表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/12

第一話「転生、そして日記」

第一話「転生、そして日記」


 最後に見た景色は、コンビニのレジ袋だった。


 夜の十一時。駅からの帰り道。体がおかしいとは思っていた。胸の奥に鈍い痛みがあって、足が思ったより言うことを聞かなくて、それでも「少し疲れているだけだ」と言い訳しながら歩いていた。五十年間そうしてきたのだから、今夜もそれで乗り越えられると信じていた。


 信じていた、のだが。


 体がかしいだ。アスファルトが急に顔の近くに来た。白いビニール袋がゆっくり横倒しになるのが見えた。さっき買ったカップ麺と栄養ドリンクが散らばるのを、他人事みたいに眺めながら、崎山ゆうは五十年の人生に幕を下ろした。


 痛みはなかった。ただ、静かだった。


 ――惜しいな、と思った。カップ麺、食べたかったな、とも思った。五十年生きて最後の感想がそれか、と自分でも呆れたが、もう遅かった。



 気がついたら、どこかにいた。


 「どこか」というのは正確ではないかもしれない。光がある、というより、光そのものの中にいるような場所だった。地面も天井もなく、ただ白くて、柔らかくて、なんとなく温かい。


 (死んだか)


 頭の中はわりと冷静だった。五十年間、理不尽な納期と戦い続けたサラリーマンの魂というのは、そうそうのことでは動じない。少なくとも表面上は。


 「あ、目が覚めましたか」


 声がした。


 振り返ると――というか、振り返るための体があるのかよくわからない状態だったが、意識を向けると――少女がいた。歳の頃は十代半ばくらいに見えるが、なんというか、存在の密度が違う。後光、というほど大げさではないが、彼女の周りだけ光の質が違う気がした。


 白い服を着て、銀色の長い髪を持ち、透明な瞳でこちらを見ていた。


 (来た。これは来た)


 ゆうの頭の中で、前世の記憶が猛烈な勢いで動き出した。二十代から五十代まで、隙間時間に読み続けた異世界転生小説の知識が、これでもかと引き出しから飛び出してくる。


 女神。転生。チートスキル。そういう流れだ。この後どうなるかは、だいたい想像がつく。


 大事なのはここからだ。


 「あなたが、女神様、ですか」


 「はい。そうです」


 女神は、にこりと笑った。かわいらしい笑顔だった。ゆうは内心で深呼吸した(肺がないので比喩だが)。


 「崎山ゆうさん、でしたね。過労による急性心不全、でした。お疲れ様でした」


 「ありがとうございます」


 ゆうは礼を言った。とりあえず礼儀は大事だ。相手が女神であれば尚更。


 「それで――転生、ですか」


 「そうしたいと思っているのですが、ご意向はいかがでしょう」


 女神は、ちょっと首を傾けた。相談するような、伺うような仕草だった。ゆうは少し意外に思った。もっと一方的に「異世界に転生させてあげます」と言われるかと想像していたのだが。


 (まあ、どちらにせよ答えは決まっているが)


 「謹んでお受けします」


 「よかった。実は少し心配していたんです。五十歳の方って、お断りになることも多くて」


 「え、そうなんですか」


 「はい。『もういいです、休ませてください』とおっしゃる方が、割と」


 それは、わかる気がした。五十年間働き続けた人間にとって、もう一本別の人生を始めることは、喜びより先に疲労感が来るかもしれない。


 でもゆうは違った。


 やり残したことがあったわけじゃない。後悔も、特別なものはなかった。ただ――もう少しだけ、世界を見ていたかった。もう少しだけ、誰かの役に立ちたかった。それだけだ。


 「転生先は、どのような世界ですか」


 「中世ヨーロッパ風の魔法世界です。貴族制があって、魔法があって、剣があります」


 「なるほど。スキルか何か、いただけますか」


 ゆうは単刀直入に聞いた。交渉は要点から入るに限る。女神は「あ、そうですね」と言って、少し考える顔をした。


 「崎山さんって、異世界転生の小説、たくさん読まれていましたよね」


 「ええ、まあ」


 通勤電車の中、昼休み、深夜に帰宅してからの三十分。ゆうの趣味といえばそれくらいのものだった。現実逃避と言われたら否定はできないが、楽しかったのだから仕方ない。


 「その知識、全部覚えていますよね」


 「覚えています」


 「じゃあ、それを『引き出せる』スキルにしましょうか」


 女神は、にこっと笑って言った。あまりにもさらりと言うので、ゆうは一瞬飲み込めなかった。


 「……引き出せる、とは」


 「崎山さんが読んだ異世界転生作品に登場するスキルや魔法や技術。それが『こういうものが存在する』という形で確認できるんです。日記みたいな形で、ね。開けば分かる。」


 「それは――かなり強力では」


 「強力かどうかは、本人次第ですよ」


 女神は、ふわりと言った。意味深なのか天然なのか、判断がつかない。


 「知識を得ても、習得するのはご自身です。魔法なら修練が必要ですし、剣術なら稽古が必要です。日記が『こういう道があります』と示すだけで、その道を歩くのはあなた自身」


