第4章 東方の血色ウロコ
第一幕:上海の雨と偽りの少女
「カラ……ズズッ……」
深夜の事務所内は薄暗く、暖炉の残火がただ怪しく、虚しく明滅しているだけだった。
コルヴォスが足を踏み入れようとしたその瞬間――。
左腕の「暗金の義手」が、前触れもなくガタガタと激しく震え始めた。本来は重厚な暗金色であるはずの金属表面が、まるで煮え滾る溶岩のような焦げた赤光を帯び始め、ルーン符文からは刺すような鼻をつく焦げ臭さがもうもうと立ち上る。義手の内部で、何か不気味なものがじわじわと肉と金属を溶かしながら燃え広がっているかのようだった。
「ぐっ……っ……!」
コルヴォスは低く呻き声を漏らし、あまりの耐えがたき激痛のあまり、その場で両膝をついた。
震える右手で、左肩の複雑な機械接合部を必死に押さえ込む。その肉体の縫合部から見える皮膚は、目に見えるほどの速さで生気を失い、死んだような灰黒色へとみるみる変色していき――まるで彼の命そのものが、そこから吸い取られているかのようだった。
――これこそが、禁忌の「滅魔砲」を過剰に使用した代償であった。
あの一撃は、一瞬にして魔物を原形すら留めぬほどに蒸発させる絶大な威力を誇るが、その破壊的な魔力の代償として「魔燼」を生み出し、残された生身の肉体を逆方向から容赦なく蝕んでいく。
もしその蝕みが彼の心臓まで到達してしまえば、彼は二度と元に戻ることはできず、理性を完全に失った「暴走する鋼鉄の魔物」へと成り果ててしまうのだ。
「――やっぱりねッ! 聞く耳持たないこの大バカ野郎が、また出力を限界まで上げたでしょッ!」
突如、地下室へと通じる重い木扉が、ガタァンと勢いよく蹴り開けられた。
そこに響き渡ったのは、少女の甲高く、しかし怒りと心配がごちゃ混ぜになった激怒の声だった。その叫び声が、壁際にかけられたランプの灯りを大きく揺らす。
現れたのは、あちこちに機械油のシミがついた茶色の頑丈な革エプロンを身にまとった一人の少女――レイラであった。
彼女は荒々しく駆け寄ると、問答無用でコルヴォスの右腕をガシッとひったくるように掴み、そのまま地下の薄暗い錬金工房へと彼を引きずり込んだ。
その亂暴な手つきには隠しきれない極限の心配の色が滲んでおり、コルヴォスを冷たい鋼鉄製の特製手術椅子へとドンと手荒く押し掛けた。
「あと半時間遅かったら、アンタの左の肺まで完全にガラクタのクズになるところだったわよ……!」
レイラは歯を食いしばり、精密魔力抽出装置をゴロゴロと転がして引き寄せると、手慣れた手つきで封印のルーンが刻まれた銀色の針をコルヴォスの左肩のツボへと正確に打ち込み、魔燼の拡大をひとまず封じ込めた。
続いて厚手の耐熱革手袋をはめ、青い光を放する魔導ドライバーを握りしめると、暗金義手の外甲の解体を容赦なく開始する。
「ここから……少し痛むわよ。死ぬ気で歯を食いしばりなさい」
「……勝手にしてくれ」
コルヴォスは血の気の一切引いた青ざめた顔で冷や汗を流していたが、その水晶の右眼だけは波一つ立たないほどに平穏だった。
「ジジジジッ――!」
ネジと精巧な歯車が次々と外されるにつれ、内部から煮えたぎるような魔性の蒸気が激しく噴き出し、レイラはピンセットを巧みに使って、完全に焼き尽くされて炭と化した魔力コアを素早く引き抜いた。
コアが引き抜かれたその瞬間――神経を直接直撃する桁外れの激痛によって、コルヴォスの全身の筋肉がバネのようにビクリと跳ね上がり、彼の右手は椅子の背もたれをガチリと強く掴み締めた。頑丈な鋼鉄の背もたれには、痛々しい深い指跡が刻み込まれる。
レイラは手際よく冷却液を注ぎ込みながら、怒りをぶつけるようにまくし立てたが、その声は微かに、震えていた。
「『滅魔砲』はアンタが生き残るためのものであって、雑魚散らしに使うものじゃないのッ!」
処置を終え、彼女はふうと大きく息を吐き出すと、額のゴーグルをカチャリと外した。
彼女は目の前に座るコルヴォスの顔へと急接近し、その細くしなやかな指先に温かな緑色の治癒魔力をふんわりと宿らせると、彼の冷たい眼の縁をそっと優しく撫でた。
