第三節 過ぎ去りし日々(1)
マッカの礼拝堂は、バヌーアルジャバル王朝の時代に建立されたという。唯一神より天啓を授かり、ファルス、アラヴィアの地に新しき預言を布教したというマハムダートも、すでに神に召されてより五五0年。マハムダートの身罷りし地こそが、マッカの礼拝堂なのである。
ジェン・ヘは七日間の休暇を取ると、白衣を身に纏い礼拝にこの地へと来た。
大陸公路によって流通したのは、絹のみではない。信仰もまた人とともに行き来しており、神教天啓宗の教えもまた、東洋地方へと流入している。
ジェン・ヘの祖先はかつて、ファルスの民であり、代々天啓宗を信仰してきた。ジェン・ヘの父は特に、天啓宗教徒にとって最大の栄誉とされている聖地巡礼の夢を叶え、そしてジェン・ヘ自身もまた、自身の信仰のために聖地を訪れたのである。
礼拝の最中ジェン・ヘの脳裏には、亡き父とかつての婚約者の姿、遠き故郷での何気ない日々が浮かんでいた。
信仰の作法に従い、神殿の周囲を日の巡りとは逆方向に七周する。その歩みはまるで、これまでの記憶をたどるかのようであった。
長い夢だったようにも思う。大理王国に仕え、ジョンファに仕え、タカネ個人に忠誠を誓い、そして今はアルタイアそのものに仕えている。
信仰を守りたかった。村の仲間を守りたかった。そして何よりも婚約者を守りたかった。ずいぶんと自らの手のひらから零れ落ちた命がある。
祈りを捧げながら、何度も自問する。何故自分はここにいるのか、と。答えなどいまだに出ない。ただ、若き主君が何を成すのか見届けたい。その思いだけは確かであった。
公用暦一一八四年八月。
アルタイア連邦帝国はすでにファルス帝国との交渉を行っており、艦隊もまた沖合に待機し、上官たる彼の帰還を待ちわびていた。
窓辺に揺れる茉莉花を見つめながら、バイ・ツイは吐息を一つ吐いた。いまだ帰らぬ伴侶の後姿を思い浮かべながら。
花びらにそっと指で触れる。膝の上に幼子を、自らの子を寝かしつけながら。
「この歳になって、異国の地を踏むことになるなんてね……」
ジェン・ヘは今頃、神に祈りを捧げているのだろうか。神を呪いすらした自分には想像もできないが、彼は未だに信仰を捨ててなどいなかった。再会するまでの日々に何があったのか。聞いてみたい気持ちと、知れば後戻りできなくなるという不安とが、胸中に入り乱れる。
思い返すたびに身の毛もよだつ過去の影が、バイ・ツイをいまだに記憶の中に縛り付けている。生娘の象徴を奪われ尊厳をも失い、望まぬ子を身籠り、なおも続けられる夜の支配が。
「ジョンファの後宮から解放されたのは、本当に偶然だった……」
四年前のあの日、業火に包まれる宮廷に踏み入ったのは、黒衣黒甲の遊牧騎兵たちであった。北の蛮族と評されていた将兵たちである。また新たな凌辱の日々が始まるのか、と諦めにも似た恐怖に心を侵蝕されつつあったとき、黒衣黒甲の仮面をつけた騎士と視線が交錯した。
「エンギーン イルゲディーグ ハムガール。ティードニーグ フンデトゲルテイゲール アヴチ ヤヴ!」
仮面の騎士のその言葉は、今でも鮮明に思い出される。耳に馴染まぬ異国の言葉でありながら、一言一句違えることなく記憶されたのは、その声が雅楽器の如くに美しかったからであろうか。
他の誰よりも小柄な仮面の騎士は、こちらへと静かに歩み寄ってきた。相手はこちらの鳩尾までの背丈しかないにもかかわらず、こちらがその騎士を見上げているかのような息苦しさを覚えた。騎士は仮面を外し、こちらを見据える。人形のような顔立ちであった。