 (なるほど)


 ゆうは少し考えた。これは、思ったよりフェアなスキルだ。知識は与えてくれる。でも力は与えてくれない。方向を示すだけで、歩くのは自分。


 五十年間そうしてきた。それでいい、と思った。


 むしろ、そっちの方がいい。チートで無双するよりも、正しい道を知った上で自分の足で歩く方が、性に合っている。


 「わかりました。ありがとうございます」


 「どうぞ、今度は楽しんでくださいね」


 女神は微笑んだ。温かい笑顔だった。ゆうは頭を下げた。礼儀は大事だ。どんな状況でも。


 「一つだけ聞いていいですか」


 「はい」


 「なぜ私に、もう一度の機会を」


 女神は少し間を置いた。それから、少し困ったような、でも優しい顔で言った。


 「誠実に生きた人に、もう少し世界を見てほしかったんです。それだけです」


 ゆうは、何も言えなかった。


 五十年間、誰かにそんなことを言ってもらったことはなかったと思う。労われることも、褒められることも、そんなになかった。ただ黙って働いて、黙って帰って、黙って眠る、そういう人生だった。


 (女神様に言っていただけるとは、思っていなかった)


 光がまた、温かくなった気がした。


 「ありがとうございます」


 今度は、少し声が震えた。



 目が覚めたら、泣いていた。


 いや、正確には泣かされていた。体が泣いていた。自分の意志とは無関係に、目から涙が出続けていて、しかもそれに合わせて「ふぎゃあ」とか「えぐえぐ」とかいう声が出ていた。


 (な、なんだ)


 混乱した。泣きたくない。泣く理由もない。なのに体が泣いている。


 (ああ――そういうことか)


 理解するまで、少し時間がかかった。


 赤ちゃんだ。自分は今、赤ちゃんだ。


 赤ちゃんの体は、泣くようにできている。呼吸のためでもあるし、意思表示の手段でもある。この体は今、その本能に従って泣いている。五十年分の意識がいくら「落ち着け」と言っても、体は聞かない。


 (こ、これはなかなかに……)


 視界が滲んでいる。見えているのは、木の天井と、揺れるランタンの光と、こちらを覗き込む女性の顔だ。三十代くらいか。銀色の髪をまとめた、きれいな顔の女性が、心配そうにゆうを見ていた。


 「よかった、元気な声ね」


 柔らかい声だった。抱き上げられた。温かかった。


 (お母さん、か)


 知らない人だ。でも、間違いなくこの人がこの体の母親だということは、何かが分かった。匂いか、温度か、あるいは転生者に与えられた何かの補正か。


 「ご主人様、お子様は健やかなご様子です」


 別の声がした。落ち着いた、仕事のできそうな中年女性の声だった。産婆か何かだろう。


 ご主人様、という言葉に、ゆうは内心で「なるほど」と思った。貴族家に生まれたということは、こういうことだ。使用人がいる。礼儀がある。家格がある。


 (さて。どんな家かな)


 考えようとした。頭の中で情報を整理しようとした。


 そこで体が再び「ふぎゃあ」と泣いた。


 (……意志の疎通が難しいな、この体)



 最初の三ヶ月は、修行だった。


 寝ることと泣くことと飲むことしかできない体で、五十年分の意識を持て余すのは、想像以上にしんどかった。


 たとえば、言葉が出ない。喋ろうとしても「あー」とか「うー」しか出ない。ゆうの頭の中には語彙があるのに、喉と舌がついてこない。筋肉ができていない。神経の接続ができていない。「異世界転生しました。私は崎山ゆう、元会社員です」と自己紹介したくても、物理的に不可能だ。


 たとえば、視界がぼやけている。赤ちゃんというのは、最初は遠くがよく見えない。ゆうは最初の数週間、世界が全体的にぼんやりしていた。形と光と影でなんとなく状況を把握していた。


