはなかった。ただ、静かだった。
――惜しいな、と思った。カップ麺、食べたかったな、とも思った。五十年生きて最後の感想がそれか、と自分でも呆れたが、もう遅かった。
気がついたら、どこかにいた。
「どこか」というのは正確ではないかもしれない。光がある、というより、光そのものの中にいるような場所だった。地面も天井もなく、ただ白くて、柔らかくて、なんとなく温かい。
(死んだか)
頭の中はわりと冷静だった。五十年間、理不尽な納期と戦い続けたサラリーマンの魂というのは、そうそうのことでは動じない。少なくとも表面上は。
「あ、目が覚めましたか」
声がした。
振り返ると――というか、振り返るための体があるのかよくわからない状態だったが、意識を向けると――少女がいた。歳の頃は十代半ばくらいに見えるが、なんというか、存在の密度が違う。後光、というほど大げさではないが、彼女の周りだけ光の質が違う気がした。
白い服を着て、銀色の長い髪を持ち、透明な瞳でこちらを見ていた。
(来た。これは来た)
ゆうの頭の中で、前世の記憶が猛烈な勢いで動き出した。二十代から五十代まで、隙間時間に読み続けた異世界転生小説の知識が、これでもかと引き出しから飛び出してくる。
女神。転生。チートスキル。そういう流れだ。この後どうなるかは、だいたい想像がつく。
大事なのはここからだ。
「あなたが、女神様、ですか」
「はい。そうです」
女神は、にこりと笑った。かわいらしい笑顔だった。ゆうは内心で深呼吸した(肺がないので比喩だが)。
「崎山ゆうさん、でしたね。過労による急性心不全、でした。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
ゆうは礼を言った。とりあえず礼儀は大事だ。相手が女神であれば尚更。
「それで――転生、ですか」
「そうしたいと思っているのですが、ご意向はいかがでしょう」
女神は、ちょっと首を傾けた。相談するような、伺うような仕草だった。ゆうは少し意外に思った。もっと一方的に「異世界に転生させてあげます」と言われるかと想像していたのだが。
(まあ、どちらにせよ答えは決まっているが)
「謹んでお受けします」
「よかった。実は少し心配していたんです。五十歳の方って、お断りになることも多くて」
「え、そうなんですか」
「はい。『もういいです、休ませてください』とおっしゃる方が、割と」
それは、わかる気がした。五十年間働き続けた人間にとって、もう一本別の人生を始めることは、喜びより先に疲労感が来るかもしれない。
でもゆうは違った。
やり残したことがあったわけじゃない。後悔も、特別なものはなかった。ただ――もう少しだけ、世界を見ていたかった。もう少しだけ、誰かの役に立ちたかった。それだけだ。
「転生先は、どのような世界ですか」
「中世ヨーロッパ風の魔法世界です。貴族制があって、魔法があって、剣があります」
「なるほど。スキルか何か、いただけますか」
ゆうは単刀直入に聞いた。交渉は要点から入るに限る。女神は「あ、そうですね」と言って、少し考える顔をした。
「崎山さんって、異世界転生の小説、たくさん読まれていましたよね」
「ええ、まあ」
通勤電車の中、昼休み、深夜に帰宅してからの三十分。ゆうの趣味といえばそれくらいのものだった。現実逃避と言われたら否定はできないが、楽しかったのだから仕方ない。
「その知識、全部覚えていますよね」
「覚えています」
「じゃあ、それを『引き出せる』スキルにしましょうか」
女神は、にこっと笑って言った。あまりにもさらりと言うので、ゆうは一瞬飲み込めなかった。
「……引き出せる、とは」
「崎山さんが読んだ異世界転生作品に登場するスキルや魔法や技術。それが『こういうものが存在する』という形で確認できるんです。日記みたいな形で、ね。開けば分かる。」
「それは――かなり強力では」
「強力かどうかは、本人次第ですよ」
女神は、ふわりと言った。意味深なのか天然なのか、判断がつかない。
「知識を得ても、習得するのはご自身です。魔法なら修練が必要ですし、剣術なら稽古が必要です。日記が『こういう道があります』と示すだけで、その道を歩くのはあなた自身」