「ジェン将軍より言伝を預かっている。姓を鄭、名を和。この名に聞き覚えがあり雲南州に縁がある者ならば、連絡して欲しい、と」
華北では珍しい、江南訛りのあるジョンファ語であった。仮面の騎士の左右異なる色彩の瞳が、こちらの心を射抜く。その眼光の鋭さに圧され、思わず答えていた。
「ジェン将軍は無事だったの? 会いたい! 会わせて……」
「あなたがバイ・ツイ様ですね。客人として遇します。是非、ジェン将軍に会いにいらしてください」
バイ・ツイに向かって彼はそう告げると、再び仮面を装着した。
炎に包まれた宮城の中、彼は麾下の将兵に指示を出し、逃げ遅れた人々を退避させていく。そしてそれは黒騎軍による北平県の占領と、燕王府陥落とを意味していた。そして黒騎軍と周王一派は華北を完全に平定することとなるのだ。
あの時名も知らなかった仮面の騎士は、今ではアルタイアの至尊の座に君臨している。
一神教を掲げるファルスと、多神教のアルタイア。大陸公路両端の二つの国は一見水と油だが、いくつか共通する点も存在していた。
騎馬民族をルーツに持つこと、過酷な環境への適応、洋の東西を問わず学術を収集し研究してきた歴史、交易を重視することなどがそれに当たる。
バイ・ツイは東洋側の使節団の一人として、ファルスへと上陸していた。ジョンファやアルタイアにファルス人が多数定住しているように、ファルス国内にも東洋にルーツを持つ人々が定住している。バイ・ツイは実家の商家経営権を手中に収め、今新たな販路を開拓しようとしているのだ。
かつて愛したジェン・ヘとの日々に未練が無いわけではない。奪われた十年の歳月を埋めるために、バイ・ツイ自身が今猶、歳月を必要としているのだ。傍らに侍り、じゃれつく幼児を見やりながら思う。
「望まぬ子どもだからと、今まで愛せなかったけれど……」
それでも自ら産んだ息子を、いつの日にか愛せる様になりたいと思う。
「阿翠、君の産んだ子なら私の子だよ。血が繫がっていなくてもね」
そう声をかけてくれた、そして将来を誓い合ったジェン・ヘのためにも。息子であるバイ・フォンを抱き上げる。
「過去は消せないけれど、それでも歩いて行かないとね……」
癒えぬ傷を負いながらもそう心に誓うバイ・ツイの視線の先に、荒涼たる砂の野はただ広がっていた。
焼け爛れた熱砂は風とともに肌に纏わりつき、乾ききった空気は咽喉までをも焼き尽くす。照り返す砂の輝きが陽炎の如くに揺れ動き、意識まで刈り取ろうとしているかのようであった。
この様な大地だからこそ、絶対的な存在に救いを求めるのであろう。
多神教の名残りはすでに消え失せ、偶像はすべて砂の中に埋もれている。行き倒れた生物の死体は骨のみを残し、後には何も残らない。
「人の世は、どの様に巡るのかしらね……」
因果は巡るのか、最後の審判に歩んでゆくのか。
哲学にも似た問いかけを、あるいは信仰と呼ぶのかもしれなかった。そのようなことを考えながら、バイ・ツイは現在の夫を待つ日々を送る。
ジェン・ヘはどの様な思いで従軍し、巡礼に出ているのだろう。大理王国からジョンファ帝国へ、ジョンファ帝国からアルタイアへと、次々と仕える主を変えて来たと聞き及んでいる。外様の将軍であればこそ、気苦労も多かったに違いない。
「あなたは私に幸せになれと言ってくれた。だけど垃思……。あなたこそ、報われて欲しい。あなたの愛する人たちを、命がけで守り続けてきたあなただからこそ……」
心の中でジェン・ヘの字を呼び、そう語りかけるバイ・ツイであった。




