届け、命を繋ぐ薬
やがて煙が薄れ、気づけば崖は木々の向こうに見えなくなっていた。
それでも僕たちは足を止めず、山道を走り続けた。
背後から聞こえていた魔物の唸り声もいつしか消え、今では自分たちの荒い呼吸と、地面を踏みしめる足音ばかりが耳に届いている。
「……はぁ、はぁ……」
もう脚が思うように上がらない。
何度も躓きそうになりながら、それでも必死に走っていると、前を行くカイルさんがようやく速度を緩めた。
「……どうやら、振り切ったみたいだな」
そう言って振り返ったカイルさんも、肩を大きく上下させていた。
裂けた袖から覗く腕には血が滲み、頬にも傷ができている。
「カイルさん、これを飲んでください」
僕はゴレムが抱えていた荷物からポーションを一本取り出し、差し出した。
「ああ、助かる」
カイルさんはすぐにポーションを受け取ると、栓を抜いて一息に飲み干した。
すると、腕や頬にできていた傷が少しずつ塞がっていく。
「よし、これで大丈夫だ」
カイルさんは腕を軽く動かして具合を確かめると、僕が抱えているネフィラ草へ目を向けた。
「それより、ネフィラ草は無事か?」
「はい!」
僕は胸に抱えていたネフィラ草を確かめた。少し葉が折れ曲がってしまったものの、調合に使う分には問題なさそうだ。
「よし。だったら先を急ごう」
傷は治っても、ここまでの戦いで消耗した体力まで戻ったわけではない。
それでも山の奥では、今もギルさんたちが魔物と戦っているはずだ。
一刻も早く向かわないと。
僕はネフィラ草を大切に抱え直し、再びカイルさんのあとを追った。
ゴレムたちも荷物を抱え、僕たちについてくる。
崖から落ちたときに助けてくれた子たちも、今は何事もなかったかのように歩いていた。
その姿を見て、少しだけ胸が温かくなる。
さっきは本当にありがとう。
心の中でもう一度お礼を言い、僕は前を向いた。
辺りはすっかり薄暗くなり、木々の間から差し込む夕日の光も弱くなっている。
足元の岩や木の根に気をつけながら歩いていると、前方を進んでいたカイルさんが突然足を止めた。
「……待て」
「え?」
カイルさんが片手を上げ、僕を制する。
何かあったのだろうか。
そう思って耳を澄ませると、遠くから微かに何かが聞こえてきた。
ガキンッ――!
金属がぶつかるような甲高い音。
続いて、獣のような唸り声と、何かが激しく地面へ叩きつけられる音が響いてくる。
「……戦ってる」
カイルさんが小さく呟いた。
次の瞬間、その表情が険しくなる。
「ギルたちだ!」
「本当ですか!?」
「ああ。間違いない!」
そう言うなり、カイルさんは音のする方へ駆け出した。
僕も慌ててそのあとを追う。
木々の間を抜け、岩の多い斜面を回り込むと、やがて前方が開けた場所に出た。
そこで目にした光景に、僕は思わず息を呑んだ。
「ギルさん……!」
切り立った岩壁の下に、ぽっかりと口を開けた洞窟があった。
その手前では、四人の冒険者が魔物たちと激しい戦闘を繰り広げている。
どうやら、背後を取られないように、岩壁を背にして戦っているらしい。
正面から次々と襲いかかってくる魔物を、四人は互いに庇い合いながら必死に食い止めていた。
けれど、その姿はソルシエールで会ったときとはまるで違っていた。
ギルさんの鎧には幾つもの傷が刻まれ、剣を握る腕も重そうに見える。
その隣では、ガルドさんが大きな盾を構え、次々と襲いかかってくる魔物を必死に押し返していた。
「ぐっ……!」
魔物が盾へ体当たりするたびに、ガルドさんの身体が大きく揺れる。
それでも一歩も退かず、背後にいる仲間たちを守っていた。
少し離れた場所ではリナさんが弓を構えていたが、矢を放つ動きにはいつものような鋭さがない。
そしてミレイユさんは杖を握ったまま、岩壁に背を預けるようにして立っている。
魔力を使い果たしてしまったのだろうか、顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだ。
「そんな……」
四人に襲いかかっている魔物は、さっき崖で遭遇したものと同じような狼の姿をしていた。
けれど、その数は比べものにならない。