「クロードとの視覚共有はね、アンタの脳神経に想像を絶する負荷をかけてるのよ……最近また、あのときの幻覚を見るんでしょ?」
「……たまにだ。十年前の、あの火災の炎が脳裏をよぎる」
レイラはふっと手を引っ込めると、道具を整理するためにわざと背を向けてトーンを落とした。
「パパが消息を絶つ直前、私に一番よく言っていた言葉はね……『あの子に、本当に申し訳ない』だったわ。コルヴォス、頼むから、勝手に無茶をしてあっけなく死なないでよ」
「レイブン先生を必ず見つけ出し、あの夜のクズどもを全員この手で地獄に送るまでは……俺は、絶対に死なん」
コルヴォスは再び完全な輝きを取り戻した暗金の左腕を、ゆっくりと力強く動かした。金属の精巧な関節が、清涼で力強い噛み合わせの音を立てて、彼の揺るぎない誓いに応えてみせる。
その時、棚の上に止まっていた魔鴉のクロードが高らかに鳴き声を上げ、まるで主人の決意に力強く賛同しているようだった。
レイラは特製の「抑魔薬」の小瓶を彼の懐へと放り投げた。
「最新調合の特製安定剤よ。今度また勝手にその腕を溶かして帰ってきたら、この薬に苦い黄連を限界までぶち込んで、その苦さで盛大に悶絶させてあげるから!」
血と底知れぬ復讐に満ちたこの過酷な世界において。
このひんやりとした地下工房と、毒舌を吐きながらも自分を救おうとするこの少女の背中こそが――彼の残された、唯一の温かな避難所であった。
第二幕:闇市場の黒い影
魔鴉クロードが突如として通気窓から飛来した。その嘴には通気封筒が咥えられており、羽翼にはまだ乾ききっていない雨粒が付き着いていた。封蝋には駆魔公安の紋章が刻まれ、薄暗い照明の中で暗紅色の光沢を放っている。
それは、駆魔公安から届いた調査依頼だった。
封筒の中には闇市場の資金報告書、上海港区の貨物コンテナの写真数枚、そして取引現場から回収された魔燼結晶の欠片が収められている。
レイラが結晶を分析皿に置くと、複雑なスペクトルがすぐに壁面へと投影され、まるで血管が張り巡らされたかのような暗紫色の地図が広がった。
レイラの顔色が変わる。「お父様が残した手記と照合してみたわ……この闇市場の買取網の裏にいるのは、当時のあの謎の組織と完全に一致しているわ」
「どうやら、中国へ行く必要がありそうだな」
コルヴォスは黒いロングトレンチコートを羽織った。その眼光は冷たく、まるで氷室から取り出したばかりの鉄のようだった。
……
上海の雨はロンドンよりも密で、そして激しかった。
ネオンの影が石庫門の路地にある水たまりに映り込み、人力車の車輪に踏みつけられては、揺らめく血の赤へと砕け散る。
駆魔公安の連絡員は埠頭でわずか3分間だけ姿を見せ、行方不明者の名簿と闇市場の倉庫の鍵を手渡すと、まるで最初から存在しなかったかのように、途切れなく降る雨のカーテンの中へと消えていった。
「6週間で427人だ」連絡員は低く呟いた。「女や子供はたまに密売拠点で姿が見られますが、大人の男たちはまるでこの街から消えてなくなったかのようにいなくなっている」
「雲来」という名の旅籠。
女将の沈は、行方不明者の名簿に「芊芊」の名前を見つけた瞬間、手にしていた茶壺を床に激しく叩きつけた。砕けた陶器の破片がコルヴォスの靴の脇まで飛び散る。
「あの子は血を見るのが何より苦手で、普段は鶏を潰すでさえ上の階へ逃げ出すくらいだったのに……3日前に彼らにお茶を届けてくると言って出かけたきり……」
彼女が手渡した汚れたシルクのマフラーには、倉庫のものと同じ晶塵が付着しており、それとは別に異常なほどかすかな血の匂いが漂っていた。
クロードが屋根の瓦の間を飛び回り、マフラーの匂いを追跡する一方、二人は沿道の商人たちを聞き込んで回った。靴修理職人は黒いトラックのナンバープレートの下2桁を覚えており、埠頭の少年労働者は、その車が毎週水曜日になると廃紡績工場へ向かっていることを明かした。
薄暗い路地裏で、コルヴォスは右手で右目を覆った。「水晶眼」の幽かな青い光が瞬時に上空の魔鴉と同調する。