(なるほど)
ゆうは少し考えた。これは、思ったよりフェアなスキルだ。知識は与えてくれる。でも力は与えてくれない。方向を示すだけで、歩くのは自分。
五十年間そうしてきた。それでいい、と思った。
むしろ、そっちの方がいい。チートで無双するよりも、正しい道を知った上で自分の足で歩く方が、性に合っている。
「わかりました。ありがとうございます」
「どうぞ、今度は楽しんでくださいね」
女神は微笑んだ。温かい笑顔だった。ゆうは頭を下げた。礼儀は大事だ。どんな状況でも。
「一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「なぜ私に、もう一度の機会を」
女神は少し間を置いた。それから、少し困ったような、でも優しい顔で言った。
「誠実に生きた人に、もう少し世界を見てほしかったんです。それだけです」
ゆうは、何も言えなかった。
五十年間、誰かにそんなことを言ってもらったことはなかったと思う。労われることも、褒められることも、そんなになかった。ただ黙って働いて、黙って帰って、黙って眠る、そういう人生だった。
(女神様に言っていただけるとは、思っていなかった)
光がまた、温かくなった気がした。
「ありがとうございます」
今度は、少し声が震えた。
目が覚めたら、泣いていた。
いや、正確には泣かされていた。体が泣いていた。自分の意志とは無関係に、目から涙が出続けていて、しかもそれに合わせて「ふぎゃあ」とか「えぐえぐ」とかいう声が出ていた。
(な、なんだ)
混乱した。泣きたくない。泣く理由もない。なのに体が泣いている。
(ああ――そういうことか)
理解するまで、少し時間がかかった。
赤ちゃんだ。自分は今、赤ちゃんだ。
赤ちゃんの体は、泣くようにできている。呼吸のためでもあるし、意思表示の手段でもある。この体は今、その本能に従って泣いている。五十年分の意識がいくら「落ち着け」と言っても、体は聞かない。
(こ、これはなかなかに……)
視界が滲んでいる。見えているのは、木の天井と、揺れるランタンの光と、こちらを覗き込む女性の顔だ。三十代くらいか。銀色の髪をまとめた、きれいな顔の女性が、心配そうにゆうを見ていた。
「よかった、元気な声ね」
柔らかい声だった。抱き上げられた。温かかった。
(お母さん、か)
知らない人だ。でも、間違いなくこの人がこの体の母親だということは、何かが分かった。匂いか、温度か、あるいは転生者に与えられた何かの補正か。
「ご主人様、お子様は健やかなご様子です」
別の声がした。落ち着いた、仕事のできそうな中年女性の声だった。産婆か何かだろう。
ご主人様、という言葉に、ゆうは内心で「なるほど」と思った。貴族家に生まれたということは、こういうことだ。使用人がいる。礼儀がある。家格がある。
(さて。どんな家かな)
考えようとした。頭の中で情報を整理しようとした。
そこで体が再び「ふぎゃあ」と泣いた。
(……意志の疎通が難しいな、この体)
最初の三ヶ月は、修行だった。
寝ることと泣くことと飲むことしかできない体で、五十年分の意識を持て余すのは、想像以上にしんどかった。
たとえば、言葉が出ない。喋ろうとしても「あー」とか「うー」しか出ない。ゆうの頭の中には語彙があるのに、喉と舌がついてこない。筋肉ができていない。神経の接続ができていない。「異世界転生しました。私は崎山ゆう、元会社員です」と自己紹介したくても、物理的に不可能だ。
たとえば、視界がぼやけている。赤ちゃんというのは、最初は遠くがよく見えない。ゆうは最初の数週間、世界が全体的にぼんやりしていた。形と光と影でなんとなく状況を把握していた。
たとえば、腹が減ったり眠くなったりが制御できない。体の要求が、意識より先に来る。考え事の途中でいきなり眠くなって、気がついたら二時間経っている。そういうことが毎日起きた。
(人間の赤ちゃんというのは、すごい存在だな)
三ヶ月目に入ったころ、ゆうはそんなことをぼんやり思った。
