第三節 過ぎ去りし日々(3)
海峡を抜け、チェンラの主要港たるプレーク・マリーヴァンに総旗艦‘王狼’は入港した。アルタイアへの復路、国賓となる人物を出迎えるためである。
「陛下、お久しゅうございます」
タカネが港に降り立つなりその傍らへと駆け寄ってきたのは、チェンラ第六王女のチャントレアであった。肉付きの良いその腕でタカネの身体を包み込み、微笑みかける。彼女のその頬に、一筋の涙が伝う。
「わが父ヴァースナーと、貴国の宰相閣下に、アルタイアへの留学を承認して頂きました」
そしてチャントレアは少し頬を赤らめながら、タカネの耳元に囁きかける。
「不束者ですが、お願いしますね」
畳み掛けるチャントレアの勢いに、タカネはやや戸惑ったような表情を浮かべる。再び揶揄されていることにも気付かぬ様子であった。
「それはようございました。帝国は、王女殿下を国賓として歓迎します」
真顔で答えるタカネに、含み笑いをしながら小突くチャントレア。その光景は、タカネの方が小柄で年少であるにもかかわらず、大型の子犬に纏わり付かれる山猫を目にしているかの様であった。
「姫様、はしたのうございます。帝国の皆様に失礼ですから、どうかお控えくださいませ」
チャントレアの率いる侍女たちは、半ば青ざめながらも主君を嗜める。そんな侍女たちを見やって、タカネは不思議そうに首を傾げた。
「王女殿下御自らのお出迎え、光栄ですよ。お気になさらないでくださいね」
タカネのその一言に侍女たちは一斉に額を押さえ、頭を振った。
「神王陛下には、当国の帝をお救いいただきました。帝国はこの御恩に深く感謝しております。どうぞお伝えくださいませ」
アヌシュカの助け舟に、侍女たちはただ頷くばかりであった。
「また侍従長と女官長に折檻されるわね。警戒心が無さ過ぎるのよ、陛下は……」
主君を白い目で見るアヌシュカであった。
「アヌシュカには逆らえないわね。陛下、失礼しました」
居住まいを正したチャントレアの言葉に、アヌシュカは苦笑を浮かべる。
「個人的には、あなたたちの掛け合いは見ていたいんだけどね……。減給処分だけはもう嫌よ」
その言葉にタカネもまた、一瞬気まずそうな表情を浮かべた。
「減俸処分の件、後で詳しくお聞かせくださいね」
和やかな空気の裏で、使節団とチェンラ王国との間で実務調整は行われ、アルタイアまでの行程が確認された。
「陛下。あなたの故郷へと、私は行けるのね」
月明かりに照らされたチャントレアの表情は、彼女自身の名に相応しく、水面に揺れる望月さながらであった。
公用暦一一八四年の十月。
例年よりわずかに早い初雪が視界を染める。吐く息の白さにかすかに身震いすると、アヌシュカは宰相府へと足を運ぶ。
「毎年のことだけど、アルタイアの冬は馴染まないわね。私の肌には……」
遊牧の民の伝統衣装を身に纏っていても、肌を刺す冷気は容赦がなかった。
一度目の西海遠征直後に、アヌシュカが宰相府へ足を運ばなかったのは、帝国軍及び使節団の報告を受けるためにシャオユが多忙であったことと、アヌシュカ自身が疲労と風邪で二週間寝込んだことによる。
「馬鹿は風邪を引いたことに気付かない、とはよく聞く言葉だけれど、私、タカネのこと言えないわ」
さりげなく不敬に当たる言葉を呟くアヌシュカであったが、この国には不敬罪に相当する罪状はない。
「お久しぶりね、アヌシュカ」
顔を合わすなりそう微笑みかけるシャオユは、未だ二十代半ばである。アヌシュカより五年ほど年少だった。
「若いっていいわね、元気そうで。大年増にはまぶしく見えるわ」
「そう言うあなたも、まだ二十代でしょう?」
「半年にも満たない間に、ずいぶんとこの街も栄えたわね」
「元々港湾都市として栄えていたもの。それに、五年近くかけて都市計画を練ってきたんだから当然よ」
「変化の早さに、息切れしそうよ」
そんな軽口の応酬に、シャオユは嫋やかに笑みを漏らす。普段は取り澄ましているシャオユも、意外と笑いのツボが浅いことをアヌシュカは知っていた。シャオユの笑顔の奥に潜む疲労の陰を見てアヌシュカは思う。
こうして息抜きさせてあげないとね……。
自身の疲労に気付かぬほどに無理を重ねるところも、冗談一つで笑みをこぼすところもよく似たシャオユとタカネだ。力になりたいと何度思ったことか。執務室の書類を一つ一つ、仕分けしていく。
「片づけ終わったら一息つこうよ、伯英。久しぶりにゆっくり話したいから」
アヌシュカのその声に、小さく頷くシャオユであった。
「タカネも同じ結論なのね……」
目を伏せ呟くシャオユの声は、今にも消え入りそうであった。
最初はシャオユが不安に押しつぶされそうになっているのかと感じたが、どうやら異なるらしい。
「どのような手立てを考えても、総力戦を避けられないと知った時、タカネは辛かったでしょうね。モゴイドの可汗の下でも、ジョンファの内乱でも、タカネは最前線にいたから……」
戦の勝敗にかかわらず、骸を踏みしめ死臭の中をさまよい、事を決する。そのような最前線にタカネは立ち続けて来たのである。
シャオユは言った。助けすら求めず、死を望むほどの重傷を負った僚友を自ら介錯し、生き血をすすり、獣の汚物でさえ熱源とし、何度も生還してきたタカネ。その胸中は戦場を知らぬ人には推し量れない、と。
「感情移入しすぎるのよ、シャオユは……」
そう思っても、口には出さない。この深すぎる情愛が無ければ、閣僚たちはけしてシャオユの下につくことを潔しとしなかったであろう。
「戦場になど、戻りたくはないのでしょうね。タカネは」
そう呟いて窓の外を見つめる。遠い目をしたシャオユの表情は、女性から見ても美しい横顔であった。
「伯英はタカネと知り合って、どれぐらいになるの? タカネがあんなに寂しそうな微笑みを浮かべるのは、どうしてなの?」
その声に、シャオユは目を見開いた。
「そう……。アヌシュカは知らなかったのね……」
しばし瞑目し、シャオユは答えた。窓の外に舞い散る初雪の如くに、まるで囁くかのように。
「干支が一回りはしたわね。タカネと出会ってから。あの日の寒さと風の冷たさは、身を切るように痛かった……」
「教えてほしい。私も支えたいの。伯英、あなたが愛したあの人を」
一つ頷くと、シャオユは語り始めた。
それは、アヌシュカの知らぬタカネたちの過ぎ去りし日々。そしてすべては追憶の彼方なのだ。




