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第8話 朝もはよから忍び寄る権力

夢のようなVIP体験をした翌朝。

俺は毎日のモーニングルーティンを淡々とこなしていた。


シャワーを浴びて、朝食のトーストを胃に流し込み、代わり映えしない制服に身を包む。そして今は、全ての締めくくりとして洗面台の鏡と睨み合いながら歯を磨いている最中だ——


ちなみに俺は、耀と一緒に登下校することは絶対にない。

俺みたいな一般人が隣を歩けば、彼女のブランド価値を落としたり週刊誌に変な火種を与えかねないからだ。

中学に上がって彼女が芸能の道に進み始めてからは、俺から徹底してその距離を置いているのだが……まあ、今となってはそれが正しかったと再認識させられる。


そんな事を考えながら、鏡の中で少し苦笑いをしている自分と見つめ合っていた時。

不意に我が家のインターホンが鳴り、母さんがパタパタとスリッパの音を立てて玄関へ向かっていく。


こんな朝っぱらから来客とは珍しい……なんて呑気に考えていると、何やら慌てたような足取りで母さんが洗面所に飛び込んできた。


「ちょっ、ちょっと……護?!お友だちがお迎えに来ているわよ?!」

「ふえ?おほもだち……?」


……俺に?まさか耀じゃないよな?それなら耀って言うだろうし……。


歯ブラシを咥えたまま間抜けな声を出す俺をよそに、母さんはひどく驚いた様子で少し息を荒げていた。

そのただならぬ雰囲気に、俺は何事かと思いさっと口を濯いでから母さんに問い直した。


「えっと……誰がきてんの?」

「誰って母さんが聞きたいわよ……百合園さんって子よ?あんなお人形さんみたいな可愛い子、どこで見つけてきたのよあんた……」


……おい、母さん……なんて……?

急速に跳ね上がる心拍数。悪寒が這い上がり、額を伝う冷や汗。


「……母さん……今、百合園って言った?」

「そうよ、聞こえなかったの?!……まあとりあえず玄関の外でその子待ってるから早く準備しなさいよっ!……あんな可愛い女の子を待たせるもんじゃないからね?」

「……あっ……うん……」


……いやいやいや……嘘でしょ?……嘘だよね……。


俺は洗面所を飛び出し、急ぎ足で身なりを整えてリビングに置いてあった鞄をひったくると、転がるように玄関へ向かった。


嫌な予感が脳内で駆け巡っている。

確か昨日、深月さんは満面の笑みで言っていた気がする。


『これでいつでも一緒ですよ』と。


そして俺は何気なく……いや、断りきれない状況で運転手の吉村さんに自宅の住所を伝えてしまっていた。

ということは、当然ながら彼女は俺の家の正確な場所を把握しているわけで……。


激しい動悸と胃の底にズシリと沈み込むような嫌な重みを抱えながら、俺は震える手で靴を履き玄関の扉をゆっくりと開いた。


そこには、爽やかな朝の陽光を浴びてハーフアップの銀色の髪を神々しく輝かせる、聖母の微笑みがあった。


「おはようございます護くん♡……迎えに来ましたよ?」

「・・・・・・」


……こわい。こわいこわいこわいっ!!……もう、すっっごくこわい!!


目の前に立つ深月さんの微笑みには、表向きの怖さなど微塵もない。

だが、俺の生存本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。

しかもだ。彼女はさも当然であるかのように『迎えに来ましたよ?』と言ってのけた。

もちろん昨日から事前連絡など一切なく、まるで俺が彼女の迎えを心待ちにしていたかのような言い回しで。


「おっ、おはよう……深月さん」


しかし、ここで無粋な言葉を吐けるはずもなく、俺は目一杯の笑顔を作り挨拶を返した。


「うふふっ……ではそこに車を待たせているので、行きましょうか?」

「く、車……?」

「ええ、昨日と同じですよ。ほら、行きましょう護くん?」

「あっ……えっ……はっ、はい……」


俺がぎこちなく歩き出すのを待って、深月さんはごく自然な動作で俺の横に肩を並べる。

視界を前に移すと、俺の家の前の道路には昨日と全く同じ、場違いな黒塗りの超高級車が静かに鎮座していた。

その横にはもちろん、スーツに身を包んだ吉村さんが控えており、俺の姿を確認するなり流麗な動作で後部座席のドアを開け放って誘い込んでくる。


「おはようございます。御子柴様……どうぞこちらへ……」

「護くんは先に乗って下さい」

「……あ、すいません吉村さん……失礼します」


閑静な庶民の住宅街が、そこだけ完全に異次元の空間に切り取られている。

道行く学生や犬の散歩中のおじさんが、その異様な光景に目を丸くして立ち止まっていて、俺はもはや抵抗する気力すら削がれ、逃げ込むように車内へと身体を滑り込ませた。


もう、ここまで外堀を埋められて抵抗できるわけがない。

そして昨日と全く同じ要領で俺が後部座席に収まるや否や、深月さんが滑り込んできてパタンと重いドアが閉まる。


半ば拉致のような手際の良さで高級車は滑るように発進した。


外のノイズが一切聞こえない密室空間。革張りのシートは無駄に柔らかく、車内には深月さんから漂うちょっとエッチな香りが充満している。


その逃げ場のない空間の中で、深月さんは俺の耳元で甘く、そしてどこか猟奇的な響きを孕んだ声で意味深に呟いた。


「護くん……安心して下さい。もうあなたに酷い事をする人はいなくなりますから……」


その表現の裏に隠されたニュアンスに、俺はどこかゾクッと背筋を凍らせながら、曖昧に頷くことしかできなかった。



————————



車で走ることわずか十分ほど。

学園の正門から少し離れた場所で車が停車し、吉村さんのエスコートで二人揃って車を降りると、黒塗りの車は一礼してすぐに発車し静かに角を曲がって見えなくなっていった——


「それじゃ、行きましょうか?」

「うん、そうだね……」


校門へ向け二人で並んで歩き出したその時、昨日と同じく、深月さんが俺の右肘を自身の腕を絡め取ってきた。

朝の爽やかな冷気に乗って彼女の香りが輪郭を持って俺の鼻腔を侵食し、動揺で心臓が不規則に脈打つ。


そのまま校門をくぐり校舎へ向かう途中、大きな掲示板の前に異様な数の生徒が人だかりを作っているのを見つけた。


「ん?……なんだろあの人だかり?表彰の掲示とかかな?」

「うふふっ……さて、なんでしょう?……見に行ってみますか?」


事もなげに笑った深月さんは、俺の腕を引いて人だかりの方へ歩を進めてゆく。

その集団に近づくと、深月さんの気配に気づいた生徒たちがまるで海を割るかのようにサッと左右に道を明け渡し、口々に挨拶をしてくる。

さながらモーゼだ。


((おはようございます!百合園さんっ!))


これが絶対権力者である彼女が日常的に見ている光景なのか。

スゴイ。というかあまりにもヒエラルキーが可視化されすぎていて、隣を歩く一般人としてはひたすらにやりにくい。


そう思いながらも開かれた道を二人で悠然と歩いていくと、目の前の学内掲示板の全貌が視界に収まった。

その中央。最も目立つ場所に一枚の真新しい用紙がこれ見よがしに貼り出されている。


そこに羅列された活字を追った瞬間。

俺は思わず小さく息を呑み、全身の血液が急速に冷え切っていくような寒気を覚えた。

そこにあったのは紛れもない、権力の権化が振るった暴力の痕跡だったから——



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