一体を退けても、別の一体がすぐに飛びかかってくる。
ギルさんたちは互いを庇い合いながら、何とか魔物たちの攻撃を凌いでいた。
「くそっ、まだ来るのか!」
ギルさんが吐き捨てるように叫び、迫ってきた魔物を剣で斬り払う。
しかし、その直後には別の魔物が横から飛びかかってきた。
「ギル!」
ガルドさんが盾を突き出し、間一髪でその攻撃を防ぐ。
鈍い衝撃音が響き、ガルドさんの膝が僅かに折れた。
「……っ、すまん!」
「構うな! 前を見ろ!」
そんなやり取りを交わしながらも、二人の呼吸はひどく荒い。
もう、限界が近いんだ。
そう感じた瞬間、隣にいたカイルさんが短剣を握り直した。
「……間に合った」
その声には安堵が滲んでいた。
けれど、すぐに表情を引き締めると、僕の方へ向き直る。
「ルーク、ポーションを!」
「はい!」
僕がゴレムたちへ目を向けると、荷物を抱えていた一体がすぐに近づいてきた。
その中には、ソルシエールから持ってきたポーションが入っている。
「これをギルさんたちに……」
そう言いかけたところで、僕は洞窟の方を見た。
魔物たちは四人の正面に群がり、少しでも隙ができれば飛びかかろうとしている。
あの中へ、どうやってポーションを届ければいいんだろう。
僕が戸惑っていると、カイルさんが魔物たちの動きを確かめながら口を開いた。
「俺が奴らの注意を引く。その間にゴレムをギルのところへ向かわせてくれ」
「えっ!? でも、カイルさんは……!」
「大丈夫だ。さっきのポーションのおかげで傷は治ってる」
そう言って短剣を構え直す。
「こいつらなら、荷物を持ったまま走れるんだろ?」
「はい。それは大丈夫ですけど……」
「だったら頼む。俺が道を作る」
その横顔を見て、僕は言葉を呑み込んだ。
傷は治っても、疲れまで取れたわけじゃない。
それでも、カイルさんは仲間を助けるために再び戦おうとしている。
「……分かりました!」
僕はポーションを抱えたゴレムに向き直った。
「お願い。カイルさんが魔物を引きつけている間に、ギルさんたちのところまでこれを届けて!」
ゴレムは小さく頷き、荷物をしっかりと抱え直した。
「よし……行くぞ!」
カイルさんは腰のポーチに手を伸ばし、小さな玉を取り出した。
煙玉だ。
さっき崖で魔物たちから逃げるときにも使っていたものだった。
「これが最後の一個だ。うまく使わないとな」
そう呟くと、カイルさんは魔物たちの動きを見極めながら、岩壁の方へ駆け出した。
「ギル! 今戻ったぞ!」
その声に、魔物と戦っていたギルさんが顔を上げる。
「カイル!?」
「薬を持ってきた! 今届ける!」
カイルさんは魔物の群れの側面へ回り込むと、手にしていた煙玉を勢いよく投げつけた。
地面に落ちた煙玉が弾け、たちまち白い煙が辺りに広がっていく。
突然視界を遮られた魔物たちは、戸惑ったように足を止め、低い唸り声を上げた。
「こっちだ!」
カイルさんは煙の外側を走りながら、姿を現した魔物に短剣を振るった。
攻撃を受けた魔物が怒りの声を上げると、近くにいた別の魔物たちも次々とカイルさんの方へ向き直る。
その隙に、ギルさんたちの正面にわずかな空間が生まれた。
「今だよ!」
僕の声に応えるように、ポーションを抱えたゴレムが駆け出した。
白い煙が漂う中、小さな身体で地面を蹴り、魔物たちの間を縫うように走っていく。
「お願い……!」
僕は祈るような気持ちで、その後ろ姿を見つめた。
ゴレムがギルさんたちのもとまであと少しというところで、煙の向こうから現れた一体の魔物が、その姿に気づいた。
「危ない!」
思わず声を上げたものの、ここからでは助けに入ることもできない。
魔物が牙を剥き、小さな身体へ飛びかかろうとした、そのときだった。
「させるか!」
ギルさんが横から剣を振るい、魔物を斬り払った。
その隙にゴレムは魔物の脇を駆け抜け、ようやくギルさんの足元へと辿り着く。
「ゴレム……? まさか、ルークも来ているのか!?」
驚いたように声を上げるギルさんに、離れた場所からカイルさんが叫んだ。
「ギル! そいつがポーションを持ってる!」
ギルさんが視線を落とすと、ゴレムは抱えていた荷物を差し出すように持ち上げた。
「……助かった!」