「見つけたぞ。東側にあるあの廃紡績工場だ」
コルヴォスとレイラは迅速に建物内へと突入した。見張りの暴力団員たちは銃を抜く隙さえ与えられず、コルヴォスの雷霆のごとき義手格闘術と鋼鉄の剣によって瞬く間に倒されていった。
二人は最上階の暗室で龍芊芊を見つけ出した。
少女は椅子に縛り付けられており、チャイナドレスは埃に塗れ、唇の端には乾いた血の痕が残っている。「妹が……妹がまだ奴らの手に囚われているんです……!」彼女はコルヴォスのトレンチコートにしがみつき、涙を流した。
しかし、レイラはある小さな違和感を密かに心に留めていた。暗室の隅に横たわる3つの暴力団員の死体から異臭が漂っているにもかかわらず、龍芊芊は最初から最後まで一度もそちらを見ようとしなかった。それは恐れているというより、あまりに見慣れている者の反応だった。
第三幕:高階擬態者
龍芊芊の案内のもと、三人は港の近くにある黒社会の秘密地下基地へと直行した。
入口は港区にある廃冷凍倉庫の下に隠されており、冷気が糸のように漏れ出し、湿った空気の中で白い霧となって立ち込めている。
その夜、基地内で凄惨な激戦が勃発した。レイラが後方から錬金道具で火力支援を行い、コルヴォスは闇夜の死神と化して暗金の義手で重厚な鋼剣を振るい、抵抗を試みる黒社会の構成員たちを次々と叩き伏せた。
しかし、コルヴォスが一番奥の鉄扉を蹴り開け、囚われていた住民たちを全員救出したとき、彼の眉間は深く苦々しく寄せられた。
「おかしいわ」レイラは執務室から持ち出した帳簿を広げ、素早く照合を進めながら言った。「ここで救出されたのは78人だけ。でも、ここ2ヶ月で300人以上の大人の男性がこの基地に送り込まれている。転売の記録もなければ、死体もないわ」
まさにその時、それまで後ろで身を縮めて震えていた龍芊芊が、軽やかな足取りでゆっくりとコルヴォスの背後へと歩み寄った。
彼女は唇を舐め、口を開こうとした——しかし次の瞬間、冷たく重い暗金の義手が予告もなく彼女の喉元を押し潰し、冷たいコンクリートの壁へと力自信に縫い付けた!
『ガキンッ――!!』
鋼剣が空を切って一閃し、冷ややかな弧を描くと、剣先は龍芊芊の眉間の一インチ手前で正確にピタリと止まった。
「探偵さん……? 何をするの……痛い……」
龍芊芊の瞳が赤く潤み、涙がボロボロと溢れ出た。
「水晶眼」が薄暗い地下基地の中で刺すような青い光を放つ。彼の声には一切の温度がなかった。
「『雲来』旅籠の時から、お前の演技は過剰すぎたんだよ、高階擬態者」
「うう……何を言っているの、探偵さん……私はただ妹を助けたくて……」
レイラもここで立ち上がり、腰の錬金爆弾に手をかけながら冷ややかに止めを刺した。
「あなたは人混みの中を動き回り、ある少女の名前を正確に呼んだわね。閉じ込められていた時に聞いたと言っていたけれど、あの鉄牢の防音扉は5インチもの厚みがあるのよ。通気管を這って進むトカゲでもない限り、何も聞こえるはずがないわ」
しばしの死寂。
しかし、彼女の喉を掴む暗金義手から異様な振動が伝わってきた——彼女の胸腔から漏れ出る泣き声の周波数が、急速におかしくなっていたのだ。
白い頬にはまだ涙が残っていたが、恐怖に震えていたはずの唇の端が、歪に、少しずつ耳元に向かって引き裂かれるように吊り上がっていった。
「……フフ……」
彼女の泣き声の中に、突如として甲高い気音が混じり始めた。口調は一変し、粘りつくように冷たく、悪寒を覚えるほどの狂喜を孕んでいた。
「……あなた、一体いつから気づいていたの?」
その声はもはや純真な少女のものではなく、数百の粘着質の魂が彼女の喉元で同時に蠢き、重なり合って囁いているかのようだった。
『バリバリッ……!』
彼女の鎖骨の下から赤黒い鱗が急速に湧き出し、まるで生きている甲冑のように皮膚を覆い尽くしていった。
黒い龍の角が額を突き破って生え伸び、血が頬を伝って滑り落ちる。彼女は分かれ舌を伸ばして自らの血と涙を優しく舐め取ると、両目をカッと見開いた。その黄澄んだ縦瞳には、病的な狂気が満ち満ちていた!
