第一節 アルタイア公国(1)
その女性は、自らの子を「息子たち」と呼んだ。
アルタイア暦四七0年、公用暦一一七0年の一月のことである。
白鹿隊総監たるチェン・リーファは、第二十代アルタイア公爵マキより命ぜられ、族長家の血統を継ぐ者として二人の幼児を公都へと送還するべく、幼子の両親を説得しているのだった。
「母堂様。アルタイア・ウルスのさらなる発展と平穏のために今、御子息の力を必要としています。母堂様、そして御子息にとって酷な話とは重々承知していますが、どうかウルスのために……」
「そして、その様な重責を幼児に、息子たちに与えるというのですね」
母親の、その静かで穏やかな声が物事の本質をついて、相手を沈黙させる。ひんやりとした寂静の中に佇む二人の女性を、傍らの幼児たちはただ、円らな瞳で見上げていた。
幼児たちの名は、タカネとシラネ。一卵性の双生児であった。母親に似て美しく、黒く艶やかな髪と雪白の肌、そして淡い桜色の唇を持つ。
唯一異なるのは、彼らの瞳の虹彩だった。
タカネは怜悧で優しげな印象を与える漆黒の右目と、心を射抜いて突き刺すような冷ややかな青さの左目を持つ。一方のシラネは年相応の、人懐っこい秋の陽射しを思わすその温かな褐色の両眼を瞬かせている。
男の子と称するには、彼らの顔立ち、体つきは繊細に過ぎた。
そしていくら彼らが強靭な体力の持ち主でも、幼児とは思えないほどの利発さを宿していても、所詮二人の才幹はいまだその歳相応以上の能力を越えるものではないということを、母であるアルタイア・ハルキは知っているのだった。
「この子たちが本当にあなた方の役に立つとは思えないけれど、それでも構わないのね?」
ハルキは、チェン・リーファが説得をいまだ諦めていないことを悟ると、そう声をかけた。それは半刻にわたる静寂の末に発せられた。まるで冬枯れの木立を揺らす乾いた微風の如くに。
ハルキの淡い藍色の瞳の光が、チェン・リーファただ一人の目に注がれる。
その目の色の深さに、チェン・リーファは相手が深い知性を持った女性であることを悟った。弁舌で勝てるとはけして思えず、あえてその力量を競おうとも思わなかった。
チェン・リーファは答える。
「私が率いる白鹿隊によって、責任を持ってこの子たちをお預かりします。この子たちには、かなり高度な教育も施せることと自負しています。」
思ったより声はかすれていない。しかし相手は静かに佇んでいるだけなのに、他者を圧倒する雰囲気を持ち合わせていた。
さすがアルタイア公爵家の姫君。
チェン・リーファはそう思った。かすかにハルキが吐息をつく。
「まだこの子たちは、とても手のかかる時期。あなた方の職務も大変でしょうに、この子たちまで抱え込んでしまったらさらに大変では?」
もっともな懸念である。相手を納得させるために、チェン・リーファはもう一つ白鹿隊の機密を明かす必要を感じた。
「私が率いる白鹿隊は、確かに諜報活動を担う精鋭部隊ですが、アルタイア公爵閣下より、もう一つの任務を与えられているのです。次世代を担うべき若者、特に軍事に秀でた者を養育することこそ、小官の優先するべき任務です」
ハルキはその淡い色彩の瞳を、チェン・リーファに向けていた。心の奥底の、まるでその深淵まで覗き込もうとしているかのように。そして彼女は一つため息をつくと、苦笑を浮かべる。
「この子たちが野にある黒馬を連れて来た時、この日が来ることは覚悟していました。子はいずれ巣立ち羽ばたいていくものです。息子たちのこと、どうかお願いね」
ハルキのこの時の表情は、あまりにも柔和であった。心の奥底に何を秘めているのか読ませないほどに。
「タカネ、シラネ。あなたたちはどうしたい?」
母の問いかけに、シラネは首を傾げタカネの背に縋り付いた。秋の落ち葉のような色彩のその瞳は、チェン・リーファの方へと向けられていた。初対面の相手に人見知りしつつも、どこか興味を持っているかのようでもあった。そんなシラネの頭を撫で、タカネは母の顔を見上げた。