ギルさんはすぐに荷物を受け取り、中からポーションを取り出した。
「ガルド! リナ! ポーションだ!」
「本当か!?」
「こっちにもお願い!」
ガルドさんが盾で魔物を押し返している間に、リナさんが駆け寄ってポーションを受け取る。
ギルさんも一本飲み干すと、再び剣を握り直した。
傷が癒えたことで、少しだけ動きに余裕が戻ったように見える。
よかった。
けれど、まだ安心はできない。
魔物たちの攻撃は続いているし、ミレイユさんは杖を握ったまま、苦しそうに息をしている。
普通のポーションでは、傷は癒せても、失った魔力を回復させることはできない。
僕は胸に抱えていたネフィラ草へ目を落とした。
――今度は僕の番だ。
「エルム、手伝って!」
肩に乗っていたエルムが、僕の声に応えるように小さく動いた。
僕はゴレムたちにも声をかけ、調合道具の入った荷物を下ろしてもらう。
ここなら戦っている場所から少し離れているし、周囲には身を隠せそうな岩もある。僕はその陰に膝をつくと、ソルシエールで準備してきた材料と道具を取り出した。
ネフィラ草さえ手に入れば、すぐに作れるところまで準備してある。あとはミスティラさんの本に書かれていた手順に従って、調合を進めるだけだ。
まずは蒸留の準備をしないと――。
「エルム、火を起こすから、燃やせそうな小枝や枯れ葉を集めてきてくれる?」
僕がそう頼むと、エルムは肩から飛び降り、近くの木々の方へ駆けていった。
その間に、僕は荷物から蒸留器を取り出し、慎重に組み立てていく。
崖を登った疲れのせいか、細かな器具を扱う指先が少し震えていたけれど、何とか準備を整えることができた。
用意しておいた薬液を容器へ移したところで、エルムが戻ってきた。
小さな身体で抱えきれないほどの小枝を抱え、その後ろからは、枯れ葉を持ったゴレムもついてきている。
「ありがとう」
エルムたちが集めてくれた小枝や枯れ葉を蒸留器の下に組み、僕は荷物から火打石を取り出した。
あとは火をつけるだけ。
そう思って火打石を打ち合わせたものの、小さな火花が散るばかりで、枯れ葉に火が移らない。
カチッ、カチッ。
「……あれ?」
いつもなら、それほど難しい作業じゃないはずなのに。
もう一度試そうとして、手が震えていることに気づいた。
崖を登ったときの疲れが残っているのだろうか。それとも、すぐ近くで続いている戦いが気になっているのか。
火打石を握る指先にうまく力が入らない。
早くしないと、ギルさんたちが危ないのに!
そう思えば思うほど気持ちばかりが焦り、何度も火打石を打ち合わせているうちに、とうとう手元から取り落としてしまった。
「あっ……!」
慌てて拾おうとした僕より先に、小さな手が火打石を持ち上げた。
エルムは火打石を僕に差し出すと、今度は枯れ葉の方へ歩いていき、火がつきやすいように小枝の隙間へ押し込んでくれた。
僕は火打石を受け取り、もう一度向き直る。
大丈夫。
落ち着いてやれば、できるはずだ。
今度は火打石をしっかりと握り、枯れ葉に向けて慎重に打ち合わせた。
カチッ――。
散った火花が枯れ葉に落ち、小さな赤い光が生まれた。
消えてしまわないようにそっと息を吹きかけると、やがて小枝にも火が移り、小さな炎が上がった。
「ついた……!」
ようやく火を起こせたことに安堵したのも束の間、背後から激しい衝撃音が響いた。
「ぐあっ!」
思わず顔を上げると、ガルドさんが魔物の体当たりを受け、大きく後ろへ押し込まれていた。
ギルさんがすぐに援護に入ったものの、その隙を狙うように別の魔物たちが迫っている。
まだ、戦いは終わっていない。
僕は唇を噛み、再び蒸留器へと向き直った。
火の勢いを確かめながら蒸留器を加熱すると、やがて容器の中から細かな泡が立ち始めた。
蒸気が管を通り、冷やされて液体へと戻っていく。
ぽたり、ぽたりと受け器に滴が落ち始めるのを見て、僕はようやく小さく息を吐いた。
蒸留は始まった。
あとは火加減に気をつけながら、必要な分を集めていけばいい。
エルムが隣で器具の様子を確かめてくれている。
僕も蒸留器から目を離さないようにしながら、次の工程に使うネフィラ草を手元へ引き寄せた。