「ハハ……ハハハハハハ!!」
彼女は天を仰いで狂笑した。狂暴な魔力が笑い声と共に炸裂し、非人道的な巨力を爆発させて、コルヴォスの暗金義手を力任せに弾き飛ばした!
「まあいいわ! 探偵ごっこはこれで終わりよ——!」
「ズザーッ——!!」
巨大な骨翼が一対、彼女の背中から猛烈に展開し、周囲のコンクリートの破片を粉々に砕き散らした。倒刺に覆われた太い尾が地面を苛立たしげに叩きつけ、深い穴を穿っていく。
もはや「龍芊芊」の中に人間の面影は微塵も残っていなかった。そこにいたのは、人の皮を被った高階擬態魔物そのものだった。
「あの臭い男どもはね……女や子供なんかよりずっと噛み応えがあったわ」
龍芊芊は黄澄んだ縦瞳でコルヴォスを鋭く見据え、口元から腐蝕性の唾液を垂らした。それは床に落ちるとジワジワと刺すような音を立てる。
「奴らの血肉はもうとっくに本お嬢様の養分になったのよ。そしてあんたたち……ここまで追ってきたからには、全員私の餌になりなさいッ!」
「ヴォオオオオ——ッ!!」
第四幕:零距離の滅魔砲
「逃げられると思うなよ、化け物が」
コルヴォスの冷徹な声が地下基地の壁面に木霊した。彼は動揺の色一つ見せず、瞬時に左腕の暗金義手の出力を最大値へと引き上げる。ルーン符文が一斉に血を吐くような赤光を激しく灯し、空間全体の魔力が彼の掌へと狂ったように収束した。
「レイラ、援護を!」
「言われなくてもっ!」
レイラは鮮やかな手つきで腰から特製の錬金爆弾を引き抜き、天井へと投げ放った。爆弾は空中で炸裂し、強烈な閃光と数多の銀色の麻痺針が雨あられのようにハイ・ミミックの巨躯へと降り注ぐ。
「小賢しい人間どもが……ッ!」
ハイ・ミミックは鋭い骨翼をバサリと羽ばたかせ、発生した猛烈な風圧で銀針をすべて弾き飛ばした。だが、彼女の足場がわずかに乱れたその瞬間を、コルヴォスは見逃さなかった。
――遅い。
水晶眼が捉えた相手の致命的な隙に向かって、コルヴォスは漆黒の残像と化して疾走した。重厚な鋼剣が夜空を裂く三日月の如き冷厳な軌跡を描き、魔物の分厚い鱗の装甲へと激突する!
『ガキィィィン――ッ!!』
凄まじい金属音が響き渡り、火花が四散した。しかし、ハイ・ミミックの硬質な肉体は鋼剣を容易く受け止め、彼女は嘲笑うように口の端を釣り上げた。
「無駄よ! 私のこの体は、お前たちの貧弱な刃じゃ傷一つつかないわ!」
「刃で足りぬなら、これでどうだ」
コルヴォスの瞳に氷のような光が走る。彼は剣を捨て、一歩踏み込んで魔物の懐へと飛び込むと、赤熱する暗金の左腕をその胸元へと深く、容赦なく突き入れた。
「滅魔砲——零距離射撃ッ!!」
『ゴォォォォン————ッ!!』
密閉された地下空間の許容量を完全に超越した圧倒的な破壊の光束が、ハイ・ミミックの胸部を芯から直接撃ち抜いた。聖性と毀誉の濁流が体内の魔力コアを粉微塵に蒸発させ、魔物の絶叫すらも飲み込んでいく。
「ア……アアアァァァッ……!?」
巨獣の如きハイ・ミミックの体が内側から崩壊し、黒煙と甘く生臭い粒子となって虚空へと霧散していき、やがてその場には一滴の血すら残さず、ただ静寂だけが戻ってきた。
コルヴォスはゆっくりと左腕を引き抜き、荒い息を整える。内部の機械ギアが「カチリ」と音を立て、再び冷静沈着な探偵の姿へと戻っていった。
上海の激しい雨は未だ止む気配を見せず、石庫門の路地を冷たく打ち叩き続けている。
しかし、この暗闇の深淵に潜む悪の糸口を、彼らは確実に手繰り寄せたのだった。