こんなに不完全な体で、それでも毎日何かを学んでいる。視界がぼけていても光と影で世界を理解しようとしている。言葉が出なくても泣き声の強弱で意思を伝えようとしている。人間というのは最初からそういう風にできているのか。
(前世では、赤ちゃんというのをちゃんと見たことがなかったな)
独り身のまま五十年生きてきたから、子供の近くにいたことがあまりなかった。今こうして内側から経験してみると、なるほど、これはたいへんだ、と思う。
視界がはっきりしてきたのは、四ヶ月目に入ってからだ。
世界が、少しずつ輪郭を持ち始めた。
天井の木の模様が見えた。窓から入ってくる光が、朝と夕方で色が違うことに気づいた。抱いてくれる母の顔が、はっきり見えるようになった。
母は、エレノアという名前らしかった。銀色の髪の、穏やかな女性だ。ランタンの光を受けると、その髪がかすかに白く輝いた。いつもゆうを見るとき、目尻が下がる。怒っているところを一度も見たことがない。
父は、まだよくわからなかった。顔を見せてくれることはあるが、多忙らしく、あまり部屋に来ない。声は低くて、でも優しかった。
(オルグレイン伯爵、か)
名前は聞こえていた。ゆうの頭の中ではある程度整理がついていた。ヴァルロード伯爵家。王国アルヴァニア。中堅の貴族家。悪くない生まれだ。
(さて。スキルはどうなったんだろう)
女神から「日記の形で」と言われていた。手元にはまだ何もない。体が使えるようになってから現れるのかもしれない。焦っても仕方ない。
(まずは、この体をなんとかするほうが先だ)
六ヶ月目のある朝、ゆうは珍しく一人で寝かされていた。
いつもは誰かが傍にいるのだが、その日は母が別の部屋で何かをしているらしく、ゆうの部屋には誰もいなかった。天井を眺めながら、ぼんやりと手足を動かしていた――赤ちゃんは、何もしていないときでも手足を動かす。これも本能らしい。
そのときだった。
ふと、横を見た。
毛布の脇に、何かがあった。
(え)
さっきまで、何もなかったはずだ。母が持ってきたわけでも、誰かが置いたわけでもない。でも確かにそこにある。ゆうは目を凝らした。
古びた、革装丁の、小さな本だった。
色は深い茶色で、表紙には何も書いていない。角が少し擦れていて、使い込まれた感じがした。でも汚くはない。なんというか、丁寧に年を重ねた、という雰囲気がある。
(これが――ダイナリか)
心臓が、少し速くなった。正確には、この体の心臓だが。
手を伸ばした。六ヶ月の赤ちゃんの手で、本を掴もうとするのはなかなか難しかった。指の力が足りない。でもなぜか、近づくと本の方が少し動いた気がした。手のひらに収まるように、自然に。
触れた瞬間、何かが流れ込んできた。
知識、というより、感触だった。川の水が指の間を通り過ぎるような、あるいは積み重なった本の背表紙を一冊ずつ確かめるような、そういう感覚。
(ああ、そういうことか)
わかった気がした。
これは「辞書」ではなかった。「地図」だった。何がどこにあるか、ではなく、どういう道があるか、が書いてある。ゆうが前世で読んだ数百の物語に登場する魔法、技術、知識、可能性。それが全部、この日記の中に存在している。見たければ見られる。でも、見ただけでは何も変わらない。
(努力なき力は渡さない、と女神様はおっしゃっていたな)
そういうことか、とゆうは思った。
チートを渡すのは簡単だ。でも女神は、そうしなかった。道を渡した。歩くかどうかは、こちら次第だ。
(俺は)
五十年間、道を歩き続けてきた。残業でも、理不尽な要求でも、体を壊しかけながらでも、黙って前を向いていた。それがよかったかどうかは、今となってはわからない。
でも今度は。
(今度は、ちゃんと自分のために歩きたい)
誰かのためでもいい。でも、自分が納得できる方向に。
本が、少し温かかった。
七ヶ月目から、ゆうは修練を始めた。
といっても、外から見れば何も変わらない。ただの赤ちゃんが、天井を見ながら手足をばたばたさせているだけだ。しかし内側では、ゆうは全力で「魔力」というものを探していた。
