戦えなくても
僕は崖の下を歩きながら、岩の隙間や僅かに土の露出している場所へ目を凝らした。
ネフィラ草の特徴は頭に入っている。
細長い葉と、その中央を走る青みがかった葉脈。
見落とさないよう、一つ一つ確かめていく。
「……あっ」
崖の途中に、何枚かの細長い葉が伸びていた。
薄暗くなり始めているせいで、ここからでは細かなところまでは見えない。
それでも、葉の中央には青みがかった筋が走っている。
ミレイユさんから聞いた特徴とも、本で見たネフィラ草とも一致していた。
「カイルさん、あそこです」
僕は崖の途中を指差した。
「あったのか?」
「はい、多分ネフィラ草だと思います」
カイルさんが僕の指差した先を見上げる。
そのときだった。
ガサッ――。
背後の茂みが大きく揺れた。
カイルさんが素早く振り返り、僕を庇うように一歩前へ出る。
その手はすでに腰の短剣へ伸びていた。
「ルーク、俺から離れるなよ」
さっきまでとは違う低い声に、僕の身体にも緊張が走る。
「ちっ……」
小さく舌打ちしたカイルさんの視線の先で、茂みが再び揺れ、その奥から一体の魔物が姿を現した。
狼によく似た姿をしているけれど、その身体は普通の狼よりもずっと大きい。灰黒色の毛に覆われた身体には鋭い爪が伸び、開いた口からは太い牙が覗いている。
暗赤色の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
さらに、別の場所からも低い唸り声が聞こえる。
一体。
二体。
視線を向けると、木々の間から同じ姿をした魔物が次々と現れた。
「四匹か……」
崖を背にした僕たちを囲むように、魔物たちがじりじりと距離を詰めてくる。
だが、すぐには襲いかかってこない。
低い唸り声を漏らしながらこちらの様子を窺い、カイルさんも短剣を構えたまま、その動きをじっと見据えている。
張り詰めた空気の中、魔物が地面を掻く爪の音だけが聞こえる。ほんの僅かな時間のはずなのに、僕にはそれがやけに長く感じられた。
やがて、その均衡を破ったのは正面にいた一体だった。
牙を剥くと、地面を蹴って一気にこちらへ飛びかかってくる。
カイルさんは振るわれた鋭い爪を身を捻って躱し、そのまますれ違いざまに短剣で脇腹を斬りつける。
「ギャンッ!」
魔物が悲鳴を上げて地面を転がるが、すぐに起き上がると、牙を剥いて再びこちらを睨みつけた。
その隙を狙うように、今度は別の一体が横から迫ってくる。
すると、僕のそばにいたゴレムが抱えていた荷物を放り出し、そのまま飛びかかってきた魔物へ勢いよく体当たりする。
不意を突かれた魔物の身体が横へ弾かれた。
さらに二体のゴレムがすぐに僕の前へ回り込み、魔物たちから僕を守るように立ちはだかる。
「ゴレム……!」
僕を守るように立つ小さな背中の向こうでは、カイルさんが魔物を相手に短剣を振るっている。
このまま僕だけ、守られているわけにはいかない。
そう思って腰のナイフへ手を伸ばし、鞘から抜こうとする。
けれど、柄を握ったところで、自分の手が小さく震えていることに気づいた。
震える手から視線を上げると、カイルさんは魔物を前にしても臆することなく戦っていた。
それに比べて、僕はナイフを握るだけで精一杯だ。
もし僕がこのまま前に出たら、どうなる?
魔物の動きを見切れる自信なんてない。
それどころか、僕まで戦いに加われば、カイルさんは僕のことまで気にしながら戦わなければならなくなる。
助けるどころか、余計な負担を増やしてしまう。
「……くそっ」
悔しかった。
こんなときでも、僕には何もできない。
ふと、幼い頃に窓越しから眺めていた兄様たちの姿が脳裏をよぎった。
朝早くから庭で剣を振るう兄様たちを、僕はいつも部屋の中から見ていた。
あのとき感じていた悔しさと、今の気持ちはどこか似ている。
また僕は、見ていることしかできないのか。
ナイフを握る手に、自然と力が入った。
だけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
弱いことを悔しがっていたって、目の前の状況は何も変わらない。
だったら、今の僕にできることを考えないと!