「母上。私はリーファ様とともに参ります。外はどんなところか、見てみたいです」
「僕も行く。兄上、一緒に行く」
タカネの身体にしがみつき、シラネも言葉を発する。
「そう。では行きなさい」
微笑み一つ浮かべぬハルキではあったが、彼女の一言は‘生きなさい’と伝えている様でもあった。
タカネはチェン・リーファの方へと向き直り、頭を下げた。
「リーファ様。これから、ご指導よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね、公太孫殿下」
そしてチェン・リーファは心に誓うのだった。残された時間の限り、彼らを育もうと。アルタイア公爵家の後継者になろうとも、なれずとも、自ら道を切り開いていく遊牧の民として。
「チェン総監閣下。もし差支えないのであれば、我が家に泊まっていきなさい。これから宿を探すおつもりでしょう?」
ハルキの言葉に、チェン・リーファは目を見開いた。
「ありがたい申し出で御座います。ですが、よろしいのですか?」
「上の子はともかく、シラネは人見知りだもの。あなたの存在に慣れさせておきたいのよ」
この日何度目かの苦笑を浮かべるハルキであった。兄の背に縋り付き大人たちを見上げるシラネはまるで、捕食者を前にした小動物のようであった。
翌朝、二人の幼子は母の下を発つ。タカネは森に向かい、何度か指笛を吹いていた。緑を残しながらも、針のように鋭い葉をつける木々を揺らし、雪がなだれ落ちる。
貼れた冬の朝であった。透き通るかのような蒼穹は、朝日を受けてなお色が深く、白い日差しの中に、光りを受けて煌めく粉が舞っていた。息を吸うたびに肺までも凍りそうな容赦のない冷気に、チェン・リーファは何度も身震いする。
「これが細氷と呼ばれる現象なのね……」
内陸部や高原地帯ではよく起こると言われる細氷であったが、チェン・リーファがそれを見るのは初めてであった。
しばらくすると、タカネの下に十頭ほどの黒馬が集まってきた。アルタイア馬の群れである。
「あなた、その馬…」
チェン・リーファのその呟きを、三十ウル(三十メートル)ほど離れた位置にいるタカネは聞き取った。
「綺麗な馬でしょう? 去年、草むらで寝てたら起こしに来てくれて、背中に乗せてくれたんです」
そう言ってタカネは、あどけない笑顔を向ける。
群れを率いる牡馬は立派な個体であった。肩までの高さだけでもチェン・リーファの背丈を優に超える。濡れ羽烏よりも光沢のある黒い毛並に、豊かな毛量を誇る鬣と尻尾。タカネには気軽に触れさせるものの、こちらへは冷ややかな眼差しを向けてくる。まるで胡乱な人物を目の前にしたかの如くに。
タカネは牡馬に何かを囁きかけた。もちろんチェン・リーファの耳では聞き取ることなど出来なかったが。
「リーファ様。早くお婆様にお会いしたいです。公都までの案内お願いします」
タカネは牡馬に、そしてシラネは一番小柄な牝馬に、それぞれ跨った。その動きは目で追えないほど滑らかな、武人の騎乗であった。
アルタイア馬は完全な野生馬である。鞍や鐙はおろか、手綱でさえ着用を拒む。それでも猶二人の目に恐れはなく、生粋の遊牧民であることを証明して見せた。その光景に、チェン・リーファはただ驚くばかりだ。
この子たちならば、もしかしたら……。
淡い期待が胸に湧き起る。チェン・リーファは振り返ると、ハルキに声をかけた。
「この子たちをお預かりいたします。必ず一廉の人物に育て上げます」
ハルキはかすかに微笑んだだけであった。母子の間に別れの言葉はない。馬上からタカネは母親に一礼した。まるで今生の別れを惜しむかのような表情をその瞳に映して。
あまりにも静かな別れであった。
ただ凍てついた大地に風が吹き抜けていく。子らの代わりに泣くかのように。