 たとえば、腹が減ったり眠くなったりが制御できない。体の要求が、意識より先に来る。考え事の途中でいきなり眠くなって、気がついたら二時間経っている。そういうことが毎日起きた。


 (人間の赤ちゃんというのは、すごい存在だな)


 三ヶ月目に入ったころ、ゆうはそんなことをぼんやり思った。


 こんなに不完全な体で、それでも毎日何かを学んでいる。視界がぼけていても光と影で世界を理解しようとしている。言葉が出なくても泣き声の強弱で意思を伝えようとしている。人間というのは最初からそういう風にできているのか。


 (前世では、赤ちゃんというのをちゃんと見たことがなかったな)


 独り身のまま五十年生きてきたから、子供の近くにいたことがあまりなかった。今こうして内側から経験してみると、なるほど、これはたいへんだ、と思う。



 視界がはっきりしてきたのは、四ヶ月目に入ってからだ。


 世界が、少しずつ輪郭を持ち始めた。


 天井の木の模様が見えた。窓から入ってくる光が、朝と夕方で色が違うことに気づいた。抱いてくれる母の顔が、はっきり見えるようになった。


 母は、エレノアという名前らしかった。銀色の髪の、穏やかな女性だ。ランタンの光を受けると、その髪がかすかに白く輝いた。いつもゆうを見るとき、目尻が下がる。怒っているところを一度も見たことがない。


 父は、まだよくわからなかった。顔を見せてくれることはあるが、多忙らしく、あまり部屋に来ない。声は低くて、でも優しかった。


 (オルグレイン伯爵、か)


 名前は聞こえていた。ゆうの頭の中ではある程度整理がついていた。ヴァルロード伯爵家。王国アルヴァニア。中堅の貴族家。悪くない生まれだ。


 (さて。スキルはどうなったんだろう)


 女神から「日記の形で」と言われていた。手元にはまだ何もない。体が使えるようになってから現れるのかもしれない。焦っても仕方ない。


 (まずは、この体をなんとかするほうが先だ)



 六ヶ月目のある朝、ゆうは珍しく一人で寝かされていた。


 いつもは誰かが傍にいるのだが、その日は母が別の部屋で何かをしているらしく、ゆうの部屋には誰もいなかった。天井を眺めながら、ぼんやりと手足を動かしていた――赤ちゃんは、何もしていないときでも手足を動かす。これも本能らしい。


 そのときだった。


 ふと、横を見た。


 毛布の脇に、何かがあった。


 (え)


 さっきまで、何もなかったはずだ。母が持ってきたわけでも、誰かが置いたわけでもない。でも確かにそこにある。ゆうは目を凝らした。


 古びた、革装丁の、小さな本だった。


 色は深い茶色で、表紙には何も書いていない。角が少し擦れていて、使い込まれた感じがした。でも汚くはない。なんというか、丁寧に年を重ねた、という雰囲気がある。


 (これが――ダイナリか)


 心臓が、少し速くなった。正確には、この体の心臓だが。


 手を伸ばした。六ヶ月の赤ちゃんの手で、本を掴もうとするのはなかなか難しかった。指の力が足りない。でもなぜか、近づくと本の方が少し動いた気がした。手のひらに収まるように、自然に。


 触れた瞬間、何かが流れ込んできた。


 知識、というより、感触だった。川の水が指の間を通り過ぎるような、あるいは積み重なった本の背表紙を一冊ずつ確かめるような、そういう感覚。


 (ああ、そういうことか)


 わかった気がした。


 これは「辞書」ではなかった。「地図」だった。何がどこにあるか、ではなく、どういう道があるか、が書いてある。ゆうが前世で読んだ数百の物語に登場する魔法、技術、知識、可能性。それが全部、この日記の中に存在している。見たければ見られる。でも、見ただけでは何も変わらない。


 (努力なき力は渡さない、と女神様はおっしゃっていたな)


 そういうことか、とゆうは思った。


 チートを渡すのは簡単だ。でも女神は、そうしなかった。道を渡した。歩くかどうかは、こちら次第だ。


 (俺は)


 五十年間、道を歩き続けてきた。残業でも、理不尽な要求でも、体を壊しかけながらでも、黙って前を向いていた。それがよかったかどうかは、今となってはわからない。


 でも今度は。


 (今度は、ちゃんと自分のために歩きたい)


 誰かのためでもいい。でも、自分が納得できる方向に。


 本が、少し温かかった。



 七ヶ月目から、ゆうは修練を始めた。


 といっても、外から見れば何も変わらない。ただの赤ちゃんが、天井を見ながら手足をばたばたさせているだけだ。しかし内側では、ゆうは全力で「魔力」というものを探していた。