「――ルーク!」
カイルさんの声が飛んできた。
「ここを離れるぞ!」
「えっ?」
「このままじゃまずい! それに、これ以上数が増えたら、逃げることすらできなくなる!」
――カイルさんの言う通りだ。
今だって僕が戦えないせいで、カイルさんは魔物だけじゃなく、こちらまで気にしながら戦っている。
これ以上数が増えれば、完全に足手まといになってしまう。
けど――
ここで引き返せば、あれを置いていくことになる。
「カイルさん!」
僕は崖を見上げた。
「少しだけ時間をください! ネフィラ草がそこにあるんです!」
「駄目だ! 今の状況が見えないのか!」
「お願いします。少しだけでいいんです!」
思わず声を張り上げる。
カイルさんが一瞬だけ僕を見る。
その間にも、魔物の一体がゴレムへ飛びかかり、その身体を押し倒そうとしていた。
「一分だ!」
「え?」
「一分だけ時間を稼ぐ! それまでにネフィラ草を取ってくるんだ!」
「はい!」
僕はすぐに崖へ駆け寄った。
ネフィラ草が生えているのは、それほど高い場所じゃない。
それでも、まともに崖を登ったことのない僕には十分な高さだった。
岩の出っ張りへ足をかけ、両手で掴めそうな場所を探す。
腕に力を込め、身体を持ち上げた。
「くっ……!」
慣れない動きに、岩を掴んだ腕がすぐに震え始める。
そのうえ、ここまで山道を歩いてきたせいで足にも疲れが溜まっていて、身体を持ち上げるたびに息が上がる。
それでも、足をかける場所を確かめながら少しずつ登っていく。
下から魔物の唸り声と、何かがぶつかる激しい音が聞こえてくる。
振り返っている余裕はない。
僕は必死に身体を持ち上げ、やがて葉が手の届くところまで近づいた。
僕は片手で岩にしがみついたまま、その葉を間近で確かめる。
細長い葉。
その中央を走る、青みがかった葉脈。
間違いない。
ネフィラ草だ。
僕は岩を掴んだまま慎重に手を伸ばし、必要な分だけを傷つけないように採っていく。
「取れた……!」
僕にだって、できることはある。
戦うことはできなくても、こうして誰かの力になることならできるんだ。
ネフィラ草を手にした瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
よかった。
これで――
そう思った、そのときだった。
身体を支えていた腕から、ふっと力が抜ける。
ずるっ――。
同時に、足をかけていた場所から靴底が滑った。
「え?」
身体が崖から離れる。
その瞬間、時間が急にゆっくりになったような気がした。
さっきまで目の前にあった岩肌が、少しずつ遠ざかっていく。
岩の隙間には、採りきらずに残したネフィラ草の葉が見えた。
細長い葉が、何事もなかったかのように風に揺れている。
そんな光景だけが、不思議なくらいはっきりと目に映った。
咄嗟に岩へ手を伸ばした。
けれど、もう届かない。
指先が空を掻く。
落ちる――!
反射的にネフィラ草を胸へ抱え込んだ。
これだけは何としても守らなくちゃ――。
次の瞬間には目を固く閉じ、来るはずの衝撃に身体を強張らせていた。
どんっ――!
「ぐっ……!」
強い衝撃が身体を突き抜ける。
けれど、覚悟していたような痛みは襲ってこなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
目に入ったのは、薄暗くなり始めた空だった。
地面に叩きつけられたはずなのに、背中に感じる感触は硬い地面とは違う。
僕はネフィラ草を胸に抱えたまま、ゆっくりと身体を起こす。
「みんな……」
そこで初めて、何体ものゴレムが僕の下に折り重なるようにしていることに気づいた。
彼等が身体を張って、僕を受け止めてくれたんだ。
さっき山道で転びかけたときも、今も、この子たちは僕を助けてくれた。
「ありがとう……」
「ルーク、無事か!」
カイルさんの声に、はっとして顔を上げる。
そうだ。
まだ魔物はすぐ近くにいる。
「はい! 大丈夫です!」
カイルさんは魔物から目を離さないまま、僕の方へ少しずつ下がってくる。
その姿を見て、息を呑んだ。
服の袖が大きく裂け、その下の腕から血が流れている。
頬にも浅い傷が走り、呼吸も荒い。
僕が崖を登っている間、ずっと一人で魔物たちを食い止めてくれていたんだ。
「カイルさん、その傷……」
「これくらい平気だ。それより――」
迫ってくる魔物を睨んだまま、カイルさんが懐へ手を入れる。
「すぐにここを離れるぞ!」
取り出したのは、小さな球だった。
カイルさんはそれを魔物たちの間へ投げつける。
ボンッ!
乾いた音とともに、白い煙が一気に噴き出した。
「グルッ!?」
突然の煙に魔物たちの動きが止まる。
「今だ、走るぞ!」
「はい!」
僕はネフィラ草をしっかりと胸に抱え、急いで立ち上がった。
ゴレムたちもすぐに動き出す。
「こっちだ!」
辺りには白い煙が立ち込め、魔物の影がぼんやりと浮かんでいる。
一体の魔物が、突然広がった煙に戸惑ったように辺りを見回していた。
その隙を、カイルさんは逃さなかった。
走る勢いのまま一気に距離を詰め、魔物がこちらに気づいて顔を向けたときには、もう目の前まで迫っていた。
短剣が鋭く振り抜かれる。
「ギャンッ!」
刃が首元を深く斬り裂き、魔物の身体が地面へ倒れ込む。
「止まるな!」
「はい!」
僕たちは倒れた魔物を振り返ることもなく、その脇を駆け抜けた。
背後からはまだ魔物たちの唸り声が聞こえてくる。
それでも足を止めず、白い煙の中をひたすら走り続けた。
やがて煙が薄れ、気づけば崖は木々の向こうに見えなくなっていた。