ダイナリを通じて知識を得た。魔力とは、体内に存在する力の源泉で、意識的に動かすことで様々な効果をもたらす。多くの人間はそれを「生まれつきある量を使いながら消費していくもの」と認識しているが、実際は「鍛えることができる」らしい。ただし、この世界にはその概念がほぼ存在しない。
(鍛えられるのに、誰も鍛えていない。なんで)
理由は単純だった。気づかないからだ。魔力が鍛えられると知らなければ、鍛えようとしない。前世のゆうだって、筋肉が鍛えられると知らなければ腕立て伏せをしなかっただろう。
逆に言えば、知っている自分は鍛えられる。
(赤ちゃんのうちから始めれば、どうなるだろう)
想像しただけで少し楽しかった。
方法は単純だった。体の中心に意識を向ける。そこにある、かすかな熱のようなものを感じる。感じたら、ゆっくりと動かしてみる。ただそれだけだ。最初は全然うまくいかなかった。あるのかないのかもよくわからなかった。
でも。
三日目に、初めてそれを「感じた」気がした。
胸の奥に、糸一本分の細い何かがある。触れようとすると逃げる。強く集中すると見失う。でも確かにそこにある。ゆうはひたすら、毎日それを探し続けた。
眠くなっても、お腹が空いても、泣かされても。
意識が戻るたびに、また探した。
母が「最近よく動くわね」と言っていたのを、ゆうは聞いていた。
(そりゃそうだ。修練中だ)
ただし言えない。六ヶ月の赤ちゃんに言語能力はない。
でも心の中でゆうは、女神への感謝を新たにしていた。もう一度、と言ってくれた。誠実に生きたから、と言ってくれた。
その言葉の意味を、今はまだ完全には理解できていない。でもいつか、この体が動くようになったとき、この世界で誰かのために何かができたとき、その言葉の重さがわかるのだと思う。
(とりあえず今は、この糸を太くすることだ)
ランタンの光が揺れていた。母の寝息が聞こえた。外では風が吹いているのか、窓枠がかすかに鳴っていた。
静かな夜だった。
崎山ゆう――ユウ・フォン・ヴァルロードは、胸の奥の細い糸に意識を向けながら、この異世界での最初の夜を、静かに積み重ねていた。
七ヶ月目から、ゆうの日課は増えた。
眠る前と、目が覚めた直後。その二回、かならず体の中心に意識を向ける。胸の奥にある、糸一本分の細い熱を探す。見つけたら、そっと動かしてみる。強く引っ張ると消える。だから優しく、川の流れを手で感じるように、ただ触れるだけ。
たったそれだけのことを、毎日続けた。
誰にも言わなかった。言えるわけがない。七ヶ月の赤ちゃんが「魔力の修練をしています」と言っても、誰も信じないし、信じられても困る。この体が十分に動くようになるまで、静かに積み上げるだけでいい。
一ヶ月が経ったころ、糸が少し太くなった気がした。気のせいかもしれなかった。でも、確かめる方法がないのなら、気のせいではないと決めることにした。前世でもそうしてきた。根拠のない自信は、時として唯一の燃料になる。
エレノアが「最近よく動くわね」と言っていたのを、ゆうは聞いていた。
(そりゃそうだ。修練中だ)
ただし言えない。赤ちゃんに言語能力はない。
あと少しで言葉が出るようになる。そうしたら、少しずつこの世界のことを理解していける。貴族社会の仕組みも、魔法の扱われ方も、何が価値を持って何が軽んじられているかも、全部ダイナリで方向を掴んで、自分の目で確かめていく。
急がなくていい。
五十年間、締め切りに追われ続けた。今回は違う。この積み上げに、誰かから期限を告げられることはない。
その夜も、眠る前にゆうは魔力の修練をした。
暗い部屋で目を閉じて、体の中心に意識を向ける。熱の塊のようなものが、少しずつ、少しずつ大きくなっている。細かった糸が、今では二本分くらいの太さになっている気がした。
(まだまだだが、まあ)
五十年間働いた魂は、急かされることに疲れていた。今回は焦らなくていい。地道にやる。コツコツやる。それが崎山ゆうという人間の、唯一といっていい特技だった。
眠気が来た。こんどは逆らわずに、そのまま目を閉じた。
夢も見ずに、深く眠った。
まだ何も始まっていない。でも、確かに始まっていた。