 ダイナリを通じて知識を得た。魔力とは、体内に存在する力の源泉で、意識的に動かすことで様々な効果をもたらす。多くの人間はそれを「生まれつきある量を使いながら消費していくもの」と認識しているが、実際は「鍛えることができる」らしい。ただし、この世界にはその概念がほぼ存在しない。


 (鍛えられるのに、誰も鍛えていない。なんで)


 理由は単純だった。気づかないからだ。魔力が鍛えられると知らなければ、鍛えようとしない。前世のゆうだって、筋肉が鍛えられると知らなければ腕立て伏せをしなかっただろう。


 逆に言えば、知っている自分は鍛えられる。


 (赤ちゃんのうちから始めれば、どうなるだろう)


 想像しただけで少し楽しかった。


 方法は単純だった。体の中心に意識を向ける。そこにある、かすかな熱のようなものを感じる。感じたら、ゆっくりと動かしてみる。ただそれだけだ。最初は全然うまくいかなかった。あるのかないのかもよくわからなかった。


 でも。


 三日目に、初めてそれを「感じた」気がした。


 胸の奥に、糸一本分の細い何かがある。触れようとすると逃げる。強く集中すると見失う。でも確かにそこにある。ゆうはひたすら、毎日それを探し続けた。


 眠くなっても、お腹が空いても、泣かされても。


 意識が戻るたびに、また探した。



 母が「最近よく動くわね」と言っていたのを、ゆうは聞いていた。


 (そりゃそうだ。修練中だ)


 ただし言えない。六ヶ月の赤ちゃんに言語能力はない。


 でも心の中でゆうは、女神への感謝を新たにしていた。もう一度、と言ってくれた。誠実に生きたから、と言ってくれた。


 その言葉の意味を、今はまだ完全には理解できていない。でもいつか、この体が動くようになったとき、この世界で誰かのために何かができたとき、その言葉の重さがわかるのだと思う。


 (とりあえず今は、この糸を太くすることだ)


 ランタンの光が揺れていた。母の寝息が聞こえた。外では風が吹いているのか、窓枠がかすかに鳴っていた。


 静かな夜だった。


 崎山ゆう――ユウ・フォン・ヴァルロードは、胸の奥の細い糸に意識を向けながら、この異世界での最初の夜を、静かに積み重ねていた。



 七ヶ月目から、ゆうの日課は増えた。


 眠る前と、目が覚めた直後。その二回、かならず体の中心に意識を向ける。胸の奥にある、糸一本分の細い熱を探す。見つけたら、そっと動かしてみる。強く引っ張ると消える。だから優しく、川の流れを手で感じるように、ただ触れるだけ。


 たったそれだけのことを、毎日続けた。


 誰にも言わなかった。言えるわけがない。七ヶ月の赤ちゃんが「魔力の修練をしています」と言っても、誰も信じないし、信じられても困る。この体が十分に動くようになるまで、静かに積み上げるだけでいい。


 一ヶ月が経ったころ、糸が少し太くなった気がした。気のせいかもしれなかった。でも、確かめる方法がないのなら、気のせいではないと決めることにした。前世でもそうしてきた。根拠のない自信は、時として唯一の燃料になる。


 エレノアが「最近よく動くわね」と言っていたのを、ゆうは聞いていた。


 (そりゃそうだ。修練中だ)


 ただし言えない。赤ちゃんに言語能力はない。


 あと少しで言葉が出るようになる。そうしたら、少しずつこの世界のことを理解していける。貴族社会の仕組みも、魔法の扱われ方も、何が価値を持って何が軽んじられているかも、全部ダイナリで方向を掴んで、自分の目で確かめていく。


 急がなくていい。


 五十年間、締め切りに追われ続けた。今回は違う。この積み上げに、誰かから期限を告げられることはない。



 その夜も、眠る前にゆうは魔力の修練をした。


 暗い部屋で目を閉じて、体の中心に意識を向ける。熱の塊のようなものが、少しずつ、少しずつ大きくなっている。細かった糸が、今では二本分くらいの太さになっている気がした。


 (まだまだだが、まあ)


 五十年間働いた魂は、急かされることに疲れていた。今回は焦らなくていい。地道にやる。コツコツやる。それが崎山ゆうという人間の、唯一といっていい特技だった。


 眠気が来た。こんどは逆らわずに、そのまま目を閉じた。


 夢も見ずに、深く眠った。


 まだ何も始まっていない。でも、確かに始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